第二十二話 蒼く蒼いKou
Ayaは、普段は忍ぶように歩くようにしているのだが、非常階段にハイヒールの音が響いていてもお構いなく走った。
「Kouは、まだホテルにいるわ。階段! 階段を使う筈だから。見失わない内に、追い付きますように!」
Ayaの足は速い。
スカートをつまみ、裾に気を付けて転ばないようにした。
いつもは、狙撃をするのに邪魔な格好はしないが、今日は念願のデートだったのだから紅のドレスも仕方がない。
階段の踊り場で、急に顔面が痛くなった。
「やっだ、ごめんなさい。急いでいまし……」
誰かに顔から当たったらしい。
ドジを踏んだ。
「Kou?」
ぶつかった相手は、背を向けて立ち止まっていたKouだ。
Kouは、香りのない透明な存在を浮き立たせる。
Ayaは、再び逃がしたくない。
「どぶじだの?」
鼻を押さえて、背中から下がった。
「分かった。そのカードキーの部屋に行こう」
Kouは、思うところがあってAyaの誘いを受けることにした。
後ろから覗き込んだKouの顔は、冷たく蒼く蒼くなっていて、ある意味恐ろしい。
「大丈夫? Kou」
Ayaは、カードキーの件はKouとの間で壊してはいけない決壊を破ってしまったと反省していた。
深く頭を下げる。
これで許されるとは思っていない。
でも、誠意はみせたかった。
「私が謝るわ。傷付けてしまってごめんなさい」
Kouの背後から、Ayaがぴとっとつく。
一種の謝罪だ。
「俺にカードキーを預けてくれないか?」
Kouの意図が分からないまま、Ayaはこくりと頷いた。
「はい」
二人は、踊り場からレストランの直ぐ下に向かった。
十二階だ。
◇◇◇
Kouが、一二〇一号室にカードキーをタッチして、先に入った。
ベッドが二つのツインルームだ。
二人とも寡黙なまま、先ず、やらなければならないこと、部屋の警戒をする。
「盗聴も盗撮もされていないみたいだな、ここは。それに密室だ」
Kouが、施錠を確認した。
仕事モードにチェンジする。
「都合がいい。仕事の話がしたい」
Kouは、おとなしそうだが、行動力のある情報屋、兼、ジャーナリストだ。
「は、はい。分かりました」
Ayaは、かしこまるしかない。
「私がわがままでした。おおせの通りにいたします」
Ayaは、わざと芝居がかった感じで、二人が緊張で絡まった、もしゃもしゃとした糸を解こうとした。
「冗句は、要らないさ」
現実主義者のKouだ。
「先ず、直近の。コロッセオでの下調べとやらは、俺は聞いていないが。どこから仕事を貰った? Ayaの仕事の取り次ぎは、全て俺の筈だが」
Kouは、チェアーに腰掛けて足を組む。
脅しではなく、本当に身を案じてのことだ。
「ローマのリュウ・アサヒナのコンサートは、自分で漕ぎつけたドラゴンの情報よ。コロッセオへは、あなたを愛する人からと呼び出されたの」
Kouには小さな子の言い訳にしか聞こえなかった。
「確かめなさいね。ほいほい行かないよ」
速攻でお叱りを飛ばす。
「誰だ。呼び出した奴」
「情報は乱れているけれども、『J』だわ」
「土方むくさんにと、俺がAyaに手紙を託したな」
Ayaは、夏の早い頃を思い出していた。
「あれは、そう、中に古びた手紙があったのをKouが白い紙に書き改めて、日本の徳川学園美術部員に宛てろと言うから……」
「Ayaに運んで貰った」
Kouは、うなずく。
「美術部員は四人。ターゲットは、あの子なの? 土方むく様、あの子は可愛い感じだったわ」
Ayaも姉のような気持ちになった。
「ふっ。どうやら、あの絵を見つけてくれたようだ」
大したものだと言わんばかりだ。
「やはりね。私もあの絵は見たわ」
Ayaは、ほうっとした。
「素敵な絵だったわ。『ジレ と アデーレ』ね」
「ゴッホの『ひまわり』について、何か言ったのか?」
