蜘蛛ふみし姫の物語
蜘蛛ふみし姫の物語
序
山間の日没は早い。まして夕暮れと共に雪も舞い始めた。しきつめた木の葉に薄く積んだ雪の道にしみをつけながら足早に行く男が一人。すでに日は暮れた。男の足もはやまった。はく息の白く夜気に凍って黒い足元へ沈んででもいくようであった。男の力強い歩行は、それでも音を立てなかった。ひどく傷んだ旅装束。荒々しく胸のあたりが波うっている。四十の坂を越してはいるのであろうが、その彼が何かしら必死なほとばしりを感じさせるのは、その突き刺すようなまなざしのせいばかりではなさそうに思われた。音は。なかった。雪が降りはじめた頃かすかにチリチリ音を立てた竹の葉もすでに凍りついていた。
男は歩き続けてここまで来た。旅はすでに二十余年の長きにわたっている。歩き続けてどこまで行かねばならないのか、自分でも判然としないのであった。
雪はますます激しさを加えてきた。山襞のかすかな起伏にそって、うずまき、舞い、吹き降ろした。はるかはなれた所から谷川の音が聞こえ始めた。が、断崖のおどろおどろしい暗闇が、次の瞬間、足元に口を開いた。道は降りしきる雪の向こうに、山腹に細く伸びていた。
一
いつの頃からか、その地に住みついた老婆の小屋は、谷を見下ろす細道が少し崖にくぼみこんで風が渦を巻いて通りすぎていく小さな平地に心細げに建っていた。雪の頃でなければ行きかう人が無いわけではない道筋の、それも山中にあるというので、ここまで辿りついた旅人の多くに、つかの間の休息をあたえていくばくかの食物を得ているその老婆については、何ひとつ知られていなかった。尼のように経を詠んでいるのを見た者も多くいたが、共に地酒を酌み交わしたことのある者はさらに多くにのぼっていた。もっとも、多くにのぼったとはいえ、たかが知れた山里の話である。初めのうちこそ何かとうわさに精を出した里人も、おたがい顔見知りになってしまってからは、おおかた女の世捨て人であろうといったあやふやなことで納得してしまったのか、それ以上の詮索などしようとはしなかった。
今年もまた雪が来た。
囲炉裏のすすで黒く光っている小屋の中では、灰の中に細々と出入りするすすけた炎が、酒を酌む老婆の影を、ユサユサ天井にうつし出していて、今年もまた雪が来た。もうひどく冷えるよ。音はなかった。音があったのは、あれはずいぶん昔のことだったのだ。十年か、または、一時間か前。そう。たしかにずいぶん昔の話だった。ぐっとのどを通った酒の腹中に沸騰して、あつく木綿をかさねた背にしみ出してくる。
今年もまた雪が来た。ずいぶん冷えるよ。これがなければやりきれないよ。
闇と煤のせめぎあう小屋の中心は、老婆の赤い、もしそうなら赤い顔だった。
闇の中に手が動いて、柴を投げ込んだ囲炉裏に、あたりにはつかのま黒がたちこめた。酒を飲み干した杯をだらりとおろし、じっと火を見つめながら、「むだなんだよ」と老婆。男には確かにそう聞こえはしたけれど、そのまま手にした生木の妙になよなよしいのを、引きちぎってしまおうと腕に緊張をさせながら、ちらと上目に老婆の顔をうかがった。先ほど投げこんだ小枝にようよう火が移りかかって、こそばゆい煙の匂いがふぁと持ちあがった。
「むだなんだよ。見つけだせやしないのさ」
あっ。と。おもわず男の口からもれたため息は、同意するものでもなく、否定してしまう力もなく、ただ、ここにもいたのかという驚きが、意識せずに結晶してこぼれ落ちたようだ。じっと見つめた老婆の、囲炉裏を見つめる瞳の中には、燃え立った真紅の渦巻きを写してはいるけれども、その渦の奥、もっと奥、そのずっとはかり知れない闇。見つめると、かすかに、手の先が震えだした。わかっているのだが止まらない。そのまま、奥をじっと見つめたまま、それでも覗くことをやめられない。
わかっているのだ。そうだ。わかっているのだ。この老女の瞳の奥からうったえかけ、俺を震えさせているものは。確かによく。
だが。
あの、ねばりつくような黒いもの。あれは、
あれは、
よくわかっていないようだね。おまえには。
まだわかっていないようだね。
老婆の口が上下に動くのを、痴呆のように見つめながら、男はそれでも、その、妙に若やいだ、まるではしゃぐように聞こえてきたその声の主が、目の前にいるそれだとは信じることができなかった。
突然、炉が華やかな音をたてた。
話してあげよう。わたしが話してあげようと。ますます若やいだ老婆の声が言った。
煤けた小屋の陰惨な華やかさに酔ってしまっている。何か真っ黒いものが体の回りに、そして内側にも、ひたひた押しよせてくる。わたしを飲み込もうとしている。この赤茶けた闇の中に、男は自らの心臓の音が激しく響き渡るのを聞いていた。
それはいつの頃のことなのか。どこで起こったことなのか。ただ、ずっと昔から、人々の細胞の中に、ひそかに生きつづけているような、記憶。多くの者達は思い出すことすらしない記憶を話してあげよう。思い出させてあげよう。
男は吸い込まれるように聞いていた。老婆の声、ゆったりした流れ、自らの中にのめり込むような。その瞬間の弛緩した驚き。
そして老婆の話が始まったときには、すでに、自らの記憶の再生といったふうに、その物語は隅々まで鮮明となっていたのだった。
二
それを城と呼ぶには、少し華奢にすぎるかもしれぬ丘の上の館を、それでも人々はお城と呼んでいた。あたりを山で囲まれたその小天地では、さしたる戦も知らぬ間に幾代かがすごされたので、国のいたる所に、日々の生活が日々の生活のままに過ごされていくのが見られるのである。
その国は、あたかも水たまりのように平和であった。館の丘をのぞいては、満々とした穀物の面の、かすかに風にそよぐ平らかさが、東から西へと移る日々の日輪を映しだしているかと思われるほどに、今は秋であった。
いつから聞こえていたのだろう。遠い笛の音がふっとうすれて、筧に水のはしるあのいつもの音がにわかに聞こえ始めた。館の奥まった一室での彼女の目ざめは、晴れわたった秋の空から舞いおりる花のように軽やかであった。天井に光が満ちており、昨夜行灯の光のうちにうごめいた幽鬼も、何の変哲もない杉の年輪の影に身をひそめてしまっているのを確かめてから、
「誰ぞ、笛を吹いていたのではありませぬか」
「お目覚めにございますか」
侍女のシズが答えた。
さらりと入って来た白い朝の流れが、緋色の寝間着と寝具をひとなですると、開かれた襖から白くそろえられた手の先がのぞいた。
「誰かが笛を吹いていたようでしたね」
「笛を、でございますか」
そういいながら、シズが自信に満ちた滑らかさで朝の身支度の用意をととのえるのをながめながら
「いい気持ちでした」
そういった時、彼女は、ふと、この朝のすがすがしい平凡さの中に、何か、きっと予感とでも言うようなものの匂いが、ひそかに紛れこんでいるのではないかと、胸をさわがせてみるのだった。きっと今日は、あんまり秋なのだ、と。風もないのに澄んだ冷気が、秋の尖兵が、この奥まった館の一部にも忍び入ってくるほどに、実の熟れる季節は近づいているのだと。シズのゆきとどいた指先から生まれる朝の身支度の、ひっそりした彼女の動きが、それでも少女として生きる今日の日の喜びの、体全体での表現なのだということは、そのかすかな微笑からもはっきりわかるのだ。
「ねえ、シズ」
「はい、お姫さま」
「ねえ、シズ。本当に秋は、さやかには見えないものね」
「本当に、いつのまにか、もう秋でございますね」
風の音にぞおどろかれぬると口の中でつぶやいていた彼女の心は、風もないのに細かくふるえ続けていた。彼女すら気づかぬうちに。
しかし、その朝は何事もなくすぎていった。それにもかかわらず彼女の胸の高鳴りは、静まるどころかますますその激しさを加えてくるように思われた。少女が呪術的な力をもつ季節に彼女も生きているのだった。あまりにひっそりした彼女の日常は、もうその激しさに堪えきれないように思われた。緊張で体を硬くしたまま座っているほかのない彼女には、それが喜びなのか苦しみなのかわからぬままに、ただただその時が一刻も早く来るようにと、祈るばかりで、ちょうど、それは母になろうとしている人の甘い苦しみに似ていた。
そのときは突然に騒々しくやってきた。ちょうど午後の日が、早咲きの菊の影を少しく伸ばしはじめた頃、シズが早足で廊下を渡ってきて、殿様のお越しですよと、告げたその時には、あの豪放な父の声が、何者か女たちをからかってでもいるのであろうか、力強い笑い声が、すぐそこで聞こえていた。
そうであった。彼女の父がここしばらくこの一角に訪れなかったのは何故だったのだろうか。彼女はそのことに気づかなかった自分のうかつさに、いまさらのように驚きを感じた。しかし、父のあの声を聞いたとたんに、父のあの大きな笑いに一刻も早く包まれたいという望いを、ずっと持ち続けてきた人でもあるかのように胸をおどらせていた。
彼女の父は、この小国の主であった。しかし、彼自身はそればかりでなく、都に近いこの土地を利して、諸国主とさまざまにわたり合う外交的手腕をもつと自負しているのだった。また、彼は実際、その一種独特な、直な押しの強さと、彼を含めて数代にわたり、この都の出口を平和に保ってきた一族の名声によって、多くの対立の調停の場によく引き出されるのだった。ただ、それは彼が信じているように彼の才能の故ではなく、むしろ彼がその育ちからくる善良さをその周囲にふりまき、細かい悪意には気づかぬゆえに、そのような場に必要な空気をつくりあげるような人物であるからであって、むしろ真の外交的手腕の欠如の故であるのだった。といっても、彼が無能な人物であるというわけではない。それは、彼をささえるこの国が平和であり、また、彼の家人達が彼を信じて従っている様子からも明らかであった。
彼女は小さい時からずっと、この父の大きな笑いの中に包まれるのが好きであった。また、この度のように父が何かしら理解できぬ用件で長く訪ねてくれなかった後に、彼女のもとに来る時には、必ず何かうれしいものを携えてくるのであり、今はその心遣いを、彼女は喜ぶのだ。それは彼女の母が亡くなってより後に、ずっと続いている父の思いやりであり、労わりでもあり、彼女の思いやりでもあった。
「父様、お帰りなさいませ。お元気なご様子、なによりでございます」
「おう、お珠も御機嫌よう過ごしておられたか」
こう答えて彼女を見つめた父の目は、常に変わらぬ微笑を内にふくんだまま、大またに歩んで床を背にどっしりと座った。
「父上様の笑い声が聞こえませぬと、この部屋もさびしゅうございます」
「どうした。お吉はこの部屋へあまり来ぬようか」
「はい。お兄様はお忙しい御様子です」
あははと笑って父が言った。
「若いうちは忙しくしているのがなによりだ。したがお珠、お吉にも、もそっと妹おもいをするように言いつけておこう」
「お兄様は、女子の私ではものたりぬのでございましょう。このごろは、お馬に乗って走り回っておられる御様子にございます」
お吉と呼ばれるのは、彼女の唯一の同腹の兄であり、最近元服したこの家の総領である。父は子供たちを皆その幼名で呼ぶことやめようとしない。子を愛する気持ちの人一倍強いためと彼女は思っていた。
「弟たちはどうか。誰か遊びには来ないのか」
「幼くとも男の子、皆、兄様のあとばかりついて歩いているようでございます。末のお時がたまに来てくれます」
「よしよし、それではお珠も寂しかろう。誰か妹でもいれば良い話し相手があったであろうに」
「いえ。シズがいてくれますもの。話し相手に困りませんわ。ねえ、シズ」
茶をもって入ってきたシズに話しかける彼女の様子は、父にとって唯一の娘であるということもあるのだろう、また、亡き妻の面影を感じさせもするのだろう、この上もなく愛しいものと見つめるのだった。
「そうか、そうか、お珠に寂しい思いをさせたか。したがお珠、今日はおまえを喜ばせる相談にきたのだ」
「何でございましょう。御相談と申されますのは」
目を細めて父は当ててみよといった。彼女はシズの方に首をかしげてみたが、二人とも見当もつかないで、また、期待を込めて父の悪戯っぽい目に問いかけた。
「お珠、もう秋だな。月見をしようかと思うのだ」
「お月見を」
「そうだ。もうすぐ武芸試合のあることは聞いておろう。その夜、月見の宴を催して家人達をねぎらってやろうと思っているのだ。そこでな」
彼はまた、そこで話を止めて彼女の方をうかがった。
「その月見のために一つ趣向を凝らしておいた」
「まあ、その趣向とは、いったい何でございましょう」
それはそのときのお楽しみじゃと、最後まで言い終りもせず、父はまた、あははと大笑いになった。彼女もシズも、いつもの彼のこのようなやり方、楽しみ方を充分に心得ているにもかかわらず、やはり何かきょとんとした様子のまま、しかしまた、父の大笑いに知らず知らずつられて微笑んでしまうのだった。
ひと通り話が終わっても、茶を飲みながら父はまだそこで、都の話などをして聞かせてくれた。様々な事件や人々の様子が、父の口を通して語られると、その悲惨さや悲しさといったものが取り除かれてしまって、いかにもこっけいな話となってしまうので、いつものことながら、彼女たちも時を忘れて夢中になっていた。が、その中でお珠の心に強く残った話があった。
それは、父がある笛の名人に出会ったという話であった。
