EP0 運命の交差点
都内某所にあるボロアパートの一室で、一人の青年が暑苦しそうに、布団の上で寝返りを打った。
その額には止めどなく汗が溢れ出し、低い呻き声を上げている。
「お前たち2人が、この宇宙を統べるのだ。
子を為し、大地を練り、空を描き出せ。さすれば、混沌の中に秩序が生まれるだろう。」
自分でも訳が分からない事を、目の前の見知らぬ男女に向けて語りかけている。これは自分の視点では無いのだと、青年は瞬時に察した。
2人の背後では数多の星が瞬き、鮮やかな閃光が何も無い宇宙を照らし出している。
彼は今、不思議な夢を見ていた。
それが、今日より訪れる"巨大な運命の兆し"であるなど、今の彼には知る由もない。
「あなたはこれから、どう為さるおつもりですか?
私たちと共に、世界創造の儀に加わっては……いえ、それは酷な話でありますね……。」
目の前の男女の片割れ。目が霞んで良く見えないが、美しい女性が自分に語り掛けてくる。
「私は、これより眠りに入る。そして次に目覚めた時には、この宇宙が実り溢れている事を祈ろうと思う。
この願いが果たされれば、私の悲願が成就する日も近いだろう……。では、後を頼んだぞ……。」
夢の中の青年、正しく言い換えれば"青年の視点"の者は、ゆっくりと眠りに落ちていった。
彼の見た短い夢は、これで終わりである。
些細な出来事ではあったが、後に伝説となる彼の人生。その運命の日を飾るには、相応しいと言えるだろう――。
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「坊っちゃん!起きてください!」
「うわぁっ!?」
青年が目を覚ますと、目の前には小綺麗な老翁の顔があった。
モノクルを着け、白髪を整えたその姿は、正に大衆が思い浮かべる"執事"そのものである。
「会社に遅刻してしまいますよ!
目覚ましは出社のニ時間前に掛けるようにと、再三申し上げたはずです!
直属のリムジンを手配しますので、すぐにお着替えください!」
「僕は小学生じゃ無いんだ!24歳だよ!?"坊っちゃん"はやめてよ!」
「しかし、坊っちゃん……いえ、"清也様"……。」
「このままじゃ遅れちゃうけど、リムジンなんて使わない!バスで行くよ!」
この、あからさまに子供扱いされている青年、と言っても既に24歳であり社会人でもある男こそ、後の世に語られる伝説、その主人公"吹雪清也"である。
カビの生えたボロアパートに似つかわしく無い、"リムジン"と"坊っちゃん"と言う単語、それは彼の生い立ちが富豪である事を暗に物語っている。
「えぇっと……Yシャツはここに……あった!」
押し入れを勢いよく開け、慌ただしくYシャツを引っ張り出した。
昨晩はアイロンをしていないので、全体的にシワだらけである。
「社長の御子息ともあろう方が、そんなシワクチャな衣服を着て良いわけありません!
やはり、新品を買って来て正解でした……。」
そう言うと、用意周到な執事は背後から新品のYシャツを取り出した。無論、国内最高レベルの高級品である。
しかし、清也はそれを渡されたが――。
「いらない!僕の落ち度でこうなったんだ!自分でアイロンを掛けてから行く!」
「し、しかし!それでは会社に……。」
「遅刻の連絡はするよ。僕が居なくても、仕事は問題なく回るし……。」
清也はガッカリと肩を落とした。それは、遅刻がほぼ確定したからでは無い。
"自分は必要無い"と言う感覚が、自尊心のような感情を強く刺激していた。
「わ、分かりました……。
本社近くのランドリーに、有料のアイロンスペースがございます。そこをお使いになると良いでしょう……。」
「ありがとう。……あっ!そのYシャツ、まさかポケットマネーで買ったの!?」
清也は突然、ハッとしたように執事の顔を見つめ返す。
「えぇ、勿論でございます。
坊っちゃんが貧相な服を着ていくなど、私としても到底耐えられることではございません。
僭越ながら、私の財布から払わせて頂きました。……お気に召しませんでしたか?」
「ダメだよ!後でお金は返すから!何円だった!?」
「えーと……5000円……くらいだったと思います。」
「……で、本当の値段は?」
流石に、嘘があからさま過ぎた。
執事の顔は間違いなく、清也に気を遣っているのだ。
「……75000円です。」
「えぇっ!?何で、そんなに高いのを僕に!?」
「安物を着せる訳にはいきませぬ!
現社長である"旦那様"と、会長である"ご当主様"にも申し訳が付きません!
