56 ニジェルとカミーユ
朝、イリスが女子寮の廊下を歩いていると、不意に同級生に呼び止められた。何人か集まっていて、じゃんけんにでも負けたのか、そのうちの一人が声をかけてきたのだ。
今までそんなことがなかったのでイリスは驚く。
「あの、突然こんなことを聞くのはおかしいと思うんですけど……」
そんな前置きをして、モジモジとする同級生。
「イリス様はレゼダ殿下と婚約はされてないということで間違いはないですか? あの、失礼だとは思ったんですけど、確認をしてほしいって……」
どんどん俯いて小さくなる声は最後まで聞き取れなかった。
きっと、あのグループの中の一人が、レゼダのことが好きに違いない、イリスはそう思った。
今度こそ、メガーヌの時みたいに失敗しないのよ。
怖がらせないようにしなくっちゃ!
「ええ。殿下と私は婚約していません」
イリスはにっこりと微笑んで、事実をきっぱりと答える。
するとグループの女子たちが、わらわらと集まってくる。
「あの、イリス様はどなたかとご婚約を?」
「まさか」
イリスは笑う。今までそんな話は聞いたこともない。そもそも、土痘の痕が残るイリスに婚約を申し込む貴族などいない。
「イリス様、我が家のお茶会に来て欲しいのです」
「私には兄がおりましてっ」
「あの、私の弟は一つ年下なんですけれど」
「魔導宮に従兄が勤めていて」
いきなり全員で話し始めて、イリスが面食らってみれば、彼女たちはお互いに睨みあった。
「私が初めに話しかけたのよ」
「じゃんけんに負けただけでしょ?」
「声かけられないって言ったのは誰?」
「私の従兄が一番年上だから年齢順よ!」
言い争いがはじまって、イリスはポツーンとなる。イリスは意味がわからずに、とりあえず微笑んだ。学園へ行く時間に遅れてしまう。
「あの? 私、先に行ってますわね? お話がまとまってからまた声をかけていただける?」
まったくいったい何の騒ぎなのだろう。土痘に罹ってからお茶会に招待してくれるのはレゼダぐらいのものだったのに。
イリスは女子寮を出て校舎へと向かっていく。
イリスを見かけた生徒が振り返る。あからさまにイリスを見る者がいる。
いったいなんなのよ。巻き髪反対回りだったかしら?
イリスは自分の巻き髪をつまんでみる。いつも通りだ。
「おはよう。イリス嬢」
突然声をかけられて、イリスは足を止めた。学年バッジから上級生だということがわかるが、面識のある相手ではない。
「おはようございます」
イリスは答える。
「イリス嬢に確認したいのだけど、レゼダ殿下と婚約していないというのは本当かい?」
唐突に何なのだろう。先ほどもされた質問だ。流行っているのだろうか。
「はい。しておりません」
イリスの答えに、やった、とかウッシ、などと小さく呟く男子学生たち。イリスにはもちろん聞こえていない。
「では……」
先輩が言いかけた時。
「イリスさまぁぁぁぁ」
半泣きのカミーユが駆け寄ってきた。イリスの腕に縋りつく。
「どうしたの、カミーユさん」
カミーユは困った顔で周囲をチラチラとみる。多くの男子学生たちがカミーユに熱い視線を送っている。どうやら一緒に登校しようと追いかけてきたようだ。
さすがヒロイン! モテモテなのね! 今までは平民の娘だったから、親の反対を心配してたけど、伯爵令嬢となれば話は別ってこと。しかも聖なる乙女だし。
イリスは納得した。カミーユは突然の男子からのアプローチに、どうしていいのかわからずに弱り切っていたのだ。
「教室まで送って差し上げてよ」
イリスはカミーユにそう言うと、目の前にいた先輩に「ごきげんよう」と頭をさげ、スタスタとその場を後にする。
カミーユを教室まで連れて行き、中を確認する。ニジェルはいたがレゼダはまだいなかった。
「ニジェル」
イリスの声に、クラス全員が入り口に視線を向けた。話題の二人に注目が集まる。正式なお披露目はまだだが、結果発表に出席した貴族の間からカミーユが聖なる乙女に決定したことが伝わっているのだ。
さすがカミーユたん。
イリスはカミーユのヒロイン力に感心する。
ニジェルが慌ててイリスのもとに駆け寄ってくる。
「珍しいね」
「ええ、カミーユさんがお困りのようだったから送って差し上げたのよ」
イリスが答えればカミーユは恐縮したように身を縮めた。
イリスは声を潜めて、ニジェルにささやく。
「カミーユさんが男子に追いかけられていたのよ」
イリスの声に、ニジェルが周囲を見渡した。
「……そう」
不穏な目の輝きに、カミーユを見ていた男子たちがスッと目を逸らす。
イリスも冷や汗をかいた。
ドS調教束縛騎士爆誕! とかここへきてやめてほしい!!
ニジェルは居住まいを正すと、カミーユに向き合う。
「カミーユ嬢。君が嫌でなかったら、ボクを君の騎士にして欲しい。君をずっと守りたいんだ」
ニジェルはそういうと、片膝をつきカミーユの手を取った。
ギャァァァと女子の雄たけびが教室に満ちる。
「に、ニジェルさま!?」
顔を真っ赤にするカミーユを、無言で下から窺い見るニジェル。
「あ、あ、あ、あの、お願いいたします」
カミーユの答えに、手の甲に口づけするニジェル。
突然のカップル成立に、色めく教室。
イリスは混乱していた。
え? ゲームとは違うんだ? ゲームでは『君の騎士は僕だけだよ。他を見たら許さないから(ニッコリ)』だったのに!
それはそれでカッコイイと胸キュンだったけれど、とんでもないメリバ伏線だったのよね。
イリスは、目頭を押さえた。
君が嫌じゃなかったら……なんて、相手の気持ちも考えられるようになったのね。ニジェル立派よ。おねーちゃん、嬉しい。
目頭を押さえ、ウンウンと頷くイリスを、ニジェルとカミーユは不思議そうな目で見た。
イリスはハッとする。
「カミーユさん、ニジェルをよろしくね。あと、ニジェルが変に束縛して来たら私に言うのよ?」
せっかくメリバを阻止してきたのだ。ここで無駄にはされたくない。
イリスが言えば、ニジェルがおかしそうに笑った。
「束縛なんてしないよ。イリスが教えてくれたじゃない。信じていれば大丈夫だって」
「ニジェルさま……」
ニジェルの言葉にカミーユが目をキラキラさせている。
「そうね、では私は退散します」
イリスはそう言ってニジェルのクラスを出た。
馬に蹴られるのはごめんである。