12 黒い森
夜の帳が落ち切ったころ、イリスは動きやすい格好に着替えていた。乗馬用の服装で肌の露出を避け、口元はマスク代わりにスカーフで覆い、手袋もしている。瘡蓋を取るため、銀のナイフとスプーン、それに保存用の瓶も用意して、その他必要だと思ったものを斜めかけの鞄に詰める。
「仰々しい格好だな」
揶揄うような声がしてドアへ振り向けば、部屋のドアの内側にうっすらと光り輝いてソージュが立っていた。
音も気配も感じられないなんて!
騎士の家系のイリスは驚く。
「土痘はうつらないのだろう?」
ソージュの言葉にイリスは笑った。
「土痘はうつらないと思います。でも、他の病気はうつる可能性があります。ソージュ様が私をどうしようと思っているのかわからない以上、できる限りの対策をしなければと思いました」
「良い心がけだ」
ソージュは笑った。この娘は本当に覚悟があるのだ、その上で悲壮感はなく、それが面白いと思った。
「初めに言っておく。われら妖精は普通の人間には姿が見えない。ほかの人間にはお前ひとりだと思われるから気をつけろ」
「わかりました。結構武術には自信があるんです」
イリスは力こぶしを作って見せる。
「騎士の血筋だったな。ではお前に私の祝福をやろう」
「ソージュ様の祝福……?」
ソージュはキョトンとするイリスの額に口づけた。イリスは混乱する。
ひっ!? 妖精の祝福? でも、小さい妖精ならともかく、大人のソージュにされるのは……相手が女性でも……て、てれ、照れるわ……。
イリスは顔を真っ赤にして目を白黒させた。
ソージュは悪戯が成功したかのように目を細める。
「体が光っている間はお前を害することはできない。それは病であってもだ。では行こう」
イリスが自分の手を見てみると、霧のように紫の光がイリスを包んでいた。
「すごい……」
ソージュはおもむろにイリスの手を取った。
イリスの身体がふわりと軽くなる。ソージュの思うがままに、幼子のように腕に抱き上げられた。ソージュの片腕にイリスが腰かけるような形になった。イリスは驚いてソージュの首に縋りつく。
「ぎゃっ! コワイっ!」
「あはは。土痘を恐れぬお前にも恐いものがあるのか」
「あります!」
「それは愉快!」
ソージュの笑い声と共にグニャリと世界が曲がる。
「うぎっ!」
これ、本当に慣れないっ! 酔いそう。
騎士の血筋と魔法はどうやら相性が悪く、魔法にかかりにくい分だけ抵抗も感じやすいようだ。
イリスはソージュにしがみつく手に力を込めて、ギュッと目を瞑った。
「もうよいぞ」
ソージュの言葉にイリスは恐る恐る目を開けた。
ぼんやりと光るイリスの光くらいでは照らすことのできない程の闇だ。何も見えない。夏の夜の重苦しさを感じる。
暗く深い闇の中に、異様な匂いが満ちている。死臭、そして獣の匂いが混じり合う。
うめき声がする。弱々しい気配。数は多くない。
「ここは……?」
「王都の北、黒い森の死を待つ洞窟だ」
「……灯りをつけても?」
「妖精よ」
イリスの問いにソージュが応える。その瞬間、イリスの周りに蛍のように光る妖精が現れた。しかし、周りの人間には光しか見えていない。
妖精の灯す柔らかな光の中、イリスは闇に目を凝らす。地面に打ち捨てられたかのような毛布。その中に苦しそうに縮こまる人たち。
「町で流行り病に罹ったものはここへ打ち捨てられる。今はまだ少ない」
イリスがゴクリと唾を飲んだ。母らしき女と、その女が抱きかかえる子供。二人とも土痘の水泡があり、苦しそうにあえいでいる。母親のほうは罹り始めで、まだ水泡が白くて少ない。子供のほうはすっかり瘡蓋になっているが、力つきたかのようにグッタリとしていた。
乾ききった唇から、水分が足りていないことがわかる。
こんな劣悪な環境では治る者も治らないだろう。
イリスは二人の前に跪いた。
鞄から水の入った瓶を取り出し、持ってきた綺麗なコップへそそぐ。
「これをどうぞ」
イリスがコップを母親に差し出せば、母親は恐れるような顔でイリスを見た。
「殺さないで! お願い、子供だけは許して」
懇願する声にイリスは苦しくなる。
