熊の夏
男は、大きな荷物をひっさげて、大きな体を揺らしていた。
そんな大男を乗せるのは、小さな小さな馬。
暑い暑い夏の日、馬は粟粒のような汗をかいているのが遠目にもわかる――
「オウ、もう少しデス。頑張ってくだサイ」
男は馬を労るような台詞を吐きながら、足で馬の腹を蹴る。
拍車がついていないとはいえ、十分に重たいその蹴りは、歩みを速めろという指示であり、馬は滝のような汗をほとばしらせながら、必死に主人の言いつけを守ろうと歩みを早めた。
必死に歩みを速める馬に申し訳ないが、姿はやや滑稽であり、聖書に描かれている驢馬に跨がるキリストもかくのごとし、といった有様だった。
そこにすれ違った手甲脚絆の旅人が、男をふと見て、思わず立ち止まる。
「毛唐じゃ……」
そう、その旅人が呆然と立ち尽くすその姿からもわかるように、男は徒人ではない。
キリストに例えられることからもわかるように、男は熊のような紅毛碧眼の男だった。
年の頃は二十代の半ばと見えるその男の名はベルナルディーノという。
まだ明治初頭の日本――特に田舎では、ベルナルディーノのような外国人を見たものも少なく、毛唐、異人などと呼ばれて珍しがられ、同時に恐れられていた。
それもそのはず、当時の日本人はせいぜい五尺そこそこしかないのに対して、例えばベルナルディーノは六尺をゆうに超える大男なのであり、彫りの深い顔立ちと日に焼けたせいか白いというよりも赤くなった肌は庶民からすればまさに赤鬼のようとすら比喩される異形、そして長く続いたキリスト教を禁教とする公儀の政策によって、彼のような紅毛碧眼の異人は常識的に考えれば恐るべき存在であった。
だが、どこの世にもそうした常識を真っ向から無視する手合いはいるものだった。
「おいおい、異人さん。そこまで馬を痛めつけるたぁ、何かその馬に恨みでもあるのかい?」
後ろから声を掛けてきたのは、ベルナルディーノよりも五寸以上低く、せいぜい五尺五寸ほどの短躯に、木綿を柿渋に染め上げ縦に縞の入った着物を纏い、手ぬぐいを頭に巻いている、四十がらみの小男だった。
小男は大八車を引いていて、その大八車に筵のかかった桶やらなにやらを運んでいるせいで、大粒の汗を掻いている。
「いえ、それはないのデス」
「だろうな。ならよ、もう少し先に水場があるから水やって休ませてやんな。そうしねぇと潰れちまうぜ」
「おう、ありがとうございマス」
受けた親切に、陽気に片手を上げて、ベルナルディーノは感謝を示す。
「いいってことよ。俺もそこで休むからよ」
そういいながら、小男もまたにやりと笑った。
「異人さん、なんでこんなところに来た?」
小男が言った水場――小川で馬にやっているベルナルディーノに小男がそう話しかける。
「ワタシ、シェフです。船に乗ってやってきまシタ」
「しぇふ? なんだそりゃ?」
「料理人のことデス」
「ああ、船の賄い方か」
合点がいった、というように小男は頷いた。
「ところでよ、異人さん。その馬だけど今日はもう動かすの厳しいんじゃねぇのか?」
「そうデスネ……」
馬の様子を見る限り、ここまで随分と酷使されていたこともあって相当消耗しているのがベルナルディーノにもわかった。
「なんなら俺の村に来るかい? 何もねぇけど、今日はこの暑さだ。ちょいと美味いものでも食って精をつけようとしてたところだしよ、異人さんも来ないかい?」
「それは楽しみデス。是非ともお願いしマス」
小男の質問をうやむやにはしたが、船の賄い方として太平洋を渡ってきたベルナルディーノがこうして日本を旅しているのに特に理由はない。
もともと船に乗ったのだって大した理由はなかったのだ――そう、“祖国”にいるのが嫌になった、という程度の理由しか。