清也様は私にとっても、失礼ながら孫のような存在でございます。この程度、何ら痛い出費ではございません。」
「そ、そっか……。」
「なのでそれは、老翁からのプレゼントとお思い下さい。朝食と昼食も、既にお作りしております」
「うん……。」
清也は少し不服そうな顔をすると、朝食を急いでかき込んだ。執事の方は、清也をジッと見つめたまま、心配そうにしている。
出された食事をすべて食べ終わった後、清也は不思議そうな顔で執事に質問をした。
「ジィ~っと僕を見ていたけど、何かあった?」
「いえ、何もございません。ただ、喉に詰まらせないか心配で……。」
「幼稚園児じゃないんだから、流石にそれは無いよ!」
清也は呆れたような声を出すと、急いでスーツを着た。まるで逃げ出すように玄関へと向かっていく。
「清也様!お待ちください!!」
「もう!みんな過保護すぎるよ!!!これじゃ、一人暮らしの意味が無いでしょ!?」
半ば憤慨気味に、清也は執事に対して不満を述べる。
生活力を上げるために始めた一人暮らしに、執事の介入があったのでは何の意味が無いのも確かである。
しかし、執事はそんな事を気にする事も無く、清也の方にソソクサと歩み寄って来た。
「清也様……ネクタイの着け方が全然違います……。
それでは首吊りでしょう…………よし、出来ました。
気を付けて、行ってらっしゃいませ。……赤信号は渡っちゃダメですよ!!!」
「う、うん……分かった……ありがとう……。」
清也は不甲斐なさで顔を真っ赤にしながら、足早に家を出て行った。
執事は清也が去った後、誰もいないアパートの一室を熱心に掃除し始める。
埃を払い、布団を干し、散らかった皿を片付ける。
どれもこれも、本来なら清也が行うべきことだろう。
しかし執事は、彼に方法を教えるよりも、自らの手でこなす事を選んだ。
これは何も執事に限ったことでは無く、教師、講師、父親、祖父、上司、部下……彼を取り囲む全員が彼の望む”自立を促す姿勢”でない事を、誰一人として悟っていないのだ――。
年季と気品を感じさせる鮮やかな手つきで、清掃を終えた執事。僅かに汗を垂らす彼の顔は、どこか満足げだ。
「これで坊ちゃんは今日も快適に過ごせます♪」
なんとも虚しい話である。
吹雪清也がその家に戻る事は、”金輪際ない”と言うのに――。
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「はい、吹雪清也です。経営企画部専務です……はい……一時間後のミーティングには、常務の太田さんに変わって貰います。
……はい、彼なら大丈夫です。よろしくお願いします。……遅れて本当に申し訳ありません……。」
ランドリーで明日のワイシャツにアイロンを掛けながら、清也は遅刻の連絡と謝罪の電話をしていた。
24と言う年齢に似合わない、専務と言う肩書き。
それは彼が社長の一人息子であり、次代の吹雪カンパニーを担う男であると示している。
「はぁ……。僕何て飾りだし、むしろ太田さんの方が百倍専務に向いてるのに……。」
既に焦げてしまっているシャツに気付かずに、ひたすらアイロンをかけ続けている。
「会議には、どうせ間に合わない……。
僕が行ってもお荷物なだけ……はぁ……。」
清也は金を稼ぎたいわけでは無い。
ただ一つ望む物があるなら、それは”自立”である。
幼少より"親の七光り"と嘲笑されても、何ら言い返せないほどに気が弱かった彼には、友人がいなかった。
損得勘定有りで近寄って来る者は多いが、共に成長できるような友人などは一切いない。
恋人なども出来たことが無く、縁談は全て自然消滅した。
「何か、僕にできる事は…………あっ!」
清也は一つだけ自分にできる事を思いついた。
否、しなくてはいけない事を思いついたのだ。
「爺にプレゼント返しでも買ってあげよう!まずはそこからだよね!……うわっ!焦げてる!?」
真っ黒に焦げた袖を見ながら、清也は大きくため息をついた。
しかし、すぐに気持ちを切り替え、執事への恩返しのプレゼントを何にするか考え始めた。
「う~ん……売ってる物をあげるだけじゃ、気持ちが伝わらないよね……。
でも、ミシンの使い方が分からないし裁縫は無理……。」
独り言を呟きながら、ワイシャツを片手に通りへと出る。
ランドリーの外は大勢の人でごった返しており、人通りもさる事ながら車通りも多すぎるほどだ。
「う~ん……う~ん……。」
小さく唸りながら、歩道をゆっくりと歩んで行く。
腕を組み、ひたすらに首を傾げながら、朝の通勤ラッシュの波を超えていく――。
ドサッ!
