21 王子様に会いに
レゼダは、朝から心が躍っていた。昨日の夜、自室のドアに挟まれていた一通の手紙。真っ白い便箋にはアイリスの紋章が押されており、濃紺のインクからはアイリスの香りが漂っていた。
きっと妖精づてで送ってきたのだろう。さすがに、どんな妖精でも王宮に入れるわけではないが、王宮守護の妖精が安全だと判断すれば、それを届けることはある。
レゼダは唐突に現れた手紙を面白く思った。そんなことができる人物に心当たりが有ったからだ。
イリス・ド・シュバリィーからの手紙である。
―― 明日の朝、大切なお話があります ――
前の日に、内々ではあるがイリスの父に婚約の打診をしたのだ。きっとその返事をイリス自ら伝えてくれるのだろう、そう思った。それも、翌朝。
きっとイリスは喜んで受けてくれるのだろう。
レゼダは、イリスからの手紙をギュッと胸に押し抱いた。自分の体温で温められた手紙から、彼女の香りが湧き立ってくるようだ。夢見るような気持ちで、ため息をつく。
魔導宮に勉強に来るイリスはいつも控えめな服装で、またその様子がレゼダには好ましかった。ストイックなブラウスはドレスと反対に肌を隠し、控えめなロングスカートが彼女の美しさを引き立てた。装飾を削ぎ落したからこそ、本体の美しさが際立つ。計算されてない美しさがそこにはあって、華美な女性に囲まれてきたレゼダにとって、新鮮だったのだ。
それにイリスと一緒に過ごした離れでの時間は幸せだった。王子然として振る舞う必要のなさ。甘えを許してくれるイリス。剣をあわせれば、王子に対する遠慮もしない。イリスの側にいると、王子ではないただの人間になれるのだ。
イリスが来たら庭の東屋へ通すように伝え、レゼダは最後の確認のため鏡を覗き込んだ。バラ色と誉めそやされる柔らかな髪は抜かりない。糊の効いたシャツは華美ではなく、かといって無粋でもない。余り気負った格好では可笑しいだろう。少なくとも、自分の家で、朝にプライベートで会うのだから。
紅茶を自ら淹れたら意味深だろうか。夫婦になったら朝のお茶は夫がいれるものだと教わっている。でも、近い未来そうなるのだと約束するのだから、少しくらい先走ってもご愛敬だろう。
そんなことを考えているレゼダに、イリスの来訪が告げられた。レゼダは慌ててガゼボへ向かった。
公式行事で使う作りこまれた庭園とは別に、王族のための小さな庭が王宮内にはあった。ガゼボはそこにある。自然を模した小さな池に併設された白いガゼボからは、水鳥の観察もできた。
イリスはその中でぼんやりと湖面を眺めていた。
さっぱりとしたブラウス姿は魔導宮に来るときと同じもので、きっと家族には魔導宮に来ると言って出たのだろうと想像できて、レゼダはこそばゆく思う。
二人だけの秘密だ。
ニヤつく頬を引き締めることもできずに、小走りでイリスに駆け寄った。そんなことはしてはならないと、躾けられてきたのにだ。
「イリス」
レゼダの声を聴き、イリスは慌てて立ち上がった。水鳥がバサバサと羽ばたいていく。
「朝早くに申し訳ございません。父が殿下に顔を合わせる前にお話ししたいと思い、非礼を承知で参りました」
「そんなことない。嬉しいよ。ただ、殿下はいただけないな」
レゼダが笑えば、イリスは困ったような顔をした。
思っていた反応と違うことにレゼダは不審に思った。
「先のお話はなかったことにしてください」
イリスは単刀直入に言った。
「……どういうことかな?」
「婚約のお話です」
「理由を聞いてもいい?」
レゼダは思いもよらない返事に戸惑った。
「急がれる理由がわからないのです。殿下は第二王子であらせられます。王太子殿下におかれましては、すでに婚約者様がいらっしゃいます。まずは学園に進学して色々な方をご覧になった方がよろしいと思いますわ。その中から相応しい方をお選びになるべきです」
「女性は婚約が決まるのが早い。ぼんやりしていて、イリスが婚約してしまったら困るだろう?」
「そんなことはありませんわ。私など結婚できないと思いますもの」
イリスはあっけらかんと笑った。
レゼダは信じられないものを見る様にイリスを見た。
「そう言って僕から逃げるつもりじゃないだろうね?」
「殿下は」
「レゼダだ」
「……レゼダ様は、まだ出会うべき人に出会っておられないのです。この狭い世界で、たまたま会う機会が多い私に勘違いしているだけですわ」
イリスはレゼダに言い聞かせるように言った。
「時間をかけお考え下さい」
「しかし、そうやって君が」
「何度も言いますわ。私は結婚などできません」
イリスはブラウスの袖を捲って、左手の痘痕を王子の目の前に晒した。
痛々しい丸い跡。もう白くなってはいたが、それでもぷっくらと膨らんで、一生消えないのだろうと思わせるものだった。
いまだにイリスに躊躇わずに触れるのは、ごく身内の人間だけだ。皆、友好的な態度を見せても、見えない壁でイリスを拒絶する。
当たり前のように触れるのは、レゼダとシティスくらいのものだ。
「私は神から見放されています」
イリスの言葉に、レゼダは衝撃を受けた。その迷信を知らないわけではない。この婚約を相談した誰もが、その言葉を口にした。『あの子は神に見放されています。王家に災いが降りかかるやもしれません』と。しかしその言葉を本人が口にするとは思いもしなかった。
しかし、レゼダはその言葉をすべて断じてきたのだ。
「神から見放されていたのなら、その時に命を失っていたのではない? その痕は神の祝福の証だ」
レゼダは同じ問いをイリスに投げかけた。
イリスは驚いたように目を見開いた。思いがけない言葉に、自然に口元が綻んでしまう。まさかそんなことを言われるとは思っていなかったからだ。嬉しかった。
たしかに殿下は私を汚いもののように扱わないでいてくれる。それにどんなに救われたことか。
ほころぶ口許を慌てて手で隠し、イリスは神妙に俯いて見せた。
でも。だからこそ。
「ありがとうございます。お言葉はとても、ええ、とても嬉しく存じます。それでも、民草はそう思いますまい」
「言って聞かせれば」
「わかりませんわ。いえ、わかったとしても、認めない貴族は多くあります」
イリスはピシャリと言い切った。レゼダもそれはわかっていた。
「殿下を蹴落とす理由があってはなりません。そして、私は殿下の傷になりたくはありません。どうかお許しください」
イリスは深々と頭を下げた。これは、建前でなく本音だった。
レゼダの未来を考えれば、婚約など絶対に受けてはいけないのだ。