「もうすっかりお年寄りなのでございますか」と彼女が尋ねた。父はいつもの調子で、
「おう、年寄りも年寄り、年寄りすぎて足も立たぬ。目も見えぬわ。それでも弟子たちにすべて任せて、笛ばかり吹いておるのじゃ。ところが、その笛の音たるや。さすがのこの父も驚いたぞ。まったく、名人とはああしたものか」
「それは、わたくしも一度聴きとうございます。それほどの名人の笛、いったいどのようなものでございましょう」
「わしもお珠に聴かせたいと思ってな、ぜひにと招待したいと思ったのじゃ。しかし、ならぬことであった。名人の云うには、たとえ乗り物をもってしても、もう長くは旅できぬというのじゃ。まして都からこの地への峠など、とても越えることはかなわぬと」
「それは、残念なこと。いっそ私が都に上ることをお許しいただけますなら、私も聞くことがかないましょうに」
「それはならぬぞ。断じてそんなことを許すわけにはいかぬ」
それはそうであろう。彼女とて許されるなどとは思いもよらないことで、それだけに父がこれほど強く否定することも驚きであった。実際彼女は、城の外にすらほとんど出かけたことはない。わずかに許された旅も領内に限られており、父のお供をして湯治に出かけることがあるばかりであった。
「その代りといっては何だが」と父が話を続けた。
「是非にと名人に願って、弟子の一人を伴って帰ってきたぞ」
「お弟子を、でございますか」
「そうだ。名人の云うには、彼の弟子の中でももっとも筋が良いものだそうな。その者に」
そう云いかけて、父はまたはははと大声で笑った。
「お珠も、聞き上手だわ。危うく。ははは・・」
邪魔をしたな。そういうと、父上は立ち上がって大股に部屋を出ていかれた。
三
秋の名月の日が来た。男子たちには、武芸試合の日であって、数日前から城内の者は何かそわそわと落ちつかぬ様子であったが、彼女にとってもそれは同じであった。違うのは、月見の宴と父の云う趣向とに気を取られているということであった。
その日は、城中が朝から落ちつかぬ風情であった。朝餉の膳を下げさせて、部屋いっぱいにあれこれ衣装をひろげ、今宵の装束などに改めて心迷わせる頃になると、奥まった彼女の部屋にも人々の叫び声や太鼓の音なども届くようになり、今日の武芸試合が押し入ってくるようになった。それがまた、いっそう今宵への期待を膨らませるように、何度も決心した衣装をまた改めて考え直すような焦燥を掻き立てるのであった。夕の刻が待ち遠しいような、それでいて、決まらぬ衣装にもう夕の刻には隠れていたい気持ちにもなるような、そんな一日を、シズと二人で過ごしているうちに、陽はずんずんと傾いていくのだった。
昼過ぎには終わった武芸試合の熱気は、夕の刻を迎えて月が東の山際に懸かるころになっても、この小さな館にまだ揺蕩っているようだった。月見の宴への迎えが姫のもとにおくられてきたのは、満月がすでに山際を離れて、美しく整えられた園とその中央に設えられた舞台を明るく照らしだす頃であった。
彼女の席は、いつもどおり父の席からは義母を挟んで左に流れて用意されていた。父の右側には兄を頭に弟たちが居並んでいた。今日は特別に幼い弟までもが同席を許されてざわめいていた。銀色の地に明るい黄で秋の花々を染め上げられた打掛に身をつつんだ彼女が、シズにかしずかれながら月見の宴の席にふみ入ると、若侍のみならず年寄りたちまでもが感嘆の溜息をもらし、静かな響きとなって座を渡っていくのが感じられた。
父に一礼をして座につきその場を見渡すと、末の時之輔が笑顔で見つめていた。何か話したいことがあるに違いないと思いながら会釈を返すと、少し頬を染めながら誇らしげに剣を振る仕草を返してきた。姫が赤子のころから仕えている老人たちに目をうつすと、少女らしさを増してくる彼女を誇らしげに、彼女の成長がまるで自分の手柄ででもあるかのように、にこにこ顔で見返してきた。若い侍たちはというと、目をみひらいて彼女を見つめるもの、わざとのように隣の朋輩に話しかけるもの、月を愛でるもの、肩をいからせるものなど、その様子はさまざまで、しかし皆がそれぞれに篝火と月の光にうかぶ彼女を見つめていることはかわりないことが感じられた。
皆がそろったところで、父上が軽く会釈をなさると、ドンと太鼓が響いた。
「幼きもののふの部、時之輔君」と呼びあげる声がして、何と正面上座の末席に座っていた時之輔が、敏捷に立ち上がり正面の壇から駆け下りて、下に設えられた緋毛氈をひきつめた廊の中央にかしこまった。若家老が進み出て父に一礼をし、あらたまって時之輔に向かい合い、小さな太刀一振りを彼の手に与えた。時之輔はそれを畏まって捧げて父に礼を返し、一歩下がって、何とその場で刃を抜き放った。月に照らされて刃が輝きを放つのを確かめるように眺め、鞘にもどして再度一礼すると、元の席に駆け戻った。その時になって主に年寄りたちからどっと誉めそやす声が上がった。恩賞の剣をその場で抜き放つという思わぬ彼の行動に、一同息をひそめてしまっていたからであった。古老たちは、時之助の豪胆な振る舞いに息を抜かれたあとで、その素質に希望を見出したのであろう。ひと時左右と語り合いうなづき合いつつざわめきが続いた。本人の時之輔は元の席に正座するや、父を見て姉を見て、幼い笑顔で喜びを伝えてきた。先ほどから彼女に伝えたくてしかたがなかった今日の手柄を、こうして満座の中で姉に伝えることができたのを、心から満足しているようすであった。
次々に呼び上げられる勝者の名前に続いて、次々に恩賞が手渡されていった。そのたびに、勝者は勝者の敗者は敗者の熱が、誉めそやす声々とともに、涼やかさを増してきた初秋の夜気の中に放たれていくようであった。そうしてようように座が静寂をとりもどした時に、父がいつものように全員に話しかけた。
「皆の者、今日は良き武芸大会であった。皆の日ごろの鍛錬を、たしかにこの目で見せてもらったぞ。勝者となったものはあっぱれ、しかしこの勝利に奢ることなくさらに鍛錬を積むように。また今日勝者となれなかった者どもも、日々鍛錬を怠らず、いつかは勝者となれ。また、一旦ことが起こったその刻には、お前たちは一党の者として戦いに臨むことを忘れてはならぬ。それぞれが得意の技をもって、隣で肩を並べて戦う朋輩の力量を知り、補い合って一党の勝利を勝ち取るのだということを忘れるな。そのためにも、今日の武芸大会は、我が一門にとっての貴重な経験となろう。一同の者、あっぱれであった。」
つづいて酒食の膳が運び込まれて、一同、酒盛りとなった。常とは違い月見の宴である。大広間ではなく広庭を取り巻く縁と、今日のために特別に設えられた一段低い縁とに控えた家臣たちも、今日の武勇を肴に盛んに盃を酌み交わし始めた。元服・裳着前の女子供にも酒の香のする甘酒がふるまわれて、家臣の前ではあまり食べ物を口にしない姫たちもほんのり頬を染める程には無礼講であった。しばらく座がにぎわって、人々が座を行き来するようになったころ、末の時之輔が今日賜った小さな剣を胸に抱いたまま義母と姫の間に割り込んできた。
「お時、あなたも今日は剣士でしたのね」と姫。
「母上にもご覧いただきたかったのです。姉上にも」。
「お父様がお許しになったとはいえ、幼いお前が怪我でもせぬかと母は見ておれませなんだ。それに、武芸大会は男子のもの、私たちは招かれてはおりませぬゆえ」。
時之助の母、お珠の義母は柔らかい目をして答えた。
宴もたけなわ、中央に設えられた舞台では、ヒョトコやオカメの面をつけた滑稽踊りが始まっていて、酔いのまわった家臣からも踊りに参加するひょうきん者が出る始末だった。皆がこの一党に属していることを心から歓んでいることを、そしてお互いの信頼が固いものであることを、この館を満たしている笑い声や掛け声で証するかのようであった。
「お時がこのように男子になるとは、時の立つのは早いものよ」。父が義母に上機嫌で話しかけた。
「お時は本当に武芸がお好きなのですね。毎日の鍛錬でお忙しくされていると聞いていますよ。この頃はこの姉のところに訊ねてはくれませんもの」。姫が弟に寄り添うようにしてやさしく話しかけた。
「父上のお許しがなく、私は武芸大会に出ることかないませんでした。出れば必ず恩賞を得ましたものを」と、すでに元服して吉右衛門嘉忠と名乗る嫡男のお吉が、いかにも不満そうに漏らした。
「お吉、よくお聞き」と父。
「お前は本当に武芸に堪能でなくてはならない。家臣に秀でていることは大切なことだ。しかし、よくお聞き。お前が刃をふるうということは、それはもう負け戦だということだ。お前は負け戦をしてはならない。家臣を率いて勝たねばならない立場なのだ。幼年組の時のように、自らの武芸の技量を家臣と競う時代はもう過ぎたのだ。そのためには、家臣の一人一人をよく見極めねばならない。それぞれの技量を知ってこそ、統領として最も強い集団を率いることができるのだ。これからは、日常坐臥、彼らを理解して、足らぬところと余ったところをどのように組み合わせて、最も強い一党とできるかを、工夫することが肝心なのだ。分かるか。今年の武芸大会に出ることを禁じたのはそのためなのだ。良くわきまえて立派な統領となるのだ」。珍しく父がお吉を正面から見つめながら諭した。
「父上、お教え肝に銘じます」と、お吉も殊勝に答えた。
「それに」と、父はなお熱を込めてつづけた。
「これからの道は競い合う朋輩のない道となろう。統領となるもののみに許される、求められる道となろう。良く励むのだ。必ず開眼するであろう」。
父が嫡男のお吉にこれほど厳しい、しかし愛情を込めた説教をするのを、姫は初めて見た。兄のことながら厳しく心を突く思いもし、また羨ましくもあった。
ほんに兄上の歩まれる道は統領の道、一党の幹となり根を張っていくことが求められるのであろう。それでは、私に求められる道とはどういったものになるのだろうか。そうした想いにも漠然と心をさまよわす姫なのであった。
月はしらぬまに中天に懸かろうとしていた。ドンとまた太鼓が鳴った。ざわめいていた人々も、また何か父の言葉が始まるのかと静まりかえって席にもどっていった。急に夜の冷気が増してきたように思われた。
「お珠、これはお前のために用意した趣向なのだ」。父がやさしい目を彼女に向けて語りかけた。
「もともと、今日の月見の宴はこのために催したようなものだからのう」。
「お父様のおっしゃっていた今宵の趣向、お話をお聞きしていらい心を離れずに、今宵を楽しみにしてまいりました」。父からの慈しみをすなおに受けて、彼女も心からの想いを込めて父を見つめた。目をもどしてみると、いつの間にか舞台の中央には一人の青年が端然と座っていた。その後方には、鼓をもつもう一人の青年。舞台にはこの二人きりであった。月光が涼やかに舞台を照らしていた。宴も終わりの刻に近づいて、篝火は勢いを減じていたが、そのぶん中天にかかる月の光は増しているように感じられた。さわやかな初秋の宵の風が、柔らかに過ぎていった。
舞台中央の青年は、浅葱色の直垂に侍烏帽子姿で、軽く礼をする姿勢でしばらく動かなかった。人々のしわぶきの音も途絶えたころ、彼がゆっくりと頭を上げた。どうらんでも塗っているのであろうか、いや、それにしては透明な印象を与える白い顔で、目を閉じたまま正面を向き、そのままでまた静止した。ほんの一瞬のことかもしれぬ、が、あたりには深い静寂が満ちた。月の光が彼一人にあたっているかのように感じられた。鼓の音が、突然静寂を破った。青年が手にした篠笛を口にあてた。静かに漏れでた笛の音が、低く長く夜気を這って拡がっていく。単調な調べに思えたが、これもゆっくりと繰りかえす鼓の音に支えられるようにして、闇を縫って揺蕩うようであった。低く高くと、ひとつの不思議な旋律が何度も繰りかえされて、まるで眠りに誘い込むように思われた。夜の静寂が、笛の音によって創りだされているかのようであった。そして静寂があたりに十分に満ちたとき、鼓のリズムが徐々に気づかれぬほどに徐々に速度を速め始めた。誘われるように笛の音もその回転をわずかづつ早めはじめた。そして第一の飛翔があった。笛と鼓の音が手をとりあって突然に高まり、音によって綯われた太い目に見えぬ創造物が、松の梢の上までも届いたかと思うと、次の瞬間にまた地上の高さに低まったように感じられた。今生まれた太い何かは、しばらくの間、舞台の周囲をうねって巡るようであった。そして第二の飛翔が来た。さらに太く成長した笛と鼓の音の創造物が、高く高く天守にまで届こうかという勢いで上昇し、そこで勢いを亡くしたかのように地上に急降下してきたような印象を、聴いている者たちに与えた。その太くなった音の創造物は、舞台を中心に家臣の占める縁の頭上を、うねり回りながら再度力を蓄えるようであった。聞く者たちは皆、身動きすることも忘れ、一つの音も聞き逃すことを許さぬ力に捕らわれてしまったかのようであった。その音の創造物は、悠々と広庭をめぐりながら、徐々に高度を上げていくようであった。今は、最初の跳躍でかろうじて届いた松の梢の先の頭上を、大きな円を描いて巡りうねっていた。天頂には美しい月がかかっていた。皆の頭上のその不思議な音の創造物は、さらに太く成長し、さらにその速度を増してくるようであった。そして、第三の飛翔の時がきた。鼓が破の性急な連打を成長させる。高く低く震える笛の音がそれに答えて、創造物をさらに勢いづかせる。頭上を巡る回転はさらにその速さを増していく。そして、それは突然、月にむかって飛翔した。高く高く上るにつれて、その創造物の姿は、笛の音は、小さく月に消えていった。最後に、惜別を告げる鼓のタンの音が一つ、すでに静寂の帰ってきた夜の闇を鋭く貫いていった。