「うわっ!」
前方不注意だった彼は、前から来た通行人と衝突してしまった。
乱れた着衣を直しながら、慌てて相手に謝ろうとする。
「前を見てませんでした!ごめんなさ」
言葉が、最後まで出なかった――。
誰の目から見ても、その男の雰囲気は異常だった。
誰よりも果てしない"プレッシャー"と、自然と傍を人が避けていく感覚。
他の人間に、彼は見えていないのか。それとも、"見てはいけない"と感じているのか。
誰もが視線を逸らし、誰もが傍を通りたがらず、誰もが彼を恐れている。そんな、不思議な感覚だった――。
身長が極端に高いわけでは無い。日本人から見れば高い方だが、欧米人と並べば叶わないだろう。
そんな男が全身を、頭髪の末端から足の指先に至るまで、全てを"黒いマント"で覆っているのだ。
五月と言う、春真っただ中には似つかわしくない格好の男は、ゆっくりと口を開いた――。
「お前は、何を為せる?」
「……はい?」
出し抜けに、こんな事を聞かれては清也も困惑する。
しかし男は、混乱する彼をよそに話を続ける。
「今度こそ、救えるのかと聞いてるんだ。」
「…………???」
彼が何を言っているのか、清也には分からなかった。
大げさに首を傾げて、"理解不能"のジェスチャーを送るが、男はうわ言のように呟くばかりだ。
「私はお前が嫌いだ。
小僧、お前みたいな青二才が、なぜ伝説になったのか分からない。
だからこそ……教えてくれないか?その答えを……私に……。」
それだけ言うと、男は故意で清也に肩をぶつけて、雑踏の中へと消えて行った――。
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「えへへ♪爺、喜んでくれるなぁ……!」
男とぶつかった場所は、偶然にも高級時計店の前であった。
そこで清也は、執事が私用の時計をちょうど先日、破損していたことを思い出し、懐中時計を贈ることに決めたのだ。
それも、ただの時計と言うわけではない。
時計店でしか買えないような、非常に珍しい品である。
「メモリーズ・クロック!良い名前だな……!」
写真と音楽をUSBメモリに保存し読み込ませ、側面から差し込む。
思い出の写真が羅針盤に映し出され、オルゴール調に自動翻訳された音楽が、短針が時を刻むたびに流れるという物であった。
子供のように無邪気な笑顔ではしゃいでいる彼に、水を差すような事は言いたくない。
だが、執事が破損したのは腕時計であって、懐中時計ではない。
貰っても困る物を買って、彼は喜んでいる。そういう所が、間抜けだと言われる所以なのだ。
しかし、それを差し引いても、執事は孫のように可愛がっている清也からの贈り物に、狂喜乱舞することが予想される。
皮肉な話だ――。
もし清也が、執事への労いなどを考えない、所謂”ドラ息子”であったなら、彼は今頃とっくに”運命の交差点”を渡り切っていた。
生と死を分かち、退屈と冒険を分かつ交差点。人生の分岐点と言えば、理解が早いだろう。
しかし、彼は人への”敬意”を忘れない青年であった。
確かに、自立しているとは言えない男だ。
だが、家族や従者からの愛を注がれて育った彼は、優しさに満ちた青年に、他ならなかった。
少なくとも今の彼に、後の世で”死神”と呼ばれる男の片鱗は見えない――。
「それにしても……さっきの人……僕のせいで不快にさせちゃったかな……。」
些細な事にも、清也は細かく気を配っている。
無能であっても、人の邪魔だけはしない事を、彼は普段から心がけていた。
そして彼は今、淡々と歩いている。
特に感慨もなく、いつも通りの見慣れた街並みを瞳に映しながら。
そうして歩き続けるうちに、先程のランドリーの場所まで戻ってきた。
「よし、あと二分も歩けば……。」
時計を確認しながら、独り言を呟く。
彼にとって、今日はいつもと変わらない退屈な日。明日からも続く、つまらない人生の1ページに過ぎないのだ。
いや、そのはずだった――。
もしも、あと一分早くここへ来ていたら。
もしも、あの男にぶつからなかったら。
もしも、彼がリムジンで通勤していたら。
もしも、彼の執事が時計を破損しなかったら。
無限に存在する選択肢。
その奇跡的な偶然の中で、彼の"運命"は遂に1人の女性と"交差"した。
その出会いは、運命と言う名の”必然”に約束されていたと言っても過言ではない――。
「えぇっと、ランドリーがあっちで……あっ。」
先ほどまで利用していたランドリーに、自然と目をやる。
そして、そこから出てきた女性に、彼は一瞬にして目を奪われてしまった。
セミロングの茶髪で、黒い服を着た女性。
彼女は、自らの物と思われる白衣を、片手に抱えて走っている。
急いでいるのだろう。
しかし無我夢中で走っている中でも、全身から溢れる色気が、周囲の中で彼女だけを完全に浮かせている。
(き、綺麗だ……。あんなに美しい人が、この世にいるのか……。)
完全な一目惚れである。
