23 子供時間のおわり
どうしてこうなったー!!
イリスは叫びたい気持ちを抑え、口をムグと噤んだ。
ハッキリと婚約の打診には断りを入れ、レゼダも父も納得したはずだった。それなのに、今、イリスの隣ではレゼダがニッコリ微笑んで笑っている。
ねぇ? 気まずくないの? 私は気まずい!!
ここは魔導宮の特殊魔術部門である。古の魔術の研究や、新しい魔術や魔法陣の開発にいそしむ研究部門だ。ここでワクチンの普及や、治療薬の研究を進めることになったのだ。内密ではあるが、その末席にイリスの席が用意されることになったのだ。
特殊魔術部門の責任者は若い女の魔導士だ。名前はパヴォ、役職は主査だそうだ。
宮廷魔道士の印の黒いローブのフードをいつでも被り、黒縁の厚い眼鏡をしている。まさに魔女。俯きがちな彼女の顔をハッキリ見た者はいない。
魔導オタクのパヴォは、魔力を持たないのに妖精の加護を持つイリスに興味を示したのだ。ワクチンの発案者であることを内々に聞いていた彼女は、これまた内々にイリスに席を用意したのである。
そのおかげでイリスは土痘の研究はもちろん、妖精の勉強についてもここで指導してもらえることになった。嬉々としてやってきたイリスなのだが、なぜかレゼダの席まで用意されていたのだ。
「殿下におかれましてはなぜここに?」
「レゼダ、だ」
「レゼダ様」
「表向きの発案者は僕だからね。知らぬ存ぜぬって訳にはいかない。当然でしょう?」
イリスは納得した。
「今日から時間があるときは一緒に勉強させてね?」
婚約の打診などなかったかのようなレゼダの振る舞いに、イリスは少し安心した。友達でいられるなら友達でいたい。
イリスもレゼダは嫌いではないのだ。好きか嫌いかの二択なら好きだ。頼りになるし、尊敬できる。それにワクチンの普及活動はレゼダが主導してくれている。いくらイリスがワクチンを開発したとしても、普及できなければ意味はない。そういう意味で同志的な絆をイリスは感じているのだ。
ただ、監禁ヤンデレは怖いのよ! 喉を潰されるのは嫌だ。婚約だけは絶対無理ですおねがいします。
「よろしくお願いします」
イリスも何事もなかったようにペコリとお辞儀をした。
それから時折、レゼダとイリスは魔導宮で会うことになった。
イリスはワクチンについで、治療薬の研究も始めたのだ。青カビから抗生物質が作り出せそうだった。しかし、抗生物質は細菌に効いてもウイルスには効かない。土痘に直接効く薬ができないかと考えているところだ。
特殊魔術部門で一緒になれば、休憩を一緒に取る。図書室へ一緒に行き、お互いに本を薦め合ったりもした。
たまには魔導宮の役人と一緒にお忍びで町の様子を確認したりと、王宮以外の場所でも二人は友情を育んでいった。
そして迎えた夏。
イリスの予想通り、王都は土痘の流行に襲われた。ワクチンを接種したものは無事だったが、未接種だった者たちはバタバタと倒れていった。
治療薬の開発は間に合わなかった。イリスには罹ってしまった土痘を治すアイデアを思いつけなかったのだ。
イリスは魔導宮の役人たちと一緒に街に出て、発症すぐの者たちや未接種だった者たちにワクチンや対処薬などを配って歩いた。顔に傷のある男たちにも手伝ってもらった。
貴族の娘の接種率は低く、幾人かの令嬢が亡くなってしまった。やはり、土痘の瘡蓋からできたワクチンは生理的に受け入れられなかったのだ。
また家同士の問題もある。極端な王太子派は、ワクチン推奨派のレゼダのやること自体に反発をしており、ボイコットの意味を込めて接種をしなかった。ブルエが接種を秘密にしていたことがあだとなった。
ワクチンは望んだ通り副作用のないものができたから、望めば魔法でなんでも叶うと思ってた。でも違った。
この世界の魔法は万能ではない。よくあるファンタジーの聖女のように、一つ呪文を繰り出せば瀕死の病人を甦らせたりすることはできないのだ。
魔力に的確なイメージをのせられないと、魔法にならない。イメージがあっても魔力が足りなくては無理だ。また、自然に起こり得ないことは魔法でも起こせない。傷を塞ぐイメージは傷を閉じる魔法となるが、死者を生き返らせるイメージを事細かに願っても、どんなに多くの魔力を注いでも、死んだ人は生き返らないのだ。
そして、聖なる乙女の候補者だった貴族の娘も、亡くなってしまった。
あの子も土痘の犠牲者だったんだ……。知ってたらワクチンを勧めてたのに。
イリスは思い、頭を振る。
きっと、勧めても無駄だった。土痘に罹った私の言うことなんて信じてくれないだろう。でも、どうすればよかったんだろう。
私に魔法が使えたら、直接「ウイルスを消す」イメージで体の中のウイルスを消せたかもしれなかった……。
しかし、人を癒すほどの力があるのは魔導師ぐらいだ。たくさんの人は治せないだろう。それに、強大な魔力を持つ者を簡単に危険にさらすことはできない。そもそも、それを命じるような権限はイリスにない。