息をのんだまま、しばらくの刻がすぎて、一同は突然、我にかえった。最初はえんりょがちに称賛の声がおこり、その声は瞬く間に大きなどよめきとなって、広庭を、館を、覆いつくした。
姫はというと、いまだに夢幻の世界に漂っているようであった。笛吹きの青年の顔を、じっと見つめ続けていた。青年の目が確かに姫にそそがれていることを感じていた。笛の音が響きだした最初から、姫はその青年の顔を見つめ続けていたのだった。彼の目は、演奏のあいだ中、一度も開かれることはなかった。この方は盲目なのであろうかと確信するほどに、一度も開かれることはなかった。しかし、演奏が終わり、音の創造物が天高く舞い去っていって、鼓が鋭く鳴ったときに、彼の目は初めて見開かれた。そして、まっすぐに姫の目を射抜いたのであった。身動きすらかなわぬまま、彼女もまた青年の目をまっすぐに見つめていた。姫の蒼白だった頬に、ゆっくりと朱の色がもどってきた。
「いかがであったかの、今宵の趣向は」。父が問いかけてきた時になって初めて、彼女はこの世に引きもどされた気がした。
「何と、お父様、
本当に恐ろしいほどの笛の妙技、
珠は魂から驚かされました」。
ようように、それだけを口にしながら、姫は父の方に、むりやりに視線を向けた。
「そうか、それは恐悦至極」。父は己れのたくらみが、思う以上に衝撃を与えたことに満足気に笑った。
舞台に目をもどすと、すでに青年たちは姿を消していた。人々の称賛の声も徐々に静まっていった。
「皆の者、大儀であった」。父のこの声で、この宴はお開きとなった。
父や義母が立ち去り、兄、弟たちも席を立つなか、姫はそのまま立つことができないでいた。お時がついと姉に寄り添い、お姉様まいりましょう。と手を伸ばしてきた。このままでは臣下の者がたてませぬ。シズも手を添えて、姫を助け導いた。部屋に歩み始めた姫は、まだ雲のはるか上に漂うような心地のまま、手を引かれていった。
四
まだ暁のうちに、姫はすでに寝床から出た。隣室に控えていたシズが、さっそくに身支度をととのえる手助けをしてくれた。
「姫様、今朝はお早いこと」。
本当のところ、彼女は一睡もできずに一夜を明かしたのだった。横になっていても、あの笛の音が、どこかで鳴り響いていた。まるで目に見えるような笛の音であった。あの音の創造物は、今も虚空をとび続けているのであろうか。思い巡らすだけで、心の臓が早くなるようであったし、あの青年の不思議なまなざしが彼女にそそがれたことに思いが至ると、頬に熱を感じる彼女であった。
「あの笛の音」と、彼女はそっと漏らした。
「ほんに、素晴らしい笛でございましたなあ。あのような笛の音はついぞ聞いたこともございませぬ。お殿様のおっしゃったことに、相違ございませなんだ。名人の第一の弟子とのことでございましたね。お弟子であのお腕前、名人ご自身はいかような音を出されるのでございましょうか」。感に堪えないという風情でシズが答えた。
「今日はお館の皆々様も、あの笛の音のお話でもちきりでございましょう」と、続けた。
「心がふるえました。いや、今もふるえておりまする」。
そっとつぶやく姫を、シズは少し眉をひそめるようにして見つめた。しかし彼女は、そんなシズの様子に気づきもせずに、あの笛の音を追っているような眼差しで、明け染める東雲を見つめていた。
「あのお方は、もう京に戻られたのであろうか」。
「昨夜は遅うございましたゆえ、そのようなことはないかと」。
「そうであろうなあ」。そういってため息をつく姫であった。
その時は誰も気づかなかったのだが後に考えてみますと、彼女の様子が変わったのはその朝からのことであった。もともと食も細かったし、物思いにふけりがちで、一人静かに一日を過ごすことも多かったので、そのかわりようは外目には微かなものではあった。そのうえ、誰が考えても前夜の笛は前代未聞のもの、感受性の強い彼女に人一倍の印象を残したとしても、それは不思議とは思えなかったからである。
しかし日が経つうちに、微かな変化も誰の目にも明らかとなって、シズなどは気も狂わんばかりに、姫の身を案じるようになった。お館に永く仕える薬師も呼ばれたが、そのかいもなく「何のご病気かはわかりかねます。とりあえず滋養のあるものをお召し上がりくださり、安静にご回復をお待ちになれば」との由でらちがあかない。昼間でも床に就いていることがますます多くなり、食はますます細るばかりであった。殿や義母様もお通いになり、あれこれと美味なものを差し入れても、いっかな口にしようともされずに、これらの人々にはただ優しく微笑んでいるばかりであった。特に末の弟、時之輔などは毎日のように顔を見せるようになっていた。もともと赤子の時からこの姉姫に特にかわいがられて育ったせいもあって、姉のことが心配で心配でならぬという風情であった。ただ会う時には気丈に普段にもまして快活な顔を見せていた。
「姉上、今日のご具合はいかがでございましょう」。今日も午後になると元気のよい声を張り上げて見舞いに来た。
「今日は、お顔の色が昨日よりも良いようでございますね。今日は、これを姉上のために持ってまいりました」。
そういって差し出したのは、桔梗の花束であった。
「まあ、時之輔様、このお花をいかがなされたのですか」。
「今日の昼過ぎに、野駆けをしてまいりました。日和が丘のお社で小休止をいたしました時に、あの丘一杯にこの花が咲いておりました。それは見事で美しく、ぜひ姉上様にもお目にかけたくて、少し頂戴してまいりました」。
「まあ、日和が丘ともうせば、ずいぶんと遠くにおいでになったものですね。お疲れにはなりませんか」。
「これしきのことで疲れてなどはおられません。疲れるのはもっぱら机のまえでございますよ。野駆けに出かけましたらば、疲れなど吹っ飛んでしまいます」。
「ほんに凛々しい若武者になられましたねぇ。それにお優しいこと」。
一群れの桔梗を胸にいただき、しみじみを花と弟を見つめる姫であった。姫は、ますます透明な儚さを増し、ますます美しく眩しく感じられた。
「姉上も時にはお外に出られまし。今はさまざまな秋の花が咲き誇っておりますゆえ、お心も晴れることでしょう。私も日和が丘の桔梗のうわさを聞き、いてもたってもおられずに」。
「あれ。それでは私のためにわざわざ日和が丘まで野駆けしてくださったのですか」。
心に秘めたことを、ついうっかり口にのぼらせてしまい、時之輔は思わず頬を赤らめて黙ってしまった。優しい沈黙の時が二人のあいだを通り過ぎていった。
「ほんに心大きく強くなられたこと」。
「私も、臥せってばかりではありませんのよ。昨夜、宵の頃も、縁に出て、シズと二人、お月様を眺めておりましたのよ」。
「宵の頃に、でございますか。私などはその頃は書を前にしておりました。このところ月を見上げることもありませぬ」。
「まあ、ご熱心なこと」。
「いえね。爺が後ろから睨みつけておりますゆえ、いたし方なく。ただただ眠気をこらえておりました」。
まあと、微笑んで弟を見る姫の頬に、時之輔もまたようやく頬が緩んでくるのであった。
「お月様もずいぶん欠けたことでございましょうね」。
「もう半月となりました。刻のたつのは早いもの」。
「月を眺めるのもまた一興、お心が休まることでございましょう」。
しばし遠くを見る姫の様子、そして吐息とともに呟いた。
「そう、心休まります。笛の音が聞こえてくるような」。
五
兄の吉右衛門嘉忠と時之輔が、そろって父の書院を訪ねたのは、その夜のことであった。兄弟は、父が普段の夜は酒を嗜むこともなく、軽い夕餉の後にも書院にこもって古典を紐解いていることを承知していたので、そしてその夜もいつもどおりの宵であることを近習の者から伝えられたので、訪室の許しを乞うたのであった。
「何事かの、二人揃うて」
書見台から目を上げた父のようすは、突然の訪問に驚きを隠せないままに、いつも通りの穏やかさであった。ただ、ほんの少しやつれたような気配が感じられて、吉右衛門ははっと胸に迫った。
「父上の大切なお時間に、兄弟二人押しかけましてお邪魔いたしますこと、まことに申し訳ございません。実はお耳に入れてお願いいたしたいことがございます」。
「おう、どのような事じゃな。改まって願いとは」。
「はい、父上もご心労のことと推察いたしますが、お珠のことでございます」。
「おお、それは」。
それは彼にとっても、日ごとに深まる苦悩であった。最初は風邪でも得たのか、あるいは女性特有の心身の働きが始まったことによるものかと、軽く考えていたにもかかわらず、愛する一人娘の様子は、一向に改善のようすを見せないままに日が過ぎていたからである。先ほどからの読書も、思いを集中することもできずに、目は同じあたりをさまよっている有様であったのだ。しばらくの沈黙ののちに、
「それで、おこと達の願いとはどのようなことかな」。
「実は私の考えではございません。お時が今宵、私に相談してまいりましたことですので、お時の方から申し上げます。お時」。
そういって末の弟の方を振りかえった。
「お時、どのようなことじゃ。申して見よ」。
末息子の方に顔を向けなおすようにして訊ねる父は、さらにも増して優しい眼差しであった。畏まったまま時之輔が、まっすぐに父の目を見ながら言った。
「父上、あの笛吹きを再度呼び寄せていただけないでしょうか」。
「何と。してどうしてじゃ」。
「姉君のお心を慰めるためでございます」。
「お時は、笛で病が治ると申すのか」。
「分かりませぬ。しかし、治るやもしれません」。
「はて、なぜにそう思うのだ」。
「私、今日も姉君をお訪ねいたしました。その折のこと、昨夜、月を愛でておられたそうにございます。その折に、笛の音が聞こえたように思われたと、これはまるで呟くように仰せでした。それに、思いますと姉上のご様子が変わられましたのは、あの月見の宴の明けの日からでございました」。
「なるほど」。そう言ったまましばらく考え耽っている父であった。
「父上、実は私がお珠のこの度のことを聞きましたのは、あの月見の宴から数日ののち、今宵お時から聞かされますまで、そのことは気づきませんでした。お時はお珠のところにはよく訪ねてくれているようで、お時が申しますには、あの次の日からようすが変わったと。もしそれが本当のことでありましたら、お時の申すとおり、あの笛をまた聞かせるというのもよい思案のように思えます」。
「成る程のう。儂もあれが月見の宴のすぐ後から始まっているということには気づかなんだ。かの笛吹きをもう一度呼び寄せることも可能であろう。しかし、もしあの笛が原因であれば、もっと悪いことがおこらぬかのう」。
「父上のご心配もわかりますが、あれほどの笛の名手。お珠を慰めて病を平癒いたすためと言い聞かせておきますれば、きっとそれなりの優しい音色を奏でてくれるのではありますまいか」。
「分かった、よく思案いたそう。それに、二人とも姉妹思いの良き兄、弟であることよのう。この父も、お珠のことは重く心に圧しかかっておったのじゃ」。
そういうと、少しやつれた目じりに皺をよせて二人をやさしく見つめる父であった。
翌朝早く、さっそく書院にシズが呼ばれて、姫の様子についてさまざまに問われた。シズはもうどうしていいのかわからない、できることがあるなら何でもしてほしいと、彼女の希望を述べた。すでに彼女に思いつく限りを尽くしてきたからであった。姫の母が亡くなってからというもの、いや姫の誕生以来というべきであろうが、姫はシズのすべてといってもいい存在だったからである。薬師たちも呼ばれた。この館に何代にもわたって仕えてきた者たちであり、この館の支援を受けて有名な薬師にも師事してきた経験を持つ有能な者たちである。彼らもまた、可能なことは、考えられることは、いろいろと手を尽くしてきていた。また、これからも努力を続ける覚悟であると語ったものの、正直なところ心底途方に暮れているようすがうかがえた。
大殿は決断した。たとえそれが幼い時之輔の意見に発しているとはいえ、父としてできる限りの手を尽くそうと思ったのである。すぐに年寄り役の重臣が呼ばれて、書状と口上をお礼の品々と共に託されて都へ旅立ったのは、その日の午後であった。
六
それから三日の後、使者は例の笛吹きの青年を伴って館に帰還した。これほど早い帰還が叶ったのは、使者である年寄りもまた姫のことをこよなく愛おしく思う、我が娘以上に愛おしく思う者であったからであろう。彼の必死の嘆願は、名人とその弟子の心を動かさずにはおれなかったのである。笛吹きの身分を考えると異例のことではあるが、彼らはすぐに館の書院に通された。先日の笛の神技ともいうべき腕前が、すでに皆の知るところであったからでもあろう。そこには大殿と義母、それに少し下がってシズが控えていた。
「よう来てくれた。面を上げよ。このように早急な再度の来訪、まことに大儀であった。依頼のおもむきはすでに存じておろう。そちの笛の技で、姫を慰め、病を平癒してもらいたいのじゃ」。
縁に平伏していた青年が、正面を向いて小首を傾げていった。年寄りに急かされて夜をついて駆けつけてきた様子もなく、穏やかなしかし凛々しいようすであった。