しかし、運命が交差したのはこのタイミングでは無い。
ここで終われば、間違いなく他人のままで一生を過ごし、二度と出会う事は無かっただろう。
しかし、またも偶然が重なった。
(あ、同じ方向に行くのか。)
清也に、初対面の女性に話しかける勇気など、あるわけない。それも、何の接点もない女性に。
しかし、自然と目で追ってしまう。視線が吸い寄せられると言うのが、感覚としては正しいだろう。
そして、2人は同じ交差点で信号を待つ事になった。
背後には、多くの通行人がひしめき合い、取り止めのない会話をしている者も多い。
しかし清也はそれでも、彼女から目が離せなかった。
彼女から一瞬でも目を離せば、線香花火のように散ってしまう。そんな気がしたのだ――。
赤信号が青に変わり、一斉に通行人が動き出す。
「あっ!危ないっ!!」
「え?」
彼の瞳には、信号を無視したトラックが映っていた。
大通りのど真ん中を直進して、凄まじいスピードで接近する車両に、多くの人は気付いた。
訝しく思い、誰もが立ち止まる。進めば轢かれるが、歩道に居れば安全。そう思ったら、誰もがその場に留まるだろう。
ところが、前を歩いている彼女は、接近する信号無視の車両に気づいていない。
清也は鋭い声で叫んだ。しかし、もう間に合わない――。
その一瞬は、まるで永遠のようだった。
凍りついた時の中で、急速に思考が回転する。
(ここで止めに入れば、僕はきっと死ぬ……。嫌だ、死にたくない……!)
ここまでが常人の発想である。
これが人間として正解と言っても、何ら過言ではない。
しかし清也は、そこで終わらなかった――。
(でも、止めなきゃ一生後悔する!……変わる!変わるんだ!!
死んだように生きる日々を過ごすなら!僕は……こんな人生惜しく無い!!!こんな僕でも!1人の命を救えるなら!!!)
凍りついた時が動き出した。走り出した体は止まらない。
(ま、間に合えっ!間に合えぇぇッッッッ!!!!!)
心の中で絶叫するが、あと一歩距離が足りない。
もう無理だと、諦めかけたその時――。
「世話の焼ける小僧だ。満足に死ねもしないのか。」
背後から、呆れたような声がした。
それと同時に彼の体は、大きく前のめりに押し出された。
女性の背中と、彼の細い右手のひらが力強く接触する。
その時、不思議な事が起こった。
手先が背中と接触した瞬間、天空から降りて来た"青白い光の渦"が2人を包み込んだのだ。
沸々とした感覚が全身の血管を駆け巡り、体が自然と浮いてしまう。
そして直後に、清也は意識を失った――。
数多の偶然が重なって生まれた必然は、2人の数奇な運命を交差させた。
ここで出会ったのが彼女では無くても、清也は命を張っただろう。
しかし、彼女とここで出会う事は、遥かな過去から定められた巨大な運命の1ページなのだ。それは決して揺るがない。
彼はまだ知らない。
運命の巨大な歯車が自らの人生を巻き込んで、力強く回り始めている事を――。
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都内有数の高層タワー、吹雪カンパニー本社の頂点。
針ほどの細さの避雷針の先端に、その男は片足で立っていた。
バランスを崩せば串刺し。
もしくは、転落死を避けられないだろう。しかし彼は、平然とした様子で直立している。
漆黒のマントがビル風に煽られ、パタパタとはためいていた。
腕を組んだまま眼下を見下ろす男は、それとなく瞑想しているようにも思える。
「……来たか。」
男はそう言うと、男は足先を避雷針に置いたまま、クルリと振り返った。
今度は先端に立っている程度ではない。
どう見ても、何も無い空中に"人が浮いている"。
いや、よく見ると、それは人ではなかった。
その姿が、地球で人間と名乗るには、似つかわしく無いのだ。
彼女には、尻尾と獣耳が生えており、長い金髪が風に煽られて大きく揺れている。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません。つい先ほど、死亡が確認されました。」
「よし、ここまでは予定通りだな。……ある程度の記憶封じは効いてそうか?」
「はい、事故の直前の記憶はかなり曖昧になっているかと。」
「良くやった。……すまない、私はこの世界でやる事がまだある。先に行っといてくれるか?」
「了解しました。マスターの武運をお祈りしております。」
それだけ言い残すと、宙に浮いた不思議な少女は遥か上空へ、旋回しながら上昇して行った。
「武運……か……。流石に、こんな場所でやり合うつもりは無いが……。まぁ、用心はしておこう。」
男はそう言うと、そびえ立つ高層タワーの屋上から、眼下に広がる東京の街並みへ、平然とした様子で身を投げ出した――。
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