Kouは、ひまわりの絵にあると、ヒントを与えたのか確かめた。
「いいえ、何も。言われたこと以外しないわ。手紙を渡しただけ」
「そうか……」
Kouは、少し遠くを見つめた。
Ayaは、そんな彼を見つめた。
「極東も、騒がしいな……」
◇◇◇
八月二十三日、美術部室に全員が集合した。
徳川学園の美術室は、板張りの北窓であり、むくもよく片付けたり清掃をするので、夏の涼さえ感じられる。
「もう直ぐ夏休みも終わりだ。各自作品の発表をしてくれ」
亮がこの部室に揃った四人全員を確認した。
各々、制服に黒の仕事着で、イーゼル前に腰掛けている。
「先ずは、部長の僕から」
イーゼルにあるキャンバスを見せる。
「神崎亮、『街と黄昏――消失点より』、油彩画、一点。ほぼ完成だ。前から描いていたシリーズの集大成として、部長最後の作品にしたい。夏休み中には納得の行く形にしたいと思っている」
左手の拳に力を込めた。
「次は、朝比奈麻子副部長」
カルトンからたった一枚を出す。
「あたしは、『ビーナスの横の顔』、木炭画、これだけ!」
「もう、フィキサチーフを掛けたので、これでお仕舞い!」
「夏休みは、後は、お遊び!」
つまらなそうにシャギーをかき上げた。
麻子の躁状態だ。
「次、神崎椛」
画板に固定したままの絵を二つ出す。
「はい、私は、『静物――果物と瓶』。同じテーマで水彩を二点だから、その内どちらか。水彩って、べたべた直すものではないから、もう無理かな。描くなら最初からになるよ」
肩をすくめた。
「最後、土方むく」
ボードとフレームに入れた二つを出す。
「はい、むくは、『檸檬』が精密デッサンと平面構成で一点。もう一点は『猫と少女』で水彩色鉛筆です。この二つは完成しています」
申し訳なさそうに続けた。
「もう一点の『タイトル未定』は、お見せできません。ごめんなさい」
頭を下げる。
「では、各々研鑽を積んで来たと思う。簡単な反省会を行う」
「ねえ、『街と黄昏なんとか』、いいわ。亮!」
麻子がねっとりとした。
「そうね、亮兄さん。『街と黄昏――消失点より』、渾身のなんとか?」
「妹、会心の一撃だよ」
椛と亮は、相変わらず仲がいい。
「素晴らしいです」
むくも讃えた。
「朝比奈副部長、タイトルですが、提案です。『ヴィーナスの横顔』は、いかがでしょうか?」
おすまし椛がきりっとしている。
「ええ? もみじんが面倒臭いよ、亮!」
麻子が酷くべたべた話すから、麻子に友達がいるのか、むくは疑問に思った。
「まあ、賛成かな」
口元を触りながらにやりとする。
「どっちに?」
「どっちに?」
麻子と椛が口を揃えた。
「で」
亮は、切り返す。
「椛は、いいな。好きにしなさい」
見てもいないのに、亮は決めた。
「何よ、亮兄さん。兄さんぶって」
「兄だから。いや、部長命令かな」
亮は眼鏡を直す。
「それから、土方むく。見せられないとは、どうかしたのか?」
亮は詰め寄った。
「ごめんなさい。私が未熟だからです。本当にごめんなさい」
むくは、ごめんなさいと言う度に頭を下げた。
カチューシャにかかるように、翠髪が揺れる。
「例の『ジレとアデーレ』のようなのをまだ描きたいとか思っているのか?」
「あたし達にもモデルを断ったよね?」
亮と麻子のダブルの応酬はきつかった。
「止めたのか?」
亮は、関心があるようだ。
「い、いえ……」
むくは、首を振った。
「まだ描いているの? むっくん」
麻子の呆れた顔は、間抜けだ。
「二つ出したのだから、大丈夫だよ、むくさん」
椛が助け船を出す。
「分かった、分かった。むくは、いずれ提出すること。全会一致で決まり」
むくは、頭を垂れた。
「出た、全会一致! 亮兄さん」
「妹は、静粛に」
「以上、発表会終わり!」
最後を無理矢理締め括った。
がちゃがちゃと解散する。
むくは、ため息を小さくこぼした。