「私のような未熟な者の技で、そのような大役果たせますでしょうか。確かにあの折には、私めも何か大いなるものに捕らわれたような気がいたしましたことは覚えておりまする。しかし、まだまだ未熟、修練中の者なれば、そのような大役、身に余ることでございます」。
「いやいや、あの折の演奏はたいそうなものがあった。まことに感じ入った次第じゃ。あの月見の宴で、そちの見事な笛を聞いていらい、姫はその音が耳を離れぬようすなのじゃ。したが、願いがある。あの折のような曲を求めているのではない。この度は、病を癒すような優しい曲を望んでおるのだ。おぬしの腕なら、そのような曲はまた格別に優しいものであろう。そのようなものであるように、必ず心してほしいのじゃ」。
「殿様、ご依頼の御趣旨はよくわかりました。私には身に余る大役ではございます。どのようなお役に立ちうるものか、私にも分かりかねます。しかし、もし姫君のご気鬱が、私めの笛がきっかけと仰せなのであれば、私めも覚悟せずばなりますまい。微力な者ながら、全力をつくして見せましょう」。
涼やかに言い放った青年は、もう一度深々と平伏した。
「うん。頼んだぞ。姫は我らにとって、胸中の玉のごときもの。おことの尽力により、姫平癒の暁には、どのようにも労ろうてみせようぞ。おシズ、案内をいたせ」。
黙ったままそっと微笑みを浮かべて、青年はもう一度頭を下げてさがっていった。
シズに案内されて、青年は庭に面した座敷に連れられていった。その館の奥深い座敷であった。縁の外には、丈の低い緑の木々が茂りまだ紅葉は迎えていなかった。小さな池があり、それをとりまいて秋の花々がひっそりと咲き誇っていた。すでに宵色が満ちてきていた。筧に微かに流れる水音が聞こえるほどに、その奥まった一角は静けさが支配していた。姫が臥せるようになって、この辺りは以前にも増してことさらに、ひっそりとした空気に支配されていた。それは、家中の者が皆、いかに彼女のことを心にかけていたわっているかということを顕しているようであった。
青年は、みごとな花園を描いた襖に面して席を与えられた。座布団ではなく床几が用意されていた。案内したシズが青年に向かって深々と頭を下げていった。
「お姫様は、まだあなた様のおいでになったことは、ご存じありません。この頃は、余りお起きにもならずに臥せっておいでですし、あなた様が本当においでいただけるものか、例えおいでいただけるとしても、それが何時のことであるのかも分からなかったからです。それでもこうしておいで下さいました。本当にありがとうございます。私のことはシズとお呼び下さい。姫様のお生まれになった時からお仕えしてまいりました者でございます。お姫様は、格別にご壮健と申しては、そうはお見かけいたしませんが、しかしこの度のようなことは、お生まれになってから初めてのことでございます。私はもう命を削る思いでこの数日を過ごしてまいりました。もしご病気拝復のために助けになるとお思いのことがございましたら、また、あなた様のここでのお暮らしに必要なことがございましたら、何なりとお申しつけ下さい」。
姫の眠りを妨げないためであろうか、これだけシズが饒舌になることは稀であったが、小さな声で挨拶を述べると、その眼には泪がやどった。
「ご丁寧なご挨拶をいたみいります。私のつたない笛の技で、ご病気ご拝復の叶うものかどうか分かりかねますが、全霊をつくして努めてみましょう。今日はもう宵の刻ではありますが、またお休みになっているとのことではございますが、しばらくの間、お近くからでも笛をお聞かせいたしましょう」。
「年寄りに急ぎの旅をさせられたことでございましょう。お疲れのところを誠にありがたいことでございます。そう願えれば本当にありがたいことと存じます」。
「皆様のご心配のご様子、いかに皆様が、姫君を愛おしく大切にお思いであるか、大殿様からも、かのご老人からも、あなた様からも、家中の皆様のご様子からも心に沁みこんでございます。心休まる曲を」。と、そっと呟いて、青年は旅姿を簡単に整えたままであったが、床几に座り直し、瞑目した。まだ宵の薄明かりの残った中、また、姫の寝室に続く居間の襖の前であったが、そのまま息をととのえて瞑目している青年の様子は、にわかにシンとして不思議な空気に包まれるようであった。
やがて腰に差した錦の袋から篠笛を取り出して、静かに口にあてると、優しい音色が、小さな音で響き始めた。
七
翌朝の姫の寝覚めは、不思議な安らかさをともなって訪れた。
「不思議な夢を見ました」。そういって目を覚ました姫の顔色は、透きとおるほどに白いままではあったが、昨日までにはない生気のようなものが仄かにもどってきているように感じられた。シズは、不思議な感動を覚えながら、
「どのような夢をご覧になったのでしょうね」。と、姫のみだれ髪をととのえる手をゆっくりと動かし続けながら尋ねた。
「広い広いところにおりました。一面に花が咲いていました。あれは、たぶんお時が持ってきてくれた桔梗の花園で、どこまでも、空の彼方まで続いていました。遠くでは青いお空とお花畑の境が分からないくらいでした。私は、体が無くなったように軽くなって、風に乗せられて、一面の花の上を渡っていきました。本当に気持ちがよかった」。
呟くように話された姫の夢は、昨日までのシズであればやや不安を感じさせるような夢であった。しかし、遠くを見つめながら、夢を思い出しつつ語る姫の眼差しには、シズの不安を宥めておさめるような光がもどっていた。
「それはようございましたね。姫様がよい夢をご覧になるというのは、きっとご病気が良くなられる徴でございましょう。御髪をととのえましたら、朝餉をお持ちいたしましょう。少しお召し上がりになられましたら、きっともっと良いことが起こるような気がいたしますよ」。
近頃の朝とは違って、姫は黙ったままでいたので、シズは急いで彼女の朝の身支度を簡単に整えると、気の変わらぬうちにと大急ぎで朝餉の膳を運んできた。床はそのままに、助け座らされた姫は、粥と汁とふわふわとした卵ののせられた膳に、それでも少し箸をつけた。世話につきそった若い侍女もその様子に少し愁眉をひらいた。シズなどはうっすらと目に涙を浮かべるほどであった。
「お食事が終わられましたら、お横になられますか」。
「いえ、今日は少しこのままで」
「嬉しゅうございますが、ご無理をなさいませんように。いつでもお休みくださりませ。お申しつけ頂きましたらお手伝いいたしますから」。
いつもと違う姫に喜びを隠せぬ様子で、それにちょっと悪戯っぽく微笑みながらシズが答えた。
小一刻ほど、姫は床の上に座ったまま縁の外の日差しを眺めていた。空はすでに秋の色で、高いところに筋のように引いた雲がたなびいていた。その雲はまるであの宵に天に昇っていった不思議な創造物が、雲となって今も高い天を駆け巡っているような気がするものだった。うっとりと目をつぶると、昨夜の夢の中にまだいるようであった。天も地も、今日の空のように藍一色に彩られている空間を、幸せな気持ちで苦痛もなく漂っていたあの時。その時、姫の耳には密やかに優しく、笛の音が響いていたのだった。それはあの宵に姫をともなって高く跳んだ笛の音を想わせる切実さを感じさせながら、もっと優しい、寄り添うような香りを含んだものであるように思えた。彼女はうっとりと夢の中の空間に身をまかせたまま、寝室の彼女の床の近くにまで差し込んでくるようになった秋の陽の気配を、そっと目を閉じて感じとっていた。その時、夢の中で聞いていると思い、身をまかせている笛の音を、本当に今、聞いているのだということに突然気づいたのだった。
驚いて飛び上がり、泳ぐようにして隣室との境をなす襖に近づき、がらりと開けたと、彼女の心の中で起こったことはこうであったが、実際には病み伏せていた日々が長いせいで、またそれ以上に、幼少時からの躾が心の奥深くまで行き渡っていたために、あくまでも優雅に立ち上がり、彼女の病床を踏まぬようにまわりこんで、襖を淑やかに開け放ったというのが実際に起こったことであった。しかし、その大きく見開かれて激しく輝く彼女の瞳と、何よりも隣室との境に立ったままで、昨夜と同じく据えられた床几に座り、瞑目して笛を吹く青年を見下ろしたというその行為が、いかにも彼女らしくなくて激しい驚きをあらわしていた。
シズには、このように姫が自ら起ちあがって、自ら襖を開け放つとは思いもよらぬことで、信じられないと目をみはった。青年の斜め後ろに控えて、姫の呼ばれる声が聞こえたら、縁を廻って寝室にうかがい、昨夜、否、この数日に起こったことを申し上げるつもりであったからだ。その時の姫の驚きと喜びとを、自分がもたらすものと思い定め、密かにその時を想像してうれしい悪戯心で待ちかまえていたのに。しかし、姫は常にないようすで何も言葉を発することもなく、美しい花園を描いた襖絵の合間に茫然と立っている。その様子は、まるで花園に立つようであった。
「あっ、姫様」。そう言って起ちあがろうとするシズを、姫は微かな右手の動きで止めて、そのまま青年を見つめながら襖の向こうに静かに正座したのだった。音をたてずに縁を廻って、シズが座布団をすすめようとしたことにすら気づかぬ様子で、姫は目を閉じて笛の音に全身を浸らせているようすだった。青年もまた、瞑目して笛を奏で続けた。それは、昨夜彼女を訪れた曲のようでもあり、新しく朝の気をこめられた曲のようでもあった。シズもまた、瞑目して笛を奏で瞑目して曲を愛でる二人の間に挟まれるようにして、二人のようすに目を瞠っているばかりであった。
どれくらいの時間、笛が奏でられていたのか、その場にいた誰にも計りかねたが、その曲が終わって青年が目を開けたとき、目の前には瞑目して曲を聴いていた姫の白い顔があった。青年は床几から降りて、姫の前に平伏した。姫が目を開けた時には、目の前に平伏する笛吹きの青年の姿があった。昨日の旅姿と異なり、今日は身なりを整えての参内であった。
「あなた様は、昨夜も笛を聞かせてくださったのでしょうか」。
「昨日遅く、もうお休みとは思いましたが、シズ様のご案内でこのお部屋にまいりまして、ふつつかな笛ではございますがお聞かせ申し上げました」。
「その笛の音で、私に安らかな夢と眠りを与えてくださったに違いありませぬ。今朝はこんなに安らかな朝を迎えることができましたもの。ありがたく思います。それにしても、何故」。
この時になって初めて、姫はシズの方に目を向けた。それまでは平伏している青年から目を離せないでいたのである。
「お姫様、そのままではお疲れになりましょう。いかにご気分が良いとは申せ、長くご病床に臥せっておられたのですから」。
そして、「ご苦労であった。感謝もうします。しばらくこの部屋で控えておいで下さい」。と、青年にむかって述べて、襖をあらためて閉じて、姫を寝床へと案内した。
「このことの次第は、いまからゆっくりと申し上げますから、どうかご無理をなさいませんように」そう言いながら。
八
姫の容態が好転したという知らせは、すぐに館中に広まっていった。大殿にもシズが報告にと跳んで行った。それは、たった半日のことでもあったので、かなり控えめなものではあったけれども、喜びが内から湧いてくるようなシズの表情から、それを聞いた人々は、深く暗い森から出て明るい草原に立ったような気がするほどであった。疑い深く「たまたま今日は姫のご機嫌が良かっただけであろう」と、まだ信じることのできぬ人もいたけれど、おおかたの人は自分の望むことを信じた。
「もし、お珠がもう少し回復したら、儂もまた渡っていこう。それまでは、かの笛吹きの差配はおぬしに任せる」と、大殿からシズへの指図であった。長く病床について弱りきっている姫の容態を心にかけてのことであろう。また、一抹の不安も拭えないからでもあろう。毎日報告せよとの言葉を、これもまた面痩せして疲れ切った容子のシズに、いたわりの言葉とともに言い渡された。
その日から、午前の遅めの時間と、午後の遅めの時間を、笛が演奏される時間と決め、まだ長い時間、座ってはおれぬ姫の寝所の隣の部屋から、一日に二度にわたって笛の音が響くようになった。シズのこのように心配りされた手配にもかかわらず、姫は笛の時間になると床に起き上がり、閉じられたままの襖の向こう、かの青年と向き合う形で耳をかたむけた。シズが「横になられては」と勧めても、姫は頑として起き上がることをやめなかった。いつも目を閉じて笛の音に聞きいる姫の瞼の中には、あの宵の宴での、月に照らされた凛々しい青年の姿と、たった一度だけ見つめ合った彼の瞳の澄んだ深さが浮かんでくるのだった。あの宴の宵と違うのは、この度の笛の音の何とも言えない優しさであった。優しくはあったが、あのおりの深さをかいま見せる音色であった。優しくはあったが、奥に深い命の息吹を湛えている点では、あの創造物を生んだ宵の演奏と同じものを感じさせる音色であった。そして演奏を重ねるにつれ、姫の想像の中で、青年の瞳は限りなく優しいものへと変えられていくのであった。