そして、横浜に着くなり船を下り、馬を求めてこの地までやってきたのだ。
特段、目的地のない、自分がこれまで見たことのない世界を歩く旅とでもいえばいいのだろうか――もしかすれば、それは自分探しの旅のつもりだったのかもしれない。
「よし、決まった」
「ところでアナタ、名前はなんといいマスカ? ワタシはベルナルディーノ、といいマス」
「こいつは失敬。俺は八五郎っつうもんだ。八つあんて呼んでくれ」
「ミスタ・ハチゴロー……八つあんサンですね」
「それにしてもべるべる……えっとなんだっけか? 言いにくい名前だな」
「ベルナルディーノ――猛き熊、という意味の名です」
八つあんは何度かベルナルディーノ、と呼ぼうとしてか、べるべると繰り返していたが、何度やっても言い切れず、諦めたように呟く。
「よし、決まった……今日からお前は熊だ……」
「オウ、熊ですか」
「ああ、俺が名付けてやった」
八つあんの余りにも安直な命名だったが、ベルナルディーノは熊、熊、と繰り返して満更でもないようだった。
そして、今度はベルナルディーノは何か思いついたようににやりと笑う。
「そういえば、日本人の名前の意味は生まれた順と聞きました。では八つあんサンは一郎、二郎と数えて、八十五番目の子供なんデスカ?」
「違ぇよ! うちの父ちゃん、どれだけ元気なんだよ!?」
「オウ、違うのですか。残念デス」
ベルナルディーノはそうおどけるように言うと、八つあんと笑い合った。
「はあ――はあ――これは中々きついデスネ」
ベルナルディーノは馬の口を取りながら八つあんに続いて歩いて行く。
鬱蒼と繁った森の中を行く踏み固められただけの小径であり、もしベルナルディーノが八つあんからはぐれてしまえば、下手をすればけもの道と間違えて山に足を踏み入れてしまい、山犬の餌になりかねない。
坂が続く道を、大八車を牽きながら楽々と進んでいく八つあんに、ベルナルディーノはついていくのがやっとだ。
「なんでぇ、だらしねぇな」
八つあんにそう笑われても、ベルナルディーノは一言も言い返せなかった。
数週間に渡る船上生活、しかも部下のいない料理長といえども士官扱いだったので登檣作業には参加しなくてよいし、運動不足で体力が相当落ちていたのだろう。
まあそのお陰で、同じく無聊を託っていた通詞と話す機会が増え、日本語を教えてもらってこうして旅が出来ているのだから文句は言えない。
しかし、それでも自分の体力を過信してしまったことと、慣れない乗馬で馬に無理を強いてしまったことを後悔しながら、ベルナルディーノは必死に八つあんの後ろをついていった。
「あそこが俺の村だ」
八つあんはそう言いながら、山の尾根を超えた向こう側に見える、小さな小さな村を指差してくれた。
ベルナルディーノの目には鬱蒼と繁った森と、深い山の中にあって、たた二十戸ばかりがぽつぽつと点在する小さな小さな村だった。
その家々は遠目にもわかるくらいまるで何百年もそこに佇立しているかのようであり、奥まったところにある少し立派な寺院を中心として、何か目に見えぬ因習で縛られたような、そんな心持ちにさせられる村だった。
「なんだい、お前さん!? その毛唐……異人さんは!?」
八つあんの村に着くと、恰幅の良い女性が飛び出してきた。
「そう慌てるんじゃねぇよ。そこで馬を弱らせて困ってたから連れてきただけだ」
「とはいってもねぇ……」
女性はそう言いながら八つあんとベルナルディーノの顔を交互に見て、どうしようかと困っているようだった。
「和尚さんがなんと言うか……」
「和尚さんも今時攘夷だなんだとは言わねぇよ。俺が行ってくらぁ。それと買いに出たものは小車に積んであるからよ」
「わかったよ。お前さんは和尚さんのところに行っといで」
