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一般向けのエッセイ

小林秀雄がベルグソン論を中断した理由




 小林秀雄には『感想』というベルグソン論があるが、小林はこれを中断し、出版する事も拒んだ。小林秀雄はどうしてベルグソン論を中断したのか。その理由について考える事にしたい。


 小林秀雄自身の言葉を最初に引くと、『失敗しました。無学をのりきれなかった』とあるが、小林秀雄を知っている人は、小林秀雄が『無学』とは夢にも思わないだろう。僕は小林秀雄は嘘を言っているわけではないし、正直に自分自身について語っていると思う。


 実際、小林のベルグソン論に目を通すと、そこに『失敗』のようなものはほとんど見えない。文章のクオリティは非常に高く、色々な側面から論じる事ができる質の高い文章だ。質の高いものだからこそ、小林が出版を禁じた後でも、他の批評家らによって連綿と論じられてきたのだろう。


 さて、ここまでは前置きなので、以下から自分の考えを書いていく事にする。


 小林秀雄が何故、ベルグソン論を途中でやめたのか。答えは単純で、僕は、小林秀雄はあくまでも文学者であって、哲学者でなかったためだと結論する。逆に、ベルグソンという人はいかに文学に理解があり、文学者的素養があっても、やはり哲学者だった。その齟齬がベルグソン論を破綻させたのだと僕は見る。


 小林秀雄のベルグソン論を読むと、どこを取っても金太郎飴のように同じ表情が浮かんでいる。小林秀雄が学者的にベルグソンを論じていない事は明らかだ。彼はベルグソンについて論じようとしているよりは、むしろ、ベルグソンについて語り、彼と一致しようとしているように見える。小林のベルグソン論は通常の論ではない。作者の見解を記すというより、作者とベルグソンが一致する部位を綴っていくように見える。


 小林秀雄という人は、源実朝や西行を論じていて、それはうまくいっている。だが、同じようにはベルグソンを論じる事はできなかった。小林秀雄の評論に通暁している人なら、小林秀雄の方法論はよく知っているはずだ。小林秀雄は西行にも実朝に、一つの『詩魂』を見る。小林秀雄は、ランボーを見ても、実朝を見ても、西行を見ても、最終的にはそれを自分の魂の側面と一致させて論じる。つまる所、小林秀雄文学の最終的な論拠は「小林秀雄」という生きた一人の人間である。「小林秀雄」というのっぴきならない存在が、他者の中に自己自身の姿を見つけ出す時、小林秀雄の批評は成立する。だから、中世の詩人でも近代の詩人でも、同じように小林秀雄には作用する。むしろ、それらの差異を純粋な『詩魂』に統一するのが小林秀雄の特異な批評と言った方がいいのだろう。


 さて、この場合、小林秀雄の取っている方法は極めてオーソドックスなものに思える。オーソドックスというのは、文学者としてオーソドックスという意味だ。小林秀雄は、小林秀雄というフィジカルな、自分という存在に最終的な根拠を求める。逆に、これから離れて何かを論じる事は小林秀雄にはできなかったし、それをすると、おそらく何かが欠けている印象を持った事だろう。


 一方で、哲学者は文学者とは違う。哲学自体、非常に広範なものなので、簡単に一括できないが、僕の方で一括すると、哲学者は『概念』を提出する。「物自体」「絶対精神」「持続」「意志」などなど…。哲学者は、自分の生み出した概念で世界を括ろうとする傾向性を持つ。それらの方法を、読者である僕達が妥当であると感じたり、感動したりと言った事で、哲学者の権威は作られていく。


 この時、哲学者は基本的には、自分という存在を根拠にしない。例え、『自分』という存在を概念として提出する哲学者がいたとしても、それは哲学者固有の、つまり一回限りの人生を送っている、生きた哲学者の像ではない。ここにはややこしいので丁寧に説明する。