イリスは魔導宮の草原で体育すわりをして落ち込んでいた。膝の間にグリグリと頭を埋め込む。
先ほど特殊魔術部門で聞いた流行の終結。明日には終息宣言が出されることになった。
大流行とまではいかなかったことに魔導士たちは喜んでいた。しかし、イリスは手放しで喜べなかった。
天然痘の撲滅も二百年かかった。これ以上を望むのは欲張りかもしれない。でも、魔法のある世界なのだ。もっとできると自分の力を過信していた。
イリスの隣にストンと誰かが腰を下ろした。
「イリス……」
レゼダだ。優しい声がイリスを撫でる。
「すべては助けられないと思っていたけれど、自分の無力が悔しい……。せめて自分で魔法が使えたら……」
イリスが呟く。レゼダは静かに彼女の肩を抱く。
「でも兄は生きているよ。僕も、シティスも、シティスの恋人も」
「でもっ! 本当はもっと助けられたはず!」
イリスが顔を上げる。
レゼダはイリスの頬を両手で挟んで、涙で潤む緑の宝石をジッと見つめた。いつもは光り輝く緑の瞳は、落胆と絶望で歪み滲んでいた。
レゼダは胸が苦しくなる。
「僕らの手は小さい。零れ落ちるものの方が多い。でも、イリス。零れてしまった過去を数えないで」
「……!」
「僕らは手に残った未来を大切にしよう?」
桜色の瞳は真っ直ぐと強い光を灯していた。自分自身に言い含めるような、そんな強さのある言葉だ。レゼダも傷ついているのだ。
レゼダ様の方がきっと辛い思いをしてるのに。
もっと早く普及できたのではないか。王権を使って接種させるべきだった。選択させたのは第二王子の政治的思惑ではないか。そうやって、ふるいにかけたのだ……。
家族を失った貴族たちの不満は、ワクチンの発案・開発者とされるレゼダやシティス、魔導宮に向かった。
それをニジェルから聞いた時、イリスは憤りを覚えた。
予防できると、予防してほしいと、レゼダもシティスも言っていた。ニジェルだって勧めてくれた。聞いてくれた人たちだって多かった。
接種しなかった人たちは自分で選択したのだ。
最初に手を振り払ったのはそっちのくせに!
批評家ぶって『こうできた』なんて、何もしないで終わった後に文句を言うなんて自分勝手だ!
でも、私も過去ばかり見ていた。どんなに思いを巡らせても、過去はもう変えられない。でも、未来なら変えられるはず。
イリスはギュッと握りこぶしに力を入れた。
「レゼダ様」
「うん」
レゼダは優しく微笑み返した。イリスの瞳にはもう光が戻っていた。
「私も未来を見ることにします」
ニコリ、イリスが笑って、その瞬間にポロリと一粒だけ雫が頬を転がった。レゼダはその光の粒を慌てて指で掬い取る。
緑から生まれても、透明なんだ。
レゼダは不思議とそう思い、涙を掬った指を思わず唇に運んだ。
「ぎゃぁぁぁぁぁ? な、な、何を!?」
ドン、とイリスに突き飛ばされるレゼダ。胸を押されてむせ返る。
草原に転がりながら、ゴホゴホと笑う。
「すみません! ごめんなさい! でも、レゼダ様が!」
今のは完全にセクハラアウト!
イリスの顔は真っ赤だ。
「あはははは! イリスは相変わらずだね」
草原に寝転がり、レゼダは空を見た。天井のあるはずの魔導宮の青空は、まやかしだ。それでも、突き抜けるように青く眩しい。
レゼダは腕で目を覆った。
元気になったイリスに嬉しくて、幸せで。でも、反射的な拒絶はちょっと苦しい。
沢山同じ時間を重ねたつもりでも、まだ想いは届かない。
深く息を吸いこんで大きく吐く。
コロリとイリスが隣に寝転ぶのがわかる。あの二人で過ごしたシュバリィー家の離れを思い出す。そよ風が頬を撫で、髪を揺らしていく。
すこし、泣きそうだ。
レゼダは自分の気持ちに整理がつかなかった。こうやってイリスといることは間違いなく幸せだ。それなのに、少しだけ悲しい。二人なのに独りだと感じた。
「今、レゼダ様が側にいてくれて良かったです」
イリスの言葉にレゼダの心は確実に揺さぶられる。酷く嬉しい言葉をくれるイリスが愛おしい。それなのにイリスはレゼダのものではない。
案外酷いよ。
「王子を突き倒しておいてなにいってるの」
腕で乱暴に目元を擦って、レゼダは笑ってイリスを見る。
すぐそばでイリスがレゼダを見つめていて、息を止める。柔らかな縦ロールは草にまみれ、まるで若草の妖精だ。
目元が赤くなってやしないだろうかと、レゼダは焦った。
「ワクチンの共犯でしょ?」
いたずらっ子のようにニヒヒとイリスが笑う。
そんな言い方をして、イリスはレゼダに向けられた悪意を一緒に背負ってくれるのだとレゼダは気が付いた。
「悪い顔。主犯はイリスなんだからね?」
共犯もそう悪くない、レゼダは笑った。
「ねえ、イリス、絶対一緒に学園に入学しよう。僕ら一緒ならもっと悪いコトできるよ」
「王子様が悪だくみだなんて」
イリスはちょっと窘めるような目を向けた。
「面白そうですね」
そして、そう笑った。