「少し塩の混じった水です。安全なものです」
イリスは答えてから自分で水を飲んで見せた。
「喉が渇いているのでしょう?」
イリスがもう一度コップを差し出せば、母親の瞳から涙がこぼれた。そして母親は安全を確かめるように一口水を飲んでから、子供にそのコップを押し当てる。子供はうつろな目でそれを飲んだ。
「ありがとうございます」
母親は深くお辞儀をした。
「いいえ。かわりにその子の瘡蓋が欲しいのです。いただけませんか?」
イリスの言葉に母親は目を見開いた。
「瘡蓋、ですか? これでいいのですか?」
そう言って差し出された子供の手には、醜い瘡蓋がたくさんできていた。
かゆかったのだろう、掻き傷もいっぱいある。瘡蓋だらけの腕は、イリス自身を思い出させいたたまれない。
イリスは手袋を取った。ソージュの言葉を信じるなら、病はうつらないと思ったのだ。
滅菌済みの銀のナイフで肌を傷つけないように慎重に瘡蓋をかき取る。集めた瘡蓋をスプーンですくい、瓶へと移した。瘡蓋を取った腕にカミーユの椿油を塗り込んで保湿すると、子供は気持ちが良さそうにため息をつく。
「きもちいい……」
子供の声に母親がイリスを見た。
「特別な薬なのでしょうか?」
「町で『カミーユのオイル』という名で売っているものです。高いものではありませんよ」
「ああ、知っています。カミーユちゃんのなのね」
母親の問いにイリスが答えると、ホッとしたように笑った。穏やかな顔つきになった母親を見て、イリスは頼んだ。
「もしよかったら、この瘡蓋をあなたに吸ってもらってもいいですか?」
「なにを……」
「あなたはまだ発病して間もないですよね? だったら助かる可能性があるかもしれないんです」
「瘡蓋で?」
「魔法で毒は消します。そうすることでワクチンというものになります。まだ試したことがないのでわからないんですけど、上手くいけば重症化しないはずなんです。あなたで初めて試します。もちろん断ってくださって結構です。恐いし気持ち悪いと思います。でも、できたらお願いしたいのです」
イリスは深々と頭を下げた。
「気持ち悪いことなんてないですよ。子供の瘡蓋なんて」
母親は笑った。
「私が死んでしまったら、この子はどうなるのかしら。そう思うと悲しくて……」
悲しむような目で子供の顔を見る母親にイリスは切なくなる。
だからこそワクチンを接種してほしいのよ!
「今のままではどのみち生き残る可能性は低いのでしょう? だったら藁にでもすがりたいと思います」
「ありがとうございます。ありがとうございます!」
イリスは母親の腕を取った。
「絶対成功させます!」
イリスはソージュに小声で、ワクチン化して欲しいと頼む。
(ワクチン化? お前が望んだようにすることができるぞ。瘡蓋の入った瓶を掲げよ)
ソージュに言われるままイリスは瓶を掲げる。
(この中身をどうしたいのか強く願え。お前の願いをかなえるよう、私が力を貸してやる)
私の願い……。抗原性を保ちながら無毒化された安全で保存のきくワクチンになって!!
「お願い! 安全なワクチンになれ!!」
ソージュが瓶を掲げ持つイリスの手を包み込む。ポワッと瓶が輝いて、中で瘡蓋が粉々になり、銀の砂のように光る。母子にはイリスが魔法を使ったように見えた。
(これでお前の望みが叶った)
「聖なる乙女?」
子供の小さなつぶやきは、イリスには届かなかった。
カバンから麦のストローをだし、瘡蓋の瓶にさす。そして、これを鼻で吸うように母親に言えば、母親は抵抗することなく、その瘡蓋を大きく吸った。
「大丈夫ですか?」
イリスがこわごわと聞けば、母親は小さく頷く。
「とくに変化はありませんが、効いているのでしょうか?」
「突然治るようなものではないんです。これからまた様子を見に来ますね」
「また、来るのですか?」
「? また来ますよ」
経過観察は当たり前だ。
「必要なものがあれば持ってきます。オイルはおいていきますから自由に使ってくださいね」
イリスの答えに母親は嗚咽を漏らした。
イリスは困り果てて顔を上げれば、闇の奥から複数の目がこちらに向けられていた。