番外編 恋の病(レゼダとイリス)
フロレゾン王国第二王子レゼダ・ド・ゲイヤーは悩んでいた。
歴史の授業中、窓の外を眺めながら思わずため息をつく。
その物憂げな様子を見て、周りの女子生徒はおろか男子生徒まで思わずホウと息をつく。
レゼダは何しろ美しい。薔薇の花から紡ぎ出したかのような朱鷺色の髪。ピンクサファイヤのようにきらめく瞳。つるりとした傷一つない白い肌に、寸分の狂いのない造形は生物の域を超えている。
その上、魔力は強く、武術にすぐれ、学問にも秀でている。
そんな非の打ちどころのない王子を思い悩ませるのは、ただ一人の人物。
騎士の家系の侯爵令嬢イリス・ド・シュバリィーである。
校庭ではイリスのクラスが魔法の実技訓練をしている。相変わらずイリスは魔法が発動できず、杖を振っているだけだ。しかし、その姿はひた向きで凛々しく、誰よりも美しい。
ああ、僕の婚約者がかわいい……。
レゼダはそう思いつつ、心は暗い。
だけど、なんで、僕が避けられるんだ!?
そう、レゼダは最近イリスに避けられているのである。
紆余曲折あり、やっと「正式に婚約を」というところまでこぎつけたレゼダとイリスの二人である。本人同士はもちろん、両家の間でも同意は取れており、なんなら日取りだって決まっていて、後は結納の日を迎えるだけなのだ。
それなのに、レゼダはイリスに避けられている。しかも、結構あからさまである。
イリスの性格上、それに裏があるとは思えない。彼女は感情と体の動きが一致してしまう、いわゆる脳筋に分類されるタイプなのだ。だからこそ、逆に思い悩む。裏もなく避けられているのだとしたら、そちらの方が問題だ。
ここ数日は一緒に昼食も取れていない。いくら食堂で待っていてもイリスがやってこないからだ。
どこで食べているのだろうかと思えば、カミーユにパンやクッキーなどの持ち出せる食事を運んでもらい、庭の片隅で詰め込むようにして食べていた。侯爵令嬢にあるまじき姿である。
そこまでして避けられるなんて、さすがに傷つくんだけど……。
レゼダはまた一つため息をつき、校庭で杖を振る愛おしい人を見る。教師の声など耳には入ってこない。
ふと校庭のイリスが顔をあげ、レゼダを見た。思いがけず目が合って、レゼダは喜び破顔する。久々にイリスと目が合ったのだ。
小さく手を振れば、イリスは慌てて背を向けた。
……授業だもんね。仕方ないか。それとも強引すぎて嫌われたのか……。
レゼダの桜色の唇から零れ落ちる吐息は、教室の生徒たちの心を震わせた。
フロレゾン王国侯爵令嬢イリス・ド・シュバリィーは悩んでいた。
何しろ、近々婚約する第二王子レゼダを見ると胸がドキドキとして苦しいのだ。
今まではなんとも思っていなかった仕草の一つ一つに過剰反応してしまう。
今も窓辺で授業を受けるレゼダの横顔を見て見惚れてしまったところだ。
遠く離れた二階の教室。窓越しの姿なのに、そこから光が溢れてくるようでズーム機能が瞳に直接ついたように、レゼダだけが嫌にクッキリと際立って見える。
レゼダ様ってあんなに素敵だったかしら?
校庭で魔法の授業を受けながら杖を振り思う。
授業中! 集中しなくっちゃ! 自分の魔法は発動できなくても、ソージュ様の力を借りる時に格好悪いのは嫌だわ。
気合を入れ直して、杖を振る。
そうやって杖を振り、ふと顔をあげると窓越しにレゼダと目が合った。
ぎゃぁ! 心臓に悪い! 見てたのバレちゃったかしら? どうしよう! 恥ずかしい!!