それからしばらく後のことである。ようやく日中は起きておられる時間も長くなり、床上げすることとなった。吉日を選びというので二日後に姫の居室に大殿をお迎えし、親しい者ばかりを招いて昼餉を共にすることとなった。その日を迎える前にも、すでに何度か、大殿や義母の見舞いもあったし、時之輔に関しては、手柄がうれしくてもあろうが、いつも大きな笑みとともに姉を見舞ってきたのだった。しかし、必ず起き上がってもてなそうとする姫への配慮から、これらの人々もこの床上げの祝いの日までは、見舞いを遠慮しがちであったので、この日は久しぶりの家族の集まりのようになった。これらの家族に加えて、笛吹きを招へいする大役をまかされた爺と接待役のシズと侍女たちが顔をそろえ、姫の居室と隣り合った座敷の二間では手狭なほどであった。
その日には、祝いの昼餉の膳が用意された。祝い事の赤飯や小ぶりな鯛も添えられて、ささやかながら思いのこもった膳であった。そしてこの日にも常に変わらず笛吹きの青年の演奏が催されることとなっていた。
少食ながらも姫も皆と共に膳に箸をつけていることを、確かに自らの目で確認できた大殿は、珍しいことに昼から盃を取り、使者としてたった年寄りにも盃を取らせて、その功をねぎらうほどに上機嫌であった。すでにこの数日間の吉報で、大殿のやつれておられたようすは見事に消えていた。同席を許された吉右衛門は、あくまで真面目な顔を崩さなかったが、彼が唯一の同腹の妹の回復を喜んでいることは疑いもなかったし、時之輔にいたっては、食事のあいだ中、沈黙を守ることが難しいほどで、大きな笑顔を貼りつかせたままであった。他の弟たちも、これは母と共にする昼餉であるからもあろうが、うれしさに心浮き立つ思いが、そのようすにも知れた。姫も、年に数回といったほどに本当に珍しいこのような家族そろっての団らんを、心ゆくまで楽しんでいた。回復に向かった最初の数日は、幸せな気持ちの満ちあふれることを感じながらも、体の方はまだふらつくような、雲を踏むような気持がしたものだった。しかし、日がたつにつれてようやくに体の芯もはっきりと、幸せな気持ちを支えることができるようになってきたのだった。
昼餉の膳が下げられて、くつろぎが一座を支配すると、満足げに一同を見まわして、
「良い秋の日となった。今日はこうして一同うち揃って、お珠の床上げを祝う席を設けられたこと、まことに嬉しく思うぞ」。
「父上様はじめ、皆みな様にご心配をおかけしましたこと、まことに申し訳なく思っております。こうして私も、皆様と共におれますこと、心から感謝いたしております」。
「まことに、姫がご病床に就いておられるときには、館中の火が消えてしまったかと思われるほどでございましたなあ」と、義母が続けた。
「お殿様もすっかりご傷心のご様子でしたよ」。
「ほんに申しわけないこと、父様、義母様、皆様のおかげで、こうして元気を取り戻すことができました。兄様やお時にも、爺にもシズや皆のものにも。皆に囲まれて幸せ者にございます」。
ちょうどその時、縁に用意された席に笛吹きの青年が案内されてきた。大殿の正面を向き、平伏して座に就いた。
「面を上げよ。このたびの働き、まことに祝着であった。おぬしの笛の音の不思議、感じ入ったぞ」。大殿が声をかける。
「なんの私のような未熟者の技、皆様のお姫様をお思いになる想いが天にとどいた故でございましょう」。
「天が我らの願いをお聞き届けくださったのは、真であろう。しかし、そなたの技をもってお聞き届けくださったこと、我ら皆、感謝しておる」。
「過分のお言葉、いたみいります」。
「したが、よく我らが願いを聞き届け、時日を待たずに当館に駆けつけてくれたものよ」。
「それは、お殿様からの書状を、我が師匠に読み聞かせ、そこにおられますご老人の懇願、まことに心に響くものでございましたゆえ」。
「忠義、あらためて御事にも礼を言うぞ」。永く仕えてきて、今や重臣とはいえ若い頃の鋭さは失っているものの、家中の者から親しみを込めて「ご老人」と呼ばれれば彼のことと誰もが知る宗野忠義に向かって、大殿は、親しみを込めたやわらかい口調と眼差しで話しかけた。
「もったいないお言葉を賜ります。私はただ、殿と家中の者の思いをお伝えしたに過ぎません。いささか旅立ちを急かせましたことは、笛吹き殿には申しわけなく思っておりますが」。そういって忠義はにやりと笑った。今となって思い出せば、それは、我が人生の笑い話の一つに数えられるであろうと、おもわず漏れた笑いであった。しかし、あの時には、彼もまた珠姫様のことを心の底から心配もし、不安に感じていたことに間違いはない。
「ご老人の言説、まことに真に迫ったものでございました。師匠も私に、一刻の猶予もせずに旅立つようにと厳命いたしたほどでございます」。
「おかげでお珠も助かったのじゃ。儂も心から感謝しておるぞ」。
「姉上、本当にようございました。姉上をお救い申した笛の音を、私めも早く聴きとうございます」と、時之輔がにこにこしながら言った。
「おうそうじゃ、こたびはお時の手柄でもある。お珠の心奥の望みをよく聞き分けてくれた。早速、我らにも笛の音を聞かせてくれぬか。お珠の魂の尾をつないだ笛の妙技、儂も聴きたい」と、大殿が続けた。
「では、はなはだ未熟ながら、お聞き下さい」。
そう言って青年は、しばしいつものように瞑目した。秋の午後の陽が柔らかく差し込む姫の居室の縁の外には、ちょうど庭の秋桜がかすかに揺れていた。一方には小菊の花群もちょうど盛りであった。咲き乱れた可憐な花々を背景として、青年の美しい顔が、その場の人に向けられて、今から始まろうとしている笛の曲の前奏が、すでに始まっているかのような気配が満ちた。その日の演奏は、常にも増して透明な輝きに満ちたものとなった。静かにそよぐ風の音、風に誘われて揺れる秋の花々、その場を優しく満たす秋の陽光、そして、お互いをこよなく愛しく大切に思うその場の人々の想い、そうしたものが混然一体となって、笛の音そのものはか細く可憐なものであるのに、いかにもその場の人々の心に響き渡る力を湛えていた。
姫は、久しぶりに目の当たりにする青年の面立ちから目を離せないでいた。これで三度目と心の中で確かめていたが、襖ごしの逢瀬を重ねてきた故であろうか、すでに親しいものとなっている彼の面立ちである。やはり青年は、演奏を行っているときには瞑目していたが、今日はすでに数度、父との会話が交わされている時にも、彼の眼差しを感じる瞬間があった。その度に、彼の笛の音によって救われたのだという想いが新たにされ、頬に血の温みを感じる程に、生きていることを喜ぶ気持ちがあらためて湧き上がってくるようであった。そして青年が再び目を開ける時を待ちかねていた。たとえそれが、この優しい曲が終わるときであろうとも。
「まことにみごとな音色であった。これでこそ、姫に命をかえしてくれた笛の技と得心がいったぞ」。大殿の賛辞を、そっと微笑みで受け流して青年は下がっていった。一座の者も皆、あるいは静かに瞑目し、あるいは優しい微笑みを浮かべて姫の顔色をうかがい、あるいはただ頷きを繰りかえしながら、一同陶然として青年の退出をみまもっていた。
「父上様、珠よりお願いがございます」。青年が去ってのちに、あらたまって姫が頭を下げた。
「何だな。言うてみるが良い」。
「皆様のおかげをもちまして、珠はまた以前のようになりました。しかしまだまだ心細うございます。ご無理をお願いいたしますが、どうぞあの者をあと暫し、この館に留め置いていただくわけにはまいりますまいか」。
「そのことなら心配無用じゃ。あの者の滞在を、今しばらく長逗留とすることに関しては、すでに名人の承諾を得ておる。お珠が食事に箸をつけた日に、すでに使者をたてたのじゃ。名人もいたくお喜びとのことであった。ゆくゆくは、当家で召し抱えることも考えておるくらいじゃからのう。まあ、お珠の薬師のようなものじゃからのう」。
「お殿様、まことにありがとうございます。もしお珠様がお願いされませんでしたら、このシズからも、同じことをお願いいたしたいと思っておりました」と、それまでは侍女を差配して、この床上げの祝宴を切り盛りしていたシズが、平伏して縁の方から言上した。
「心配はいらぬ。また遠慮もいらぬ。シズ、何なりといつなりと、お珠が思い儂に伝えてくれるように」。
「さて、あまり長居をしてお珠を疲れさせてもいかん」。
そういって大殿が席を立ったのを機に、この小さな祝いの宴もお開きとなった。まだ午後の陽は高かったが、姫も確かに、体の芯に疲れが忍び寄っているように感じた。また同時に、その疲れのような感覚の中に、かの笛吹きの青年がすぐには都に帰ってしまわないことがわかった安堵といったものも忍んでいたのかもしれない。
九
翌日のいつもの時間に、青年はまた姫の居室の隣の部屋にいつもどおり席をえて、笛の演奏を始めた。すべては今までどおりの手順で進むかと思われたが、姫がシズを呼ぶ声が聞こえた。演奏をすでに始めているこの瞬間に、姫のお声がかかるということは全くもって異例のことであったので、普段は演奏のみに集中している青年の耳にも、この異例な出来事が、姫がシズを静かに呼ぶ声が届くこととなった。曲の流れは、表向きは何の影響もうけずに続いたが、瞑目はやぶれた。しばしの後に、青年の目の前で静かに花園が横に滑って、正面に一輪の麗しい花と見まごう珠姫の姿があらわれた。それらの出来事を、珍しく瞑目を破られた青年の目が捉えていたが、何事が起ころうとしているのかを理解できないままに、青年は笛を吹き続けた。姫は、今日は赤い地に小さく蝶の飛んでいる模様をちらした打掛を着けていた。柿色の帯が目に入った。しかし、青年の目を惹きつけたのは、透明な白い顔と、赤い唇、彼に向けて輝いている瞳であった。緊張して笛の音色に神経を集中しているようすで、姫の顔は微かに微笑んででもいるようであった。姫はただ静かに座っているのみだったが、青年の笛に微かな、ほんの微かなためらいのようなものが感じられた。青年はまた目をつぶった。笛の音はもとの道筋に戻ったようであったが、しかし青年の瞼のうちには、今かいま見た珠姫の姿が焼きついていた。そのために、指と唇は鍛えられた技のままに、何のためらいもなく音を奏でつづけ、曲にも破綻は感じられなかったにもかかわらず、その音色には弾むような彩が加えられたように思えた。静かに一曲を終えると、青年はあらためて姫の前に平伏した。
「驚かせてしまったようですね。申し訳ないことをしました」。
「たしかに驚きました。突然のことでしたので。このように調べに動揺が出ましたこと、まことに恥ずかしく思います。まだまだ修行が足りません」。
「いいえ、私がいけなかったのです。しかし、あなた様の笛の調べは、いつにも増して心に染み入るような気がいたしました」。
「またそれは、どのように」。
「あなた様が私を目にされました時に、ほんの一瞬ではありますが、いつもと違うような感じがいたしました。それが、お珠には殊の外に思いのこもった調べのように感じられたのです」。
「恐れ入ります。しかし、あの乱れは私の心の乱れが曲に出たもの、恥ずかしい限りです」。
「どうぞ、頭をお上げくださいまし」と、姫は続けた。「あなた様は私の命の恩人、そのようになさらずに、もっとお話がいたしたいのです」。
姫の言葉をうけて、青年は姫と相対するように姿勢を正した。このように間近で向かい合うことは初めてのことであった。
「そもそも、私は命の恩人である、あなた様のお名前すら存じあげません」。
「私が命の恩人などとお思いになるのは、お考え違いでございましょう。私は、お姫様と、このようにお話し相手をさせていただくほどの者ではございません。名を名乗るなどおこがましいことと存じます」。
「それでは、私が困ります。あなた様のことをどうお呼びして、あなた様の笛の音を偲ぶことができましょうか。かの笛吹きのお方と、いつもいつもお呼びするわけにもいきますまい。お名前をぜひお聞かせくださいませ」。
「私は名乗るほどの者ではありませんが、それではヨセとお呼び下さいまし」。
「誉世様でございますね」。
青年はうなずいた。姫に向けられたその顔には、いつもの調べを思わせる優しい微笑みが浮かんだ。
「誉世様は、いかにして笛を学ばれたのでございましょう。あなた様ほどの技を身につけるには、いかほどのご修練が必要であったのでしょう」。
「私の技はまだまだ未熟なものでございます。いかなる時にも笛を吹き続けておるのみにございます。若き頃には、唇が腫れ上がり、指が動かなくなるまで吹き続けておりました。師匠の笛の調べにいつも接しておりますれば、自ずと励みになりまする。あの方をめざして、いつも笛を吹いております」。
「本当にうらやましい気がいたします。そのように生きておられるのを」。
「私には、他に何もありませぬ。ただ笛を吹く以外のことは。さて、もう一曲お聞かせいたしましょう」。
そういって、青年はまたも瞑目して心を静め、演奏を始めた。姫はまだまだ話たりない気がしていたが、小さくため息をつくと自分も目を閉じて、その曲の世界に身をゆだねた。
この日から、姫と青年は笛の音を間において対面して時を過ごすようになった。曲と曲の合間には、姫の質問と誉世の話が挟まれるようになっていった。
ある日にはこのような話をした。
「誉世様は、笛を吹いておいでにならない時には、何をしておいでなのでしょうか」。
「私は自然を見ております。吹く風や花や木や、山や海や、月や星を見ております」。
「それは私も美しいものを愛でることは好きでございますが、あなた様の見ておいでになるものはそういったものでございましょうか」。