「あの、ワタシは?」
「お前さんもだよ!」
女性にそう怒鳴られてベルナルディーノは慌てて八つあんを追いかけた。
「ちょっと、異人さん! 馬はこっちで預かっとくよ」
村の外れの寺に向かって走る八つあんを見失わないよう追いかけながらベルナルディーノは背中で頷くしかなかった。
「おい、熊。祭に参加するのは構わねえけど、お前さんも仕事しろってよ」
寺の石段をひいひい言いながらベルナルディーノが駆け上がった時には、既に八つあんは和尚との話を終えていた。
「仕事?」
「おう、ついてこい」
「はい、ついていきマス」
八つあんは鋸一本ひっさげて、寺の裏手の森に入っていく。
「どうしたのデスカ?」
「ああ――ちょいと入り用があってな」
そう言いながら八つあんは森の奥の方に入っていく。
「こっちだ、こっち」
そう言いながら入っていくのは――
「これは……洞窟……デスカ?」
ベルナルディーノの声には答えず、八つあんはのこぎりを握りなおすとそのそれなりに間口の大きな洞窟に入っていく。
「八つあんサン、どこにいくのデスカ?」
のこぎりを持っていたのでてっきり森に木でも斬りに行くのかとベルナルディーノは思っていたのだが、のこぎりを担いで洞窟に入っていく八つあんに、不安げにそう声を掛ける。
だが、八つあんは何も答えない。
ベルナルディーノは選択肢はないわけで、真っ暗な洞窟を、確かな足取りで歩く八つあんの後ろから、不安そうについていく。
しばらく下り坂を進んで、入り口から入る光が随分と少なくなった頃合いで、ふと八つあんが立ち止まる。
「――――――――」
今まで何の返事もしなかった八つあんが振り返ってベルナルディーノの方を見る。
「大丈夫だよ、ちょっと出るだけだ」
「出る、とは何がでるのデス?」
「さあな――ん、熊の後ろに何かいねぇか?」
「えっ!?」
ベルナルディーノがそう振り返った時、だった――
「ほら、出たぞっ!!!」
そんな大声が響く。
「ひぃ!? デビルが!? 主よ、守りたまえ!」
ベルナルディーノはその巨躯を縮こまらせ、得体のわからぬものから己を守らんと太い両腕で顔を隠す。
――そのベルナルディーノの背筋に、ぽたりと一滴、雫が洞窟の天井から落ちる。
「ひぃぃぃぃ! パパ! パパ!」
もはや生きた心地もしないベルナルディーノは恥も外聞もなくへたり込んでしまった。
その前に、のこぎりを握りしめた八つあんの姿が、薄明かりのなかでベルナルディーノにははっきりと見えた。
――――八つあんの顔がさも面白そうに笑ったように見え、そして八つあんののこぎりが動いた。
八つあんののこぎりは、ベルナルディーノを切り裂くこともなく、そのまま壁に吸い込まれたようにベルナルディーノには見えた。
「ほれよ!」
そういいながら八つあんが投げ渡してくれたものを掌で受け取って、再びベルナルディーノは悲鳴を上げることになった。
「八つあんサン、ひどいデス」
ベルナルディーノは恨めしげに八つあんを見ながら、手ぬぐいでくるんだ氷の塊をぶら下げて歩いている。
「まさかあそこまで驚くとはよ」
「まさか氷室があるとは思いマセン」
そう、あの洞窟は八つあんの村の氷室であり、今ベルナルディーノと八つあんが持つ氷は、その周囲を覆っていた、雪が圧力をかけられて深い地の底で氷と姿が変えたものだったのだ。
仏頂面のベルナルディーノと、それを可笑しそうに見守る八つあん。
「ちっと悪ふざけが過ぎたか。勘弁してくれい。ところで、よ」
詫びながらもふと真面目な顔をした八つあんがベルナルディーノの仏頂面をのぞき込む。
「さっき誰かを呼んでたみたいだが、誰を呼んでたんだ?」
「……父、デスネ」