 例えば、僕が哲学者であって、『私』こそが、世界を統一する概念だという哲学書を書いたとする。その時、そこで使われる『私』というのは「ヤマダヒフミ」の事ではない。では、その『私』とは何か。それは今、これを読んでいる『あなた』が自分のことを『私』と考える事が可能であるような『私』である。つまり、一般化された『私』こそが世界を統一する概念であり、「ヤマダヒフミ」が死んでしまえば消えてしまう『私』ではない。


 小林秀雄はベルグソンについて語る時よく、「直観から分析に至る道はあるが、分析から直観に至る道はない」と言う。これは確かな事だが、ベルグソンの語る「直観」はベルグソン自身の直観ではない。あくまでも哲学概念としての「直観」のはずだ。(ベルグソンについては詳しくないので小林秀雄の方からしか僕は見ていないが) 一方、小林秀雄がそう言う時はいつでも、「小林秀雄」という人物が感じられている。そうでなければ、小林秀雄の文章は成り立たないようになっている。


 小林秀雄は客観的に見えるような評論から、「Xへの手紙」というような告白文に連続して移っていく事ができた人物だ。「Xへの手紙」はもう少しずらせば、すぐに小説になる。このように、小林秀雄には常に、告白する自己自身がはっきりと感じられており、その為に、僕達は小林秀雄の批評を読むと、論じられている対象を見ているというよりは、小林秀雄の輪舞を目撃しているような気分を味わうのだ。


 一方で、ベルグソンはあくまでも哲学者だ。だから、彼の提出する概念は、もちろん彼の個性を帯びているが、彼そのものではない。彼の概念は、彼にとって外物として作用する。外物として現れた概念が世界全体を覆うのであって、ベルグソンという自我が世界を覆うわけではない。


 しかし、小林秀雄はベルグソンを論じる時でも、やはり文学者と同じように論じてしまう。そこに齟齬が発生する。小林秀雄は、ベルグソンの哲学を小林秀雄という個性に帰着させようとするが、その方法論はうまくいかない。簡単に言えば片方は哲学であり、片方は文学だからだ。


 小林秀雄のランボー論は、ランボーという無類の魂に、こちらもまた無類の魂という事で、静かに入り込んでいく。小林秀雄はランボーを宿命のように感じた。宿命のように感じた、とはどういう意味だろうか。それは他者が他者ではなく、もはや己自身として感じられるという意味だろう。小林秀雄はドストエフスキーについて論じるにも、作品全体というよりは、むしろラスコーリニコフやイワンという一個の人物に共感し、一致していく。ラスコーリニコフの孤独な姿は己自身、いや、現代人みんなの姿である。アルチュール・ランボーの姿もまたそうだ。この評論に僕らは共感する事ができる。そこでは、生きた一人の人間に焦点が合わさっているが、そこからは決して出ない。


 ここを小林秀雄の限界と見るのは簡単だ。だが、本当は話はそんなに簡単ではない。ただーーここで、この場所に小林秀雄が頑強にとどまり続けたからこそ、小林はベルグソン論を途中で放棄したのだ、と考えたい。哲学者が概念を提出し、それによって個的な存在は一般化され、その為に、哲学は芸術よりも科学に一歩近づく。が、それにより失われるものもあるかもしれない。小林秀雄が頑強に自分の元にとどまり続けたのは、小林秀雄が徹頭徹尾、文学者であったからだ。僕はそのように考える。だからこそ、小林秀雄はベルグソン論を失敗した。結論としては簡単だが、小林秀雄は文学者であり、ベルグソンは哲学者だった。ベルグソンを実朝や西行と同じように扱おうとしても無理があるという事を小林秀雄は身を持って実感したのだと思う。小林秀雄が『無学』であったり、理解が足りなかったのではなく、そういう方法論の相違が問題となったと思う。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  この事については前から興味があったので、面白く読ませて頂きました。  私は小林秀雄がベルグソン論を中断したのは、形而上学に踏み込まない為、極論すればオカルトに、ならない為だと思います。 …
2018/01/07 09:38 退会済み
管理
[一言] >小林秀雄は、小林秀雄というフィジカルな、自分という存在に最終的な根拠を求める →これが全てじゃないかなぁとか、個人的には思っています。 ◆  なんだろう……、思想と哲学は違う。思想は、…
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