「私も美しいものを愛でる心は、恐れ多いことながら、お姫様と同じでございましょう。しかし、私の見ているものは、美しいものばかりではございません。風にも優しい美しい風がございます。花々を揺すり、春は桜、秋は木の葉をやさしく運んでいったり、胡蝶と戯れたりする風もございます。しかし、時には荒々しく、雲を散らし、木々を倒していくような風もございます。私はこれらの風も見ております。鬼神のごとき激しきものや醜いものをも、優しき美しきものを愛でると同じように見ております」。
「怖ろしいものを見つめるのは、恐ろしゅうございませんか」。
「それは、恐ろしいこともございます。この小さき者が、天地広大の中、たった一人でこれらのものと向き合うのですから」。
「なのに何故、そのような鬼神のごときものを見つめられるのでしょうか」。
「それは、なべて全てのものが歌っているからです。私は、それらの歌を、一つも聞き逃したくないのです。天地の全てのものの歌を、心に留めておきたいからなのです」。
また、別の日にはこのような話もした。
「誉世様、あなた様は笛の名人であられます。あなた様は、ご師匠のようにお成りになりたいのですか。これ以上誰も極めたことがないほどの名人に」。
「いや、私はそのようなことを目指してはおりません。むしろ私は、もし成れるものなら雲になりとうございます」。
「あの、お空に浮かぶ雲でございますか」。
「その雲でございます。月になりたいと思ったこともございますが、月は決まった天空の道をたどり、決まったように満ち欠けしながら過ごしています。雲のほうが良い」。
「なぜ雲なのでございましょう」。
「雲は、空に浮かんで、行き先は風まかせ。まるで風と遊んでいるようにございましょう。ゆったりと流れたり、急かれて疾く走ったり、気ままなことこのうえない。そして、姿を消したければ消え、現れたければ表われ、まことに自由自在でございましょう」。
「なるほど、それで雲と。そう聞けば私も雲になりたくなりました」。
ある日には、このような話となることもあった。
「誉世様、あなた様は、ずいぶんと色んな国をご覧になってこられたのでしょうね」。
「まだまだ修行中の身ですから、なかなかに旅を重ねることはできませぬが、それでも笛をお聞かせするご依頼をいただきました折には、それにお応えするために、旅をいたすこともございました」。
「さまざまな美しい景色をご覧になったり、いろいろな方の人情に出会われたり、ずいぶんと羨ましいような気がいたします」。
「姫君様は、旅をなされたことは、今までおありにならないのですか」。
「私は、この館を出たことは、ほんの数度。父上のお供をしたときくらいです。私も旅をして見聞を広めたい」。
「旅は、見聞を拡げますが、この見聞には良きものもあり、悪しきものもございます。楽しきものもありますが、悲しきものも多くございます。美しきものも、それと同じほど醜きものもございます。それらのことと出会って、己がどう変わるのか、それが恐ろしく感じることもございます。それに」。
「それに」。
「たとえ身は旅の上にあらずとも、私たちはみな旅人でございましょう。命の旅を続けているのでございますから」。
考えてみれば、若い異性とこのような会話をすることなど、姫にとっては人生で初めてのことであったのだ。ましてその相手は、笛の名人であり、美しい優しさをその表情に湛えた、強い印象をともなって姫の人生に突然のごとくあらわれでた誉世である。誉世の話ぶりや、話されたことなどを、次の朝が明けて彼と会うまでの時間、その笛の音とともに繰りかえし思い描いて過ごすことが多くなっていた。笛の音に慰められるだけではなく、彼の存在そのものに慰められていることを、心の奥底にとどめられた秘密にしておくことが、少しずつ困難になってきたことを感じていた。
「誉世様はいつか、この世の全てのものが、花や風や木々や山や嵐でさえもが、歌っているとおっしゃったことがございましたね。それほどに何もかもが歌っており、それを聞くことがお出来になる耳をお持ちであると、さぞかしこの世は騒がしいものではありますまいか」。
珍しくにっこりと大きく笑いながら、誉世が答えた。
「おっしゃるとおり、それらの歌が激しくて、困惑することがないとは申せません。しかしながら、ほとんどの時には、そうではございません」。
「それでは、なぜそうではないのでしょう」。
「それは、多くの場合、歌っている多くのものたちが、それぞれに周りのものたちの歌を聴きわけ、それに己を合わせるように歌っているからでございます。そこには、一つの歌だけではない多くの歌が、調和をともなってより美しく輝きを与えあうからでございましょう」。
「調和。そういえばあの宵のこと、あなた様の笛の音は鼓と響き合っておりました」。
そう言って、珠姫はその日、それ以上はあまり話しかけることもなく、なにかを心の中で思い巡らしているようであった。
十
その日の宵のこと、夕餉の膳が下げられてから、姫は琴を用意するようにと命じた。病の床に伏していらい、一度も弾かれることがなかった琴を前にして座り、恐る恐る絃に触れていくうちに、指が少しずついうことをきくようになってくるのを感じた。それからの毎夜、姫のお部屋からは琴の音が聞かれるようになった。もともと名人というは憚られるところではあったが、姫の琴の腕前は決して未熟なものではなかった。城中で、あるいはこの小さな国の中でも、最も手練れた琴の弾き手であろう。それが、病の床に就いたのちは、永く弾かれることもなく仕舞われてきたのだった。ところがその宵に、彼女は無性に琴を弾きたくなったのである。それは実は、彼女の耳の奥で奏でられている笛の音に誘われてのことであった。姫の琴の音は、耳の奥に響く笛の音に励まされて、あるいは笛の音に支えられて、あるいは高く、あるいは低く、不思議な高揚をもって弾かれた。永く姫の琴を傍で聞いてきたシズも驚くほどの、切なさを音に孕みつつ、シズが「もうそろそろお休みになっては」と切り出すまで、毎夜続けられた。
それからしばらく後のことである。誉世の笛を聞き終わった姫が、突然、座布をすべり降りて両手をつき、「誉世様にお願いがございます」といった。
「姫様、そのように両手をおつきになるようなことを、私ごとき者になさいますな。はて、お願いとは、いかなることでございましょう」。
あわてて平伏した誉世であった。その姿勢から顔を上げて姫を見つめた。姫も顔を上げて誉世を見つめた。二人の視線が真剣なまま交錯した。姫は少し上気したようすで誉世を見つめている。その眼のあまりの真剣さに、誉世の眼差しが押しもどされるようであった。沈黙していると、その苦しさに圧倒されるようであった。
「はて、姫様、何なりとお申しつけ下さい。どうぞそのように、お願いなどとおっしゃらずに」。
「誉世様は、この世の中にある全てのものが歌っているとおっしゃいました。そして、それらのすべての歌が、お互いに調和をもって響いていると」。
「そのとおりでございます」。
「私も、誉世様の笛とともに歌ってみたくなりました」。そういって姫は、また真剣なまなざしで誉世を見つめた。
「いかようにして、姫様と歌を和することができましょうか」。
「恥ずかしながら、私は、幼い時より琴を習ってまいりました。もとより、私の琴の技など、誉世様の笛の素晴らしさには遠く及ばないものでございます。しかし、このような者の琴でも、誉世様の笛と和することはかないませんでしょうか」。
誉世は、しばらく言葉をかえすことを忘れて、茫然としているようであった。
「未熟な琴の音では、叶わない願いでございましょうか」。重ねて姫が問いかけたときに、誉世も我をとりもどした。
「姫様、全てのものは歌っております。間違いございません。姫様のお琴の音にあわせて笛を吹くこともできようかと思います。しかし、そのようなことを、大殿様はじめご家中の皆様方がお許しになるでしょうか。私のような者とお姫様が、琴と笛を和しているなどと、皆様がお聞き及びになりましたら、皆様のご不興を買うことにはなりますまいか」。
今何が起ころうとしているのか、誉世には漠然とした不安が感じられた。姫が本当は何を求めておいでになるのであろうかと、姫がお気づきにならないままで、何を求めておいでになるのであろうかと、戸惑う気持ちが心の中で大きくなってくるのを、とめることができないのであった。
「これは、私がお願いしたことなのです。ここにいるシズも侍女たちも、皆聞いております。それにお父上も、家中の者たちも、私がまたもや琴を奏じるほどに、新しい命を回復したことを知って、喜んでくれるに相違ありません。なにとぞお願い申します。それに誉世様は、あの夕べにも鼓と共にご演奏なさいました」。
「あれは、私のおとうと弟子、彼と曲を合わせますのは常のこと」。
「もとより私の琴は、あの方の鼓のようにみごとなものではございませんが」。
姫があまりにも真剣なので、誉世の不安を感じとれないままに、シズが横から口をはさんだ。
「姫はこのところ、宵になると毎晩、琴をお弾きになってこられました。あなた様と琴を和したいがためとは、私は気づきませんでしたが、姫のこれほどのお願い、誉世様もどうかお聞き届けいただきとうございます」。
「もとより、姫様の真剣なお申し出にたいして、私には否やを申すことはできません。それでは、お手合わせさせていただきましょう」。
「まあ、お手合わせなどと、まるで武芸の試合を始めるように申されますのね」。
ようやく誉世が承諾したからであろうか、あるいはその言い条の故であろうか、大きな笑顔で誉世を見つめながら姫が言った。
「そのとおりでございます。万物すべてが、命をかけて歌っております。その歌が自然とお互いに和するのでございます」。
「姫も、未熟な琴ながら、命をかけて奏しますゆえ、誉世様の言い条に笑いましたこと、どうかお許しください」。
「どうかお気になさらないでください。すでに夜も迫っておりますゆえ、それでは、さっそく小曲を演奏いたしましょう」。
姫の琴が居室の方に用意されて、隣室において準備を整えた誉世と向き合うかたちとなった。
「それでは、最初は姫からご演奏くださいまし。私の笛がご同行いたしますゆえ」。
姫が一瞬、息を整えてからおもむろに弾き始めた曲は、今までに聴いて耳の奥にのこる誉世の笛にあわせて、毎夜のごとく弾いてきた曲であった。姫がすでに耳奥に響く笛の音に乗せて琴を演奏し始めたことを知らぬ誉世は、曲の最初を耳にすると「おっ」と目を大きく見開いた。しかし、すぐに気を取り直すと、姫の琴に和して笛を吹き始めた。
十一
その日から笛の時は、笛と琴の時となった。最初の午後に、初めて二人が音を合わせた時と同じく、姫は居室に琴をおきその前に座り、誉世は隣室で姫の琴と向き合うように座した。二人の間には一間ほどの距離がおかれていたが、その隔たりは、充分にお互いの息づかいの届くものであった。
実際に笛の音と合わせてみると、姫の指は、まだたどたどしく笛の音を追うていた。耳の中に響く笛の音にあわせての練習では、実際の笛の音を先になぞっていくのに充分ではなかったからである。それ故に、最初はゆっくりした曲を、あくまでも伴奏のようになぞっていくようであったし、誉世の笛も何度もよく使ってきた曲の流れに沿って演奏されていた。しかし、ともかくもそれは、誉世が最初に恐れたような破綻には至らなかった。あくまでも誉世の笛にあわせてついていく琴の音が、最初の音を聴いたときに彼を驚かせたように、まことに真摯な謙遜なものであったからだ。姫の言葉に偽りはなかった。本当に彼女は心の底から彼の笛に和することを望んでいるということを、最初の日に演奏をあわせた時から、納得できたのである。
姫にしてみても、誉世が姫の琴の音を聞きながら、ゆっくりと彼女を誘導してくれているのに気づくことができて、それを喜んでいた。指のはこびにじれったい思いを何度もしていたが、それすら彼の助けの手が伸ばされる機会を得る瞬間と感じられて、喜びを与えられる瞬間であるともいえる気がした。必死で彼の笛の音の流れを追い、たどたどしくあろうとも、その流れについていくことが許されている幸せに、息が弾み頬が温かくなるような時間を過ごしていた。
二人の奏でる曲は、ちょうど優しい風が花びらを運ぶようであり、運ばれる琴の音を軽やかに舞わせるのも、その風の流れしだいというようすであったが、それもまた美しい自然の歌をあらわしていることには相違ないものであった。
「恐れながら、少しお願いをいたしてもよろしいでしょうか」。めずらしく誉世の方から、演奏の合間の緊張がゆるんだ時に切り出した。
「何でございましょう」。
「先ほど、私の笛がこのように進みましたところのことでございます」と、誉世がその部分を笛でなぞった。「そこを姫様の琴が、このように進みました」と、今度はそのはこびを声でなぞった。「その部分、このように運んではいかがでしょうか」と、また唄ってみせた。
「このようにでございましょうか」と、姫がその唄をゆっくりと琴でなぞった。
「そうそう、そのように。その調べの終わりにかけて少しく強まっていくように」
「分かりました。誉世様、どうかもっともっとお教え下さいまし。嬉しゅうございます」。