「親父さんか。親父さんはええっと、太平洋だったか――その向こう側にいるんだろう。こんなところをほっつき歩いてないで、帰ってやったらいいんじゃねえのか?」
八つあんの言葉に、ぶるり、とベルナルディーノは震えるようなしぐさを見せる。
「訳あり、ってかね」
「――ええ、そうデス」
「まあ無理にとは言わねぇけどよ」
八つあんのその言葉を聞いても、ベルナルディーノは黙りこくったまま歩くだけだった。
汗だくになりながら寺まで戻ってくると、子供達が集まっていて、きゃっきゃきゃっきゃと楽しそうに騒いでいた。
「あ、異人さんだー」
そんな声が聞こえる。
見知らぬものに興味津々でありながら、同時に見知らぬものは怖いという子供独特の表情が、その子の顔にはりついている。
ベルナルディーノがにこりと微笑み返してやると、子供は恥ずかしげに、そして嬉しげににこりと笑ってくれた。
「お前さん!」
「おう、かかぁ、準備させちまって悪かったな。こいつが色々と面白かったんでな」
「準備は村の人らがやってくれたよ。もうすぐ始まるしお前さんは朝から町まで出てきたんだ。のんびりしときな」
そんな会話が聞こえてきて、そして女性は氷を受け取ると、また作業の方へと戻っていった。
「奥様、デスカ?」
「そんな大層なもんじゃねぇよ」
「そうデスカ。八つあんサンはお子さんはいるのデスカ?」
「倅が二人、いるぜ。一人は町の方で暮らしてるがな」
「そう、デスカ……」
ベルナルディーノは意味深長に黙りこくった。
八つあんがその沈黙をどうにかすべく口を開こうとした時、不意に声が響いた。
「皆の衆、今日はご苦労だった」
本堂が開け放たれ、老僧が現われていた。
今まで騒いでいた子供も、汗まみれになって動いていた若い衆も、みな老僧の出現で神妙に話を聞いている。
「皆の衆のお陰で無事、氷室を開くことが出来た。今日はささやかながら宴としよう」
その老僧の言葉に、老いも若きも問わず、わぁ、と歓声があがった。
「おい、熊、行くぞ」
八つあんはそう言いながら、ベルナルディーノを引っ張っていく。
「何デスカ!?」
ベルナルディーノが息も絶え絶え、汗びっしょりになりながら駆け上がった寺の石段には、いつの間にか半分に割った青竹が並べられていた。
「見てな」
子供たちが、その青竹の上の方から群がるようにして青竹の両脇に並んでいく。
ベルナルディーノもそれにくっつくようにして青竹の脇に並ぶ。
「はい、あんたたち、これを渡しとくよ」
そう言いながら八つあんの“かかぁ”が蕎麦猪口と箸を渡してくれる。
「何したらいいのです?」
「見てりゃわかるよ」
八つあんの“かかぁ”にそう言われた途端、子供たちの歓声があがった。
そして、何か白いものが、青竹を流れる水と一緒に流れていく。
「異人さん! ぼさっと見てちゃ駄目だよ! ちゃんと箸で取らなきゃ」
そう言われても、ベルナルディーノは箸など使えない。
隣の子供の持ち方を盗み見て、見よう見まねで箸の使い方を覚えようとして、ともかく硬筆を握るように握ってみたりと色々試しながら流水をまさぐる。
だが、何度やっても上手くいかない。
「下手だなぁ……」
子供がベルナルディーノの箸使いを見て、そうぼそりを言う。
なにくそ、とベルナルディーノも必死になってその白いものをつかみ取ろうとした。
「――出来た!」
何度目かの挑戦で、ようやくそれを箸でつかみ取り、蕎麦猪口に入れる。
「パスタ、ですか?」
ベルナルディーノの問いに答えをくれるものはいない。
しかし、周囲の子供たちはみな美味しそうに食べているのだから、恐らくパスタなのだろうと思う。
箸に絡めて食べようとするが、上手くいかず、そしているうちに、幾度も幾度もベルナルディーノの目の前を白い“パスタ”が通過していくのが見える。