イリスは慌てて教室に背を向ける。ブルンと緑の巻き髪が跳ねた。
放課後、イリスはキョロキョロと周囲をうかがい、レゼダがいないことを確認してから足早に教室を出た。
イリスはレゼダを避けている。自分でもよくないとわかっているが、どうしても避けてしまう。なぜなら。
だって、だって、恥ずかしい!!
今まで、ただの幼馴染、男友達の悪戯の共犯者、そう思っていたレゼダと突然婚約だと言われて戸惑っているのだ。
土痘の痘痕を持つイリスは、結婚などとうの昔に諦めていた。社交の場に出れば差別されるのだ。社交ができない妻など、貴族の妻として望ましいものとは思えなかった。
そもそも、結婚できるという選択肢はイリスのなかに無かったし、それについて悲観的ではなかった。生きてさえいられればいい、そう思っていた。
その上両親も、レゼダの根回しを受け、結婚するならレゼダだろうと思っていたため、イリスにその手の教育をしてこなかったのだ。
なぜなら、妃として必要な教育はレゼダが手ずから行っていたからだ。余計なことはすべきではない、両親はそう考えた。
しかも、イリスの望むまま、社交にも深くかかわらせずにいたために、イリスには同年代の女友達がいない。
そんな理由が重なって、レゼダとの婚約が正式になって初めてイリスは大きな問題に直面した。
恋愛のルールとマナーである。
レゼダの妻になるには、社交の席での恋愛ルールやマナーを知っておかなければならない。第二王子の妻が、「知らなかった」という理由で他の貴族と浮名を流しては困るからだ。
しかし、さすがのレゼダもそこまでイリスに教えることはしなかった。マナーに則り距離をとられることを嫌ったのだ。
そのせいでイリスは男性との距離感に無頓着のまま、ここまで来てしまった。そもそも、男性はおろか女性ですらイリスに近寄ろうとしなかったから、人との適切な距離感とは無縁だったのである。
だって、組紐で閉じられた手紙がラブレターだなんて知らなかったんだもの!
あの日、レゼダの手紙は組紐で結ばれていた。イリスはそれをニジェルから奪い取り、自分も同じように組紐で結んだ手紙を送り返したのだ。
あれって、ニジェルもお母様も、そう思ってみたってことよね?
気が付いて赤面するイリスである。家族の前でラブレターを奪い取る娘がどのように見えるのか。
すっごく、殿下のこと大好きな感じだったわよね?
のたうち回りたくなるほど恥ずかしくなる。その他にもいろいろ思い出す。同じアイスをわけあって食べたりなど、今考えればラブラブでしかない。
それに「女性から男性を押し倒すのは誘惑」だとかって、知らなかったんだものー!
イリスはつい先日学園内で公然とレゼダを床ドンしたことも思い出す。「ふしだらじゃ」と騒ぐ妖精の声が聞こえるようだ。
そういう意味じゃなかった! レゼダ様もわかってるはず! でも、もう、顔が見られない!
イリスは、レゼダを見るたびに恥ずかしくて仕方がなくなってしまうのだ。
あの美しい唇で、あのとろけるようなまなざしで、深く心に刺さる声で、レゼダは言った。
―― 君とずっと一緒にいたい ――
レゼダの気配を感じるだけで、あの一瞬を思い出しブワリと顔が赤くなる。廊下に残されたレゼダの残り香。廊下ですれ違う影が重なり合うだけで、嬉しくて嬉しくて、ドキドキと胸が高鳴り、恥ずかしくなって身もだえる。
今、この一瞬もレゼダを思い出し、イリスは頬を押さえた。
学園にいると心臓に悪いわ。早く寮に戻ってしまおう。
そして、頭の中をしめているレゼダを追い払うように頭をブンブンと振り、鞄を抱きかかえそそくさと走り出した。
学園の玄関へでる。
そこに少し不穏な顔つきなレゼダが佇んでいて、イリスは足を止めた。そしてそのまま180度回転し、逃げ出そうとした瞬間、無言で腕を取られる。
しまった! 遅れをとった!
