25 鹿子
ウサギには、かつて妻がいた。
出会いは、なんて事はないダンスフロアである。皆がその場その場のノリで踊る中、一人長髪を振り乱して激しく踊り散らす女性がいたのだ。不思議と気になり、ウサギは声をかけた。それがきっかけである。
彼女は、美しかった。本人もそれが誇りだった。だからこそ、二人が結婚して二年目の冬、彼女は言ったのだ。
「私、スリープに入るわ」
老いて醜くなる自分を見る前に。
あなたの中で、永遠に美しいままの私でいられるように。
ウサギは止めたが、彼女の決意は固かった。そしてウサギの妻は、二十八歳の若さでスリープに入ったのである。
もう、三十年前のことだ。
「いやあ、あの時のお前ときたら想像を絶するウザさでなぁ」
過去を振り返り、カメは言う。
「毎日泣いては酒に溺れるばかりで、実に面倒だったよ。酒を砂糖水に変える作業も楽じゃないからな」
「一週間ぐれぇで立ち直ったろ。掘り返すなや」
「違う。一ヶ月と十三日目だ。日記にもそう書いてある」
「ねぇそれどこのページ? 教えろよ、そこだけ切り取って捨ててやるから」
「過去を無かったことにするもんじゃないぞ。自らが歩んできた歴史は貴重なものだ。なあ青鳥君」
「カメさん、さっきから思ってたんすけど、僕に対するクローンジョークの度が過ぎません?」
「なんでアンタらそない楽天的なんです?」
太陽はげんなりしながら、三人に向かって言った。カメは、わざとらしくぽんと手を打つ。
「それもそうだな、客人を待たせるものじゃあない。では青鳥君、行ってきなさい」
「イヤですよ。絶対罠じゃないですか」
「ならウサギが行くか? お前の妻だろう」
「三十年ぶりだし、何話していいかわかんない」
「チッ、どいつもこいつも仕方がないな」
「間を取ってカメさんが対応されたらどないです」
「太陽君までどうしてしまったんだ。最近の多忙さ故に気が触れたというのか。可哀想にな、この飴ちゃんをやろう」
「いや、とにかく早く対応したいんですよ。何が起こるか分からんし。ほな行きますよ」
「嘘だろう、まさか本当に僕を連れて行く気か。待て、考え直せ。なんで僕が応対しなくちゃいけないんだ。一番関係ないぞ」
屈強な太陽に連れて行かれるカメを、ウサギと青鳥は手を振って見送った。
お喋りな男がいなくなった部屋は、静かになる。青鳥は、一つの疑問をウサギに投げかけた。
「……ところで、どうして太陽さんはウサギさんの奥さんの顔を知ってたんです?」
「オレが未だにあちこちで写真を見せてるからだよ。見る? この人なんだけど」
「うわ、ほんとに美人だ。よく結婚できましたね」
「オレもイケメンだからな」
そう言い写真を見つめるウサギの横顔は、どこか寂しげながらも優しかった。
――そうだ、この人は優しい人なのだ。
青鳥は、初めて自分と会った時に交わしたウサギとの会話を、思い出していた。
白いワンピースの女性が、待合室で待っていた。カメは自分の顔に滲んだ煩わしさを隠そうともせず、向かいに座る。
――確かに、例の女性に似ていなくもない。とはいえ、なんせ三十年も前のことだ。絶対にそうであるとの断言はできない。
しばらく彼女からの言葉を待ってみたものの、一向に喋らない相手に業を煮やし、カメは口を開いた。
「どうも初めまして。僕は、青鳥君の上司である亀野高良と申します。このたびは、うちの部下にご用があるとのことで」
「……」
「まずは何の用事か知りたいもんですな。なんせちょっとした赤ん坊ですよ、うちの青鳥は。そう知り合いがいるとは思えませんし、ましてや尋ねてくる人など。早く名乗っていただかないことには、貴女のあまりの怪しさに順当なる逮捕を執行しなければならなくなってしまいます。……して、お名前は」
カメの問いに、女性はようやく唇を動かす。その目は、声は、虚ろだった。
「私……私は、宇佐木鹿子です」
「おや、偶然にも知人の妻と同じ名前なんですね」
鹿子は、カメの言葉には反応せずボソボソと続ける。
「……私は……青鳥を、引き取りにきました」
「引き取る?」
「彼は……ここにいるべきじゃない。だから、連れに来ました」
「どこに?」
カメは、尊大に足を組んで尋ねた。
「二週間前ならいざ知らず、今となっては彼は警察官の一人です。勝手なことをされては、こちらとしても困るのですが」
「……」
「どうしても言うのなら、それなりの手続きを踏んでいただかないといけません。ポッと出の人間が、アレが欲しいからコレを持って帰るなんて言ってきた所で、ハイどうぞなんて返せるわけがないでしょう。ほら、こちら。これにですね、貴女の名前と住所、連絡先と青鳥君との関係性、連れて行く理由などを詳細克明にご記入ください。お手数をかけます」
女性の前に、カメは一枚の紙を差し出す。しかし、彼女が動く様子は無かった。
……何か、様子が変だな。
カメは、女性に見えない位置から太陽に指示を出す。
突然、ガタリと女性が立ち上がった。長い髪のせいで、その顔にどんな色が浮かんでいるのか判別ができなくなる。
空っぽな声が、カメに迫った。
「……青鳥は、どこだ」
「教える義理は無いねぇ」
「教えろ」
「その立派な耳は飾りかね?」
「……必ず、返してもらうぞ」
にわかに外が騒がしくなる。悲鳴や怒声にまざり、ドタドタと近づいてくる足音があった。
バタンと乱暴にドアが開けられる。太陽だ。
「カメさん! 今、外に大勢の人が押し寄せてきてます! なんでかめっちゃこっちに敵意を持ってて……! 鎮静化に手ェ貸してください!」
「何!?」
カメは目の前の女性を睨みつける。この時女性が零した一言を、彼は聞き逃さなかった。
「――アレは、私の体にするんだ」
――体に?
どういう意味だ?
その言葉を最後に、女性は太陽の連れてきた別の警察官に捕らえられ、別室へと連れていかれた。彼女の言葉の意味が飲み込めず眉を寄せるカメに、太陽は言う。
「カメさん、急いで! ウサギさんが待ってはります!」
「その前に、先程君に頼んだ件は判明したか?」
「あ、ええ! 今北風に頼んで調べてもらってるトコですが……」
太陽のウォッチに着信が来る。
彼は二言三言やり取りをすると、カメの方を向いた。
「……北風からです。さっきの話ですが、カメさんの言う通りでした」
「やはりか」
「はい」
立ち上がるカメに、太陽は断言する。
「IDが一致しました。彼女は間違いなく、宇佐木鹿子です」
そうか。
だとしたら、彼女もまたスリープから脱走してきた人間ということだな。
――この分だと、襲撃者の出自も……。
まだ、分からないことの方が多い。それでもカメは、足を踏み出した。
ウサギの名を呼ぶ。相棒は、待合室の少し先で壁にもたれて立っていた。
「……やっぱ、オレの奥さん美人だったろ?」
――珍しく、心中が読めない表情で笑いながら。