この会話の後からは、一つの曲が終わるごとに、誉世は姫の琴の調べのはこびについて、緩急について、あるいは強弱について、様々に意見を述べるようになった。そして二人はその話し合いの後、もう一度同じ曲をさらうようになった。そして、以前にも増して熱心に、姫は夜毎に琴を弾くようになった。シズからしてみると、少し心配なほどに身を入れて琴を弾いているのであったが、姫のお身体もお気持ちもたしかに日々良くなっていることを思うと、強く注意をすることも憚られた。このように二人で笛と琴を演奏することとなったときにすぐ、大殿にもご報告したのであったが、「うむ」と言われたきりで、良いとも悪いともおっしゃらなかった。これで良いのであろうかという戸惑いもあったが、今は姫の回復こそ第一として、見守ることに決心した。そのうえ、少し気が緩んだのであろうか、シズ自身が体を重く感じることが多くなっていた。多分、姫のご回復を受けて気が緩み、あの心配が心を支配して食もままならなかった時の疲れが、今頃になって出てきたのであろうかと、ふと思ったりする今日この頃であった。
日が経つにつれて、二人の演奏はみるみる向上していった。琴の技が向上したばかりではない。それ以上に、二人の息がますます合うようになったことが、何よりの理由であったろう。誉世の笛は、姫の技を補いつつ、常に調べを先導していく。姫はすなおに誉世に身を寄せていくという印象であった。演奏の合間におこなわれる二人の会話によって、曲の歩みのみならず、その調べが描いている世界観を説かれることも、演奏の成長に大きく寄与しているようであった。誉世の旅の経験や、世界を見る視点が説かれるほどに、姫には新しい世界が開けてくるようであった。今まで見えていなかった世界の命が、生き生きと見えてくるようになった気がして、この時間は、彼女にとって全く新しい経験を積み重ねる新鮮な驚きの時間ともなり、ますます誉世を尊いものとする想いが強まってくるのであった。もう演奏はただ風に流される花びらではなくなっていた。それは風と戯れる蝶の舞のような、あるいは、滂沱と散る無数の花びらが渦を巻くようすを表しているかのようであった。
そして、しばらく後になって、演奏の合間に誉世が口を開いた。
「姫様、お庭をご覧くださいまし」。
「誉世様、あなた様は、このお庭の何をご覧になっているのでしょう」。
「お庭の美しい秋の花々も、ずいぶんとさびしくなってまいりました。いかがですか」。
「まことに、秋も深まってまいりました。毎日がこれほどに満たされておりますゆえに、時の移ろいを忘れてしまっておりました」。
「花は少なくなりましたが、そこには見えぬ命が隠されておりますことを、姫様はお感じいただけますでしょうか」。
「見えぬ命とは、」と、言いよどんだ彼女を見つめながら、誉世が続けた。
「秋には木の葉が色づきまする。そして、風に誘われて土を覆いまする。花も少なくなりまする。虫たちも眠りにつきまする。これらはすべて、死んだようでいて死んだわけではありませぬ。命は巡って次の命の準備が始まっておりまする。姫様、命が巡るその歌を、それを琴で謡ってみてはくださいませぬか」。
「はて、それは私ごときの者には難しい仰せではありますが、誉世様の仰せですから」、
そう言いながら改めて琴に向かい、しばらく目を瞑って、耳を澄ますようすであったが、静かに琴を奏で始めた。その琴の調べは、今きいた誉世の言葉に促されるように、巡る命を惜しむかのように、まだ来ぬ命を慈しむように、深い想いに溢れたものとなった。
「このように、姫様にはこうして万物の歌をお聞きとりになることがお出来になるのです。それを琴で伝えることがお出来になるのです。きっとお出来になると思っておりました」。
「本当に、私はそれができたのでしょうか」。
姫は頬を赤らめて、誉世の賛辞を聞きながら、「それがもし、私にできるようになったとするならば、誉世様、貴方様のおかげでございます」と、小さな声で答えた。「本当に、貴方様がそれを教えて下されたのですから」。
「姫様、今までこのように、琴と笛で和してまいりましたが、いつもあなた様は控えめに私の笛に添うておいでです。しかし、それだけでは世界の唄っておりますことを、二人の唄であらわすには充分とは申せません。姫様がこの世界をご覧になって唄われる歌があってはじめて、琴と笛が唄を和することになるのです。これからは、ある時は姫様の琴、ある時は私の笛、あるときは琴と笛と同時にと、もっと自在に和してまいることを心掛けてまいりたいと思うのです」。
「できますでしょうか」。
「姫様は、それがお出来になると承知しております」。
「誉世様がそうおっしゃいますなら、私も努めてまいります」。
この日から、二人の演奏はさらにこみいったものへと高まっていったのである。最初は今までと同様、主に誉世が先導しており、まれに姫の琴が独奏をうけもつように歌ったが、歌の主導を受け渡すその瞬間には、姫が誉世に目で送り、誉世が姫に目で送るので、二人の視線が交錯することとなり、彼女の胸が高鳴る瞬間がさらに増えるように感じられた。受け流されそうな流れを感じとると、彼女はひたすら誉世の視線を捉えようとするようになった。彼の視線が姫に合図をおくるのを、ただひたすらに待つだけでも、今までの演奏で胸の締め付けられるような想いに遥かにまさる喜びが彼女の中に渦巻いたのである。
十二
とうとうシズが床に就いた。シズが病を得るということ自体珍しいことであっただけに、姫は責任を感じていた。自分の病が、シズの病を呼びおこしたと思った。それは後ろめたい感情でもあった。ある時は、まるで母のように慈しんでくれたシズのやつれた様子を見るにつけ、同時に自分は今、日々幸福な思いに満たされて、シズの苦しみを心底から苦しんでいない心に気づくゆえに、その胸にはより申しわけなさが満たされるのだった。それだけに、姫はシズのことをより気遣った。
シズの局は、御奥の端の侍女たちの住まう一角に与えられていた。この一角の中では最も姫の居室に近いところにあり、複数の侍女たちに目の届く位置にあった。とはいえ、姫の居室からは庭の景色を見ながら廊を巡っていかねばならなかった。父に頼んで最も信頼する薬師に見舞わせることや、滋養のあるもので満たした膳を運ばせることもした。また異例の事ではあるが、その局に姫自らが渡って見舞いに行くこともあった。
「姫様御自らのお運び、まことに申しわけございません。また、シズが姫様のお世話をできませんこと、お許しください」。
「シズがこのように床に就くなどということ、私の幼い時以来、初めてのこと。どうか無理をせぬように十分に休養をとるように。しかし、早く元気な顔を見せてくださいませ」。
「侍女たちは、姫様のお世話をちゃんと努めていますでしょうか」。
「シズや、心配はいりません。きちんと努めてくれています。そのことは心配ありません。ただ、私は、お前が傍にいてくれるようになることを、待っていますよ」。
「この通り、シズは少し休めば必ず元気になりますゆえ、どうか御心を煩わされませんように」と、シズは床に起き上がって答えた。
この見舞いのあと、姫は侍女に命じて、暖かい夜具を運ばせた。晩秋の冷気が忍び寄る季節が近づいていたからである。それに、シズの痩せた体をおおう夜具が、充分な温かいものであるとは見えなかったからである。なによりも、姫がシズの局を訪れること自体が、ほとんど記憶にないことであり、それまではシズは常に姫の身辺にあって彼女と同じ空間で生活しているもののような気がしていて、局での生活など考えたこともなかったからである。
一方で、誉世との演奏は続いていた。シズは、遠く彼女の局にまで二人の音曲が聞こえてくると言ったので、姫はこの演奏をシズのもとにも届かせたいと願って、今まで以上に熱心に演奏した。それをシズは局の床で聞いた。遠くから微かに響く二人の演奏は、毎日傍で聞いていたものとはまた違った印象を与えた。傍らで聞く以上に、二つの楽器の音色はいりまじり、支えあい、うたい合っているように感じられた。目を瞑ると、それぞれの楽器に没入しながら、お互いの音色に耳をそばだてて、一つの曲として和しあおうとしている二人の姿が浮かんできた。あの時には、シズが傍で聞いていることなど、二人には思いの外のことであるように感じられたものだった。しかし今、こうして局の床に横たわって思い浮かぶ瞼の奥の二人の姿は、遠くに小さくはあるけれども、まるでシズを見つめつつ曲を贈ろうとしているように感じられたのだ。それだけに、姫の成長が感じられるとともに、彼女の姿が遠く小さなもののようにも感じられた。
その日はいつもより早く午後の演奏を終え、「誉世様、お願いがございます」と、姫がいった。
「今宵、誉世様が夕餉を終えられましてから、もう一度ここにお運びいただけないでしょうか」。
「はて、いかがなされたいのです」。
「誉世様と、こうして多くうたってまいりました。しかし、いつも陽の光の中での景色ばかりのような気がいたします。今宵は、お月さまやお星さまや、夜に眠りについた草花や木々と歌ってみたいような気がいたします。夜に起き出でる虫たちや命もございましょう。いつもと景色を変えて、それらのものたちを歌ってみたいと思うのです」。
「はて、そのような時間に参りましても良いものでございましょうか」。
「シズもおりませんから、侍女たちへの指図は私がいたします。どうかご心配なきように」。
「分かりました。それでは星が光るころになりましたら、あらためて参上いたしましょう」。
夕餉の膳が下げられると、姫は、演奏に疲れたらすぐに休める用意をしておくようにと、侍女に言いつけて居室に床をのべさせた。いつもは誉世が座っている部屋の縁近くに、ともに夜空と庭が見えるように寄り添うように、琴の座とその少し縁よりに笛の座を設けさせた。そして、二人の演奏が始まったら、特別に声をかけるまでは入って邪魔をしないように言いつけた。
夜が暗さを増して、星がいちめんに輝き始めるころ、誉世は侍女に案内されて音もなく姿をあらわした。このように座を占めることは初めてのことながら、特に戸惑ったようすもなく静かに外を見つめるように座った。姫がその斜めうしろにおかれた琴の前にすわると、侍女は下がっていった。しばらく二人はそのままで夜を眺めていた。その日は雲もなく、月も薄い三日月のまま西の空に浮かんでいるのみで、星はいつもにもまして突き刺すように瞬いて、冬も近いことを証しているようであった。
「夜は美しいとお思いでしょうか」と、誉世が口をきいた。
「美しいと感じることもございますし、恐ろしいと感じることもございます。誉世様は、夜をどのようにご覧になるのでしょうか」
「姫のおっしゃるとおり、美しいものであると同時に恐ろしいものであると感じております。美しいものは、常に恐ろしいものでもあるのですから」。
「それでも、その中に誉世様は唄をお聞きになるのでございましょう」。
「唄は世界を満たしております。世界に存在するすべてのものが、唄っております故。夜を満たす闇ですら、唄をもっております」。
「今日は、この夜を満たしている命と共に、私たちも唄うことになるのですね」。
「それが姫様のご希望であれば」。
そういって誉世は笛を取り出した。誉世の笛が、夜気を切り裂いていった。いつもに似ず、それは激しい歌の始まりであった。まるであの月の宵の宴を思い出すかのような激しさで、眠っている草木の夢に食い入るような力を感じさせるほどであった。その調べが一巡りして、姫の琴がそれに加わった。今宵の姫の琴は、優しさに満ちているようであった。静かに夜を満たす月の光のように。優しく誉世の笛を支えるように。誉世の笛の激しさを宥めるようにしっかりと、その激しい唄に礎をつけくわえるように。眠っている草木の夢を優しく包み込むように。やがて誉世の笛の激しさは、姫の琴の音色に誘われるように優しい深さをあらわしはじめた。誉世の肩がわずかに動いて、姫が先導することを促した。姫は細い優雅な旋律で、空にかかる月への憧れをあらわすように進んだ。力を失ったわけではないがずっと抑制された誉世の笛がその旋律とこだまして、琴と笛はほそい透明な絹の織布のようになってくるくると回転した。誉世の笛が再び主導権を握ったが、先ほどのような激しさは中に包み込んで、揺蕩う煙のように夜気をただよった。そのままゆっくりと西の空にかかる三日月に向かって漂い昇っていくようであった。やがてこの天の羽衣のような織物は、月にまでとどいた。二人は月の上に、細い舳先をもつ舟に乗る旅人であった。船は星の空に細い澪をひいてすすんでいった。このまま二人きりで誰も知らない世界に行くことができたらと姫は憧れに胸がいっぱいになるのを感じた。自分でも理解のできぬ想いの泪が頬を伝うのを感じた。誉世から主旋律を渡されて、姫の唄は激しさを増した。まるで小舟が急流にさしかかったように、舳先で激しく波が跳ねあがるようであった。周りをゆっくりと流れていた星々が、急に激しくゆれてすさまじい速さで後ろに流れ去っていくようであった。そして、バランという不協和音のあとで。突然。琴の音が止んだ。
「姫様」と、ふりかえった誉世は、姫が琴の上に倒れているのを見た。
「姫様」と叫びながら、誉世は姫のそばにいた。どのように移動したのか、かれ自身にも分からなかった。そして、姫を膝のうえに抱き上げて、かたく抱きしめて「姫様」とまた叫んだ。血の気を失ったようになっていた姫が、うっすらと瞳をひらいて、抱きよせる誉世に抱きついた。二人は抱き合ったまま細かく震えていた。