レゼダに対しては長年の信頼関係でどうしても緊張感がなくなってしまう。反射が遅くなりがちだ。
後ろから抱き込められ、ウエストをギュウと締められる。肩のあたりにレゼダの額があたり、髪が、息が、イリスをささやかに撫でる。
無理、もう、無理!
イリスは涙目になり、レゼダの腕をはがそうとする。
しかし、びくともしない腕にイリスは戸惑った。
うそ、授業では負けたことないのに。
「レゼダ様、放してください」
「……レゼダ、です」
「レゼダ、お願い」
「嫌です。放したら逃げるでしょう?」
肩にくぐもるレゼダの声が、涙声に聞こえる。
イリスは息を飲んだ。
「なぜ、避けるの? そんなに僕が嫌? もう何日も話してない。理由がわからなくて苦しいよ。嫌いになったならそう言って」
レゼダの声にイリスは胸が押しつぶされそうになった。
「違います。あの、……恥ずかしくて、ドキドキして」
イリスは絞り出すようにして答えた。耳まで真っ赤に火照っている。嫌いだなんて間違っても誤解されては困るのだ。
レゼダが顔をあげてイリスを見た。
イリスの横顔はユデダコのようだ。
「恥ずかしい?」
「いろいろ、その、今までのこととか、あの、無意識にしていたことが……まるで、恋人同士のようだったと気が付いてしまって……」
モニョモニョとレゼダから顔を背け、イリスはそれでも一生懸命に説明する。イリスはレゼダを改めて恋人として意識し始め、その心の動きに戸惑っているのだ。
レゼダはプッと吹き出した。
「それでドキドキするの?」
イリスは無言で頷いた。
ドキドキして恥ずかしいから、逃げ回ってたというの? 僕の婚約者、あまりにも可愛すぎるでしょ?
レゼダはギュッと腕に力を込めた。
「レゼダ様」
戸惑うイリスの首筋に、レゼダがチュっと口づける。
「っ! レゼダっ!」
「困ったね。イリス。僕といると恥ずかしいだなんて、婚約者の務めが果たせないよ? これから一緒に社交することも多いのだし」
イリスはレゼダの腕の中でギクリと体を強張らせる。
「あの、やっぱり、私、相応しく……」
不安に揺れるイリスの声。
「僕はイリス以外と結婚する気はないよ。だから、練習しようか?」
「練習?」
レゼダは腕を解き、イリスの横から緑の瞳を覗き込む。
「うん。僕ら二人なら何でも乗り越えられるよ?」
信頼しきった顔で、レゼダの顔をうかがうイリス。
赤くなった眦に潤んだ緑が鮮やかで、レゼダは息を飲んだ。
これは、イケナイ。
「まずは手を繋ぐところから」
スルリとイリスの手を取って、指と指を絡ませる。
「あっ……」
イリスは羞恥のあまり下を向く。落ちた緑の巻き髪の間から、熟れた桃のような首筋が現れる。柔らかくて簡単に傷ついてしまいそうで、触れてはいけないと思いながらももぎ取ってしまいたい。
「今日はこのまま送っていくよ。……毎朝、迎えに行くからね」
「まいあさ……」
「うん。手を繋いで登校しよう? 練習しないといけないから。だめ?」
「……いえ、そんな、……あの、ありがとうございます……」
俯いたままのイリス。堂々として溌溂な今までのイリスからは想像できないか細い声。
きっと、僕しか知らないイリス。
つながった掌が汗ばんで熱い。掌で交わる二人の汗。
何度も一緒にダンスをしてきて、こんなことは今更だ、レゼダはそう思いつつ、それなのにイリスのドキドキがうつったようにレゼダの胸も高鳴ってくる。
幼馴染じゃなくなったんだ……。
レゼダもじわじわと顔が熱くなる。嬉しさがこみあげてきて、左手で思わず自分の口元を覆った。
きっと、だらしない顔をしているよ。
情けないと思いつつ、自分にそんな顔をさせるイリスがたまらなく愛おしいレゼダなのだった。
日間恋愛異世界転生/転移ランキング1位の記念とお礼を兼ねての番外編です。
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