58 レゼダとイリス
イリスは顔が青くなった。
イリス自身は何も変わっていない。それなのに、見る目だけが一夜でがらりと変わってしまった。
そのことに嬉しさよりも空恐ろしさを感じてしまう。
ギュッと木の幹を抱きしめる。
「おいで、イリス。もうホームルームが始まるよ」
レゼダがイリスに向かって手を広げた。まるで悪戯を誘うよな、ちょっとおどけた目でイリスを見た。
レゼダの瞳は子供の頃から変わらない。良いことも、ちょっと悪いことをするときも、その朱鷺色の瞳といつも一緒だった。
「早くここへ戻っておいで」
レゼダの言葉に、周囲の女子がキャーっと叫ぶ。
妖精たちが、王子様みたーいとワキャワキャと飛び跳ねる。
「さあ、イリス! いこう!」
妖精たちがイリスの背を押した。イリスは妖精たちを見て微笑む。
イリスは木の幹に立ち上がって、レゼダの胸に向かってジャンプした。
レゼダは窓から伸ばした腕でイリスを抱きとめ、校舎の中になだれ込む。
レゼダがクッションになる形で廊下の床に二人で転がる。
「やっと捕まえた、本当にイリスはお転婆」
レゼダが笑う。イリスは慌てた。
「レゼダ様、ごめんなさい!」
慌てて起き上がろうとするイリスの腕をレゼダがとる。
グッと強くなった腕の力に、イリスは驚いた。ギュッとイリスを引き寄せ抱きしめる。
「怪我がなくてよかった」
安堵するようなため息交じりのレゼダの声を、イリスは彼の胸の上で聞いた。息苦しいくらいにレゼダの腕の中は熱い。
「あの? レゼダ様?」
レゼダから離れようと、そっと胸を押せば、あっけなく腕を離される。
イリスはすこし拍子抜けして、なんだかちょっと寂しく思う。レゼダを押し倒したまま彼の顔を覗き込んだ。
巻き髪がサラリと落ちて、レゼダの頬をくすぐる。
「どうしたの?」
レゼダが照れたようにはにかんで笑って、イリスの巻き髪を引っ張って離す。ビョンと髪が跳ねる。
イリスの胸もはねた。
どうしたの? って、ちょっと寂しいって何よっ! その前に王子を床ドンしてるぅぅぅ?
「し、失礼いたしました。あ、あの、私……」
イリスは慌てて身を起こす。耳まで火照って、真っ赤な顔をしている。
レゼダは幼い日のガゼボを思い出して、クスクス笑う。レゼダの告白に驚いてイリスに力いっぱい押されて、二人でしりもちをついたのだ。
レゼダを地べたに倒すなんて、後にも先にもイリスだけ。イリスにしかできない。
「不敬だなんて言わないよ」
身を起こしながらレゼダは言う。
その一言で、イリスはあの日のことを思い出した。
― 僕は君が好きだよ ―
イリスはバッと顔を押さえた。
反射的に逃げ出そうとするイリスの腕をレゼダがとる。
「どうしたの?」
レゼダがニッコリと微笑んだ。イリスは自意識過剰だと気が付いた。レゼダが今何かを言ったわけではない。ただの思い出しテレである。
それに、イリスは聖なる乙女になれなかった。「聖なる乙女に選ばれた暁には、正式に結婚を申し込む」とレゼダは言ったが、その後何も言ってこない。聖なる乙女になれなかった時点で、あの約束は消滅したのだ。ホッとする反面、少し胸が痛んだイリスだが、その理由はわからなかった。
「イリス。一人でいったら、またさっきの二の舞だよ」
生徒たちの輪はまだ二人を取り囲んでいる。ここでイリスが一人で逃げ出せば、レゼダの言う通りまた追われるだろう。
「うっ」
イリスは呻く。
それは、こわい。
貴族社会で弾かれていたイリスだ。こと男女間における、上手なあしらい方や、失礼にならない躱し方など身についていないのだ。
「さあ、手を取って。イリス。教室まで送ろう」
レゼダが差し出した手をイリスはオズオズと掴んだ。
レゼダは満足げに微笑むと、流れるようにイリスの肩を抱き、取り囲む生徒たちに対峙する。
「それと。学園内で彼女を追いかけまわすのは止めてくれないかな? 学業に障りがあるし、何よりも危ない」
穏やかに諭すような声色に、周囲の者は頷いた。
周囲の理解を確認し、レゼダは黒く微笑んで威圧の魔法を一瞬だけ発動する。
「イリスを傷つけたら許さないよ」
ゾクリとするほどの攻撃的なオーラを向けられた生徒たちは、ザっと一歩下がった。
「?」
レゼダの顔が見えなかったイリスには何が起きたかわからない。そもそも、イリスは威圧の魔法も感じにくいのだ。
キョトンとしてレゼダを見れば、すでにレゼダはいつも通り優しい笑顔だ。
「??」
生徒たちをみれば、顔をこわばらせて一斉に頭を下げて散っていった。
「???」
イリスはあっけにとられる。
「あの?」
レゼダを見れば、レゼダはやはりいつも通り優しげなのだ。
「みんなわかってくれたみたいだよ。良かったね、イリス」
さすがレゼダだ。いつだってイリスの手に余る問題を、簡単に解決してくれるのだ。
「ありがとうございます! 助かりました」
レゼダは無言で笑って、イリスの頭をポンポンと撫で、何もわかっていないような無垢な笑顔に苦笑いした。