「誉世様、このままでいたい」と、姫が微かな声で言った。
しばらく沈黙が続いた。夜が深くなっているのが感じられた。月は早や西の山にかかろうとしていた。突然の曲の中断に、わずかに残っていた庭の虫たちが、驚きの合唱を上げていた。
「姫様、それはなりません」と、少し冷静な響きをとりもどした声で、誉世が静かに答えた。
「誉世様、このままでいたい」。
「姫様、それは許されないこと」。
そういったやり取りがしばらく繰り返された。
「それでは、姫を床までお連れください。隣の部屋に延べてありますゆえ。私は起きあがる力がありませぬゆえ」。
この要求には抗いがたく、誉世は姫をそのまま抱き上げて隣の部屋の床に運んだ。運ばれたあとも、姫は誉世の袖を放そうとはしなかった。
「姫様、貴方様はすばらしい唄をお持ちの方です」と、誉世が告げた。
「私はただ貴方様とこうして唄を合わせて生きたいのです。なぜお分かりになってはくださらないのです」。
「貴方様とこうして唄を合わせることは、私にとっても幸せなことです。しかし、貴方が望んでおられることは、決して許されぬこと。多くの方々を、私たちを信じてくださっている方々を裏切ることなのです。どうかお許しください」。
そういって誉世は身を離した。姫に握られている袖が裂けて残った。そのままで、誉世は静かに退席したが、大きな動揺に捕らわれたままであることには変わらなかった。彼の座には、決して手から離したことがない彼の笛が残されていた。
十三
シズは自らの床に臥して、この夜の音楽を聴いていた。いつもと異なるこのような時刻に演奏が始まったことに胸騒ぎを覚えた。しかし、何という音楽であろうか。二人の演奏は、お互いを意識してのそれではなかった。この音楽によって、一つとなった笛と琴であった。何故だか、シズの目にはいつしか涙が浮かんできた。いつまでも幼いと思っていた姫が、いつのまにか手の届かないところに行こうとしているという気がした。それは、心に穴が開くような寂しさでもあり、姫をおもえば切なくもあった。二人の唄が高みに昇ってさらに激しく流れ始めた時に、音は突然に途絶えた。シズの不安も爆発した。急いで起きあがり、病でままならぬ体にむちうって身支度をととのえた。そして、急ぎ足で廊を渡っていった。
いつもと異なり、控えの間に二つの座が設けられていた。しかしその座は空白であった。姫の居室の襖を静かに開けると、そこに姫がひとり横たわっていた。姫は、手に残された誉世の袖を握りしめたままであった。そして、声をたてずに涙を流しているばかりだった。
「姫様、いかがなされましたか」。
しかし、姫は答えようとはせず、シズの顔を避けるように反対を向いて、肩はやはり泣いたまま黙っていた。
「何事でございますか。姫様。誉世はどちらに」。
「なぜ侍女どもはおりませぬ」。
「なぜ、そのようにお泣きになっておられるのです」。
「シズには何もわかりません。姫様。どうかお気を静めて、何かおっしゃって下さいませ」。
しかし、姫はやはり何も語ろうとはしなかった。シズの顔を見ようともしなかった。何か思わぬことが起こった、何か重大なことが、とばかりは想像したが、シズにはそれ以上のことは考えられなかった。
「それでは、誉世に問いただしましょう」と、シズが立とうとしたときに、姫がようやく答えて、「あの方にはもうお目にかかることはできませぬ」と言った。
「なぜでございましょう。先ほどまでお二人で和して演奏されていたではありませんか」。
「あの方には、もうお会いしとうありません。もう二度と」。
シズの顔色が変わった。
その夜のうちに、誉世は捕らえられて牢につながれた。誰にも何が起こったのか詳細が分からぬままに、何かけしからぬこと、あってはならぬことが起こったのだという思いが家中を駆け巡った。もとより二人での演奏を面白からず思っていた若侍達のみならず、年寄りたちのあいだにも最近の出来事は行き過ぎではないかとの思惑が拡がっていたところであったからである。
大殿が問いただしても、誉世は一言も抗弁しなかった。ただ黙って平伏しているのみであった。脅されても口を開かなかった。姫も、誰にも詳しいことを語らなかった。父や義母やシズにすら、何も語らず、ただ、もうあの方にはお会いすることはできません、お会いしとうございませんと繰りかえすだけであった。
「それでは、誉世殿はお命を失うこととなりましょう」と、シズが言った時、しばらくその場を沈黙が支配した。姫の心の中では、何かが渦巻いていた。あの方が命を失う。この世から消えてしまう。二度と会えなくなる。いえ、私は、あの方とはもう二度と会うことができない者。あの方はもうすでに失われている。あの方ともう二度と、あのように心を和して共にいることはできないとしたら、「それもせんないこと」と、呟いた。
誉世は何も語らぬ、自己のための弁護もなし。そして姫はといえば、やはり誉世を庇おうとはしないということで、誉世の運命は決まった。
誉世は磔と決まった。いつもの大殿の性格からすると、事実の不明なままでのこの裁定は、いささか苛烈な裁定であった。一切を語ろうとしない二人への苛立ちが、そこにはあったのかもしれない。あるいは、語ることができぬことによって、ことの重大さを感じていたからかもしれない。残された片袖と笛が、二人に起こったことを暗示しているようでもあった。そして、彼は珠姫の父なのであった。また、周囲の者も、罪状さえ語られぬこの裁定について、あれこれと詮索することもかなわないと感じていた。それも、珠姫様に関することであるとすれば、たとえ納得することができないままでも、納得してしまう空気が家中を支配していた。
あの夜のできごと以来、シズは無理をおして珠姫の身辺にもどっていた。珠姫は、ほとんど口を開かなかったし、琴にも触れようとはしなかった。しかし、それは以前の病の状態にもどったとも言えなかった。まるで心を無くした人形のようであったが、シズが食事をすすめれば食べ、床をすすめれば眠った。一日をただ、何かを想いながら過ごしていることがわかったが、表情の失われた彼女のようすから、その心を推し量ることはできないことであった。誉世の処刑が決まった時にも、何も言わず表情も変えなかったが、白い顔がさらに青白くなったように見えた。
処刑のおこなわれる日限は、姫には伏せられたままであったが、その日の午後遅く、シズは呼ばれた。
「あの方はもう亡くなったのですね」。それは、断定であった。シズは答えられないままじっと姫を見つめた。その時、急に姫の表情が動いた。今まで能面のように表情を失っていた彼女の表情に、必死なものが漲っていた。
「シズ、私を刑場に連れて行っておくれ」。
思わぬ姫の言葉に、シズは気を失いそうになった。そこは、北山の麓、森に囲まれた空地で、女の足では決して近いとは言えないが、また不可能とも言えぬ距離であった。今日の処刑は、当然ながらひっそりと行われたはずであり、人も集まりはしていないと思われたが、「そのような処に姫をお連れすることなど思いもよらないこと」、そう話して思いとどまらせようとした。しかし姫は退かなかった。永く無表情を貫いてきた両の目から涙があふれて、さらに必死な様子で「誰にも分からぬように、私をあの方が亡くなったところに連れて行っておくれ」と、言いつのった。
シズの局で密かに身なりを変えて、館が建てられたときに、万一の事態に女子供を逃がすよう準備されていた通路を通り抜けた。永らく使われていないその通路は、家臣のなかにも知らぬものが多かった。蜘蛛の巣が通り道をふさいでいる個所では、シズが手に持った箒をふるわなければならないこともあった。館を抜け出してからは、笠に顔を隠し足早に道を急いだ。二人ともに病み上がりということもあり、北の森の入り口に着いたときにはすっかり息が上がってしまっていた。姫はシズを休ませるためにも、傍らの石に腰を下ろしてしばらく空を眺めていた。ここまでの道の両脇では、すっかり稲刈りがすみ切株だけを残した田圃はすでに冬の景色で、空はるり色に高かった。森に入ると、鬱蒼と丈高い木々で空はおおわれ、道は闇に覆われたように感じられた。
「聞こえない」と、姫は呟いた。ここまでの道々、見つめることもなく目に入る自然の一つ一つの唄を、姫は聞き取ろうとしていた。それは誉世に教えられた万物の唄であった。あの方と共にいた時には、あれほど耳に届いていた唄歌が、今はまるで聞こえずに、無音の世界をただ前に進んでいるように思えた。あの方はもう生きてはおられない。もう誰のものでもなくなったのだ。ただ私の中に生きておられるはず。生きておられなくとも、あの美しいお身体と凛々しいお顔は、私に向かって最後の唄を歌ってくださるはずだ。私の思いを知りながら、最後まで私のしたことを一言も漏らさないで、私の想いに殉じてくださったのだから。最後にあの方にお会いしたい。たとえ命が失われても、恐ろしい嵐や鬼神のなかにも唄をお聞きになったあの方だから、私に唄を届けてくださるに違いない。姫は一心にそう思い定めていた。しかし、今日あの方の処刑が行われてあとには、自然は一切黙り込んでしまった。まるで喪に服するかのようであった。あの方の美しい死の前に、すべてが口をつぐんでしまった。そうに違いないと固く思えた。
しかし、そうではなかった。
森は突然ひらけて、そこに小さな広場と磔台が、そして誉世の遺体がまだ残されていた。密かに行われた処刑の遺体がまだ残されていたのは、ほんの偶然の行き違いのためであったが、たしかに誉世の遺体はそこにあった。
それは、姫の想像していたものではなかった。それは美しくなかった。槍痕とそこから流れ出た血潮が、装束を汚していた。折れ崩れた首と俯いた顔が、すでに土気色に変わってしまっていた。もう二度とは開かないと硬く瞑られた瞳があった。「姫様」、シズが止めようとするのは振り払って、姫は誉世の近くへ寄ろうとした。誉世の顔を見上げて、「誉世様、唄を」と。その時、万物が突然歌い始めた。それを唄といえるだろうか。万物が、大声を上げて唸るように不協和音をはなった。そこには、誉世が教えた調和はなかった。すさまじい唸りのみがあった。ちょうど始まった夕焼けが、空を、広場を、磔台を、誉世を、姫をすさまじい赤に染めた。
シズを従えて、逃げるようにして森を通り抜け、畑を通り抜け、街を通り抜けた。その間も、不協和音は轟々と彼女の耳に響き続けていた。忍び出た通路を逆にたどって、彼女の居室に辿りついた時にも、その唸りの不協和音は彼女の頭上に響いていた。耳をふさいで立ち尽くしていたが、その音は止まずにますます激しくなるばかりであった。その時、ふと足元を這う一匹の蜘蛛に気づいた。黒い蜘蛛の背中には赤と黄色の縞模様が、蜘蛛の動きにつれて揺れているようであった。次の瞬間、姫の足がもちあがって、その蜘蛛を踏みにじった。かつて小さな虫のひとつも、その命を奪ったことのない彼女であったが、何の躊躇もなく踏みにじった。蜘蛛の体液がにじみ出てくるのを感じたが、その液体の感覚は次の瞬間に消失した。足を持ち上げてみても、そこには何の痕跡も残されてはいなかった。蜘蛛はすでに彼女の体の中にいた。蜘蛛が姫の体内で、黒い色に赤と黄色の縞模様のまま、足全体に、大腿に、下腹部から胸へと、覆いつくそうと拡がってくるのを感じた。やがては、姫のからだ全体に、この蜘蛛が足を拡げ、彼女の存在全体は覆いつくされてしまうだろう。私は、人は、この蜘蛛を体の奥に飼いながら生きていくことになるのだと、それ以外の命の在り様はないのだと観念した。その時、先ほどまで耳の奥で唸り続けていた不協和音が、いつの間にか途絶えていることに気づいた。
結
朝が明けた。一晩中小屋の外で騒いだ雪も風もやんだようであった。男は囲炉裏の傍で丸くなって眠っていた。囲炉裏の火は燠となって灰にうずもれていた。老婆の姿は見えなかった。奥の部屋にひきとって眠っているのであろうか。戸の隙間から白い光が差し込んでいた。大きくひとつ伸びをして男は起きあがり、戸を押し開いた。一面の雪に覆われた大地から、白い光が小屋の中に広がった。
旅支度をあらためて、わずかな宿賃を囲炉裏のそばに置き、男は外に歩みだした。新雪に足を沈め、一筋の足跡を残して歩み去っていく男が、小道が湾曲して山のふくらみが小屋を隠そうとした時、うしろを振りかえった。そっと頷くようにして、傍にある石に腰を下ろして、胸の奥から笛を取り出した。
男の笛の音は、この命をつつみ込むような、すべてを認め慈しむような優しさに満ちて山にこだまし、雪に吸われていった。すべてをおしつつむ雪のような音色であった。白い光のように天地を包むようであった。
小屋から悲鳴のような、喜びの叫びのような、咆哮のような声が響いた。それは「ああ、あの方が」と、聞こえたように思えた。
行き交う村人たちは、いつの間にかあの老婆の小屋が朽ち果てていることに気づいた。可哀そうに、冬の間に一人で死んでいったのかと、しばらくの間は噂し合った。小屋の前に、春の野草の花々を手向ける心優しき者もいた。しかし、老婆の遺体はどこにも見出せなかった。そのうえ、朽ちた小屋のようすは、まるで大昔の廃墟のように佇んでおり、心のどこかで不思議に思う者たちもいた。
了