ええい、ままよ、と他の子供たちと同じように、それをすすり込んだ。
溢れんばかりの強い魚の香りに、少しつんとする醤油の匂い、そしてわずかな酒の香りが鼻腔を刺激し、舌を我が物とする。
そして、堅く茹でられた“パスタ”がその涼味をこれでもかとまき散らしながら、喉の奥へと落ちていった。
「美味しいデス!」
ベルナルディーノはそう叫ぶと次の“パスタ”を探して箸を彷徨わせる。
目の前にいる子供に、流れてきた“パスタ”を横取りされては悔しがり、上手くつかみ取れては嬉しがる。
まさに一喜一憂――
ベルナルディーノはただただその冷たい“パスタ”を追い求めた。
どれだけの時間が経ったのかわからなかったが、いつの間にか“パスタ”を流す、ベルナルディーノにとっての奇祭は終わっていた。
「おう、熊、帰ってきたか。なんか憑き物の落ちたような顔しやがって。素麺がそんなに美味かったか?」
戻ってみると寺の縁側に腰を下ろして片手に茶碗を持っている八つあんがそう笑いかけてくれた。
「大変冷たくて美味しく、楽しかったデス。これまでこのような食事は食べたことも聞いたこともありまセン」
「そうかい、それはよかった」
八つあんも流し素麺が褒められて満更ではないようだった。
「そういえば海の向こうから船で来たんだよな? 海の向こうってのはどんなところだ?」
「……そうデスネ。ワタシはあなたたちが米利堅と呼ぶ国からやって来マシタ。米利堅は東西四〇〇〇キロ以上――一千里の大きな大地を持つ国デス。そこには色々な人がいて、そうした色々な人たちが一つになることを理想とする国デス」
「よくわかんねぇな……例えばよ、一千里も離れてるなら、どうやってやりとりするんだ? 西にいる奴らは東にいる奴らのことは知ったこっちゃねえ、のか?」
「国を横断して、一千里の道を行く蒸気機関車がありマスから大丈夫デス。その他にも、電信という瞬時に情報をやりとり出来る機械もありマス」
「俺らからは想像もつかねぇ、すごい世界なんだな。蒸気機関車ってのは聞いたことがあるが、それ以外は全く想像もつかねぇ……」
八つあんは何度も何度も想像もつかねぇ、と繰り返していた。
八つあんにとって、遠くに物事を知らせるのは寺の鐘か、軍記物に出てくる狼煙、法螺貝の類しか思いつかないし、蒸気機関車というものを聞いていても、どんなものか想像もつかないのも当然だった。
「熊の故郷はすげぇところなんだな」
「ええ……」
ベルナルディーノは少しばかり声を落とした。
「八つあんサン」
「どうしたよ?」
「八つあんサンは、町に出た息子サンに帰ってきて欲しいものデスカ?」
「難しいこと聞くな。そりゃ我が子はいくつになっても可愛いもんだ。でもよ、ここで倅に持たせてやれるだけの田畑はねぇ。それなら町でやっていく方があいつの為だろうよ」
ベルナルディーノは少し考えて、そして言葉を発した。
「ワタシの父は、伊太利という国の軍人デシタ。伊太利の為に将軍とともに戦って敗れ米利堅に逃れました。それから時が過ぎて、将軍は伊太利を奪い返し、父もまた将軍に従って伊太利に戻っていきました」
八つあんは何も言わず、ベルナルディーノの言葉に耳を傾ける。
「父は、ワタシにも伊太利に戻ってこい、と言いマス。でも、ワタシは米利堅生まれです」
ベルナルディーノは何かを隠すように上を向いた。
「ワタシは米利堅生まれの米利堅人デス。でも、父はワタシもまた伊太利こそが故郷の伊太利人といいマス。確かにワタシのベルナルディーノという名は伊太利語であり、米利堅の言葉ではバーナードという名になりマス」
「よくわかんねぇけどよ……」
八つあんも思案に困ってそう返すしかなかった。
何しろ八つあんからすれば、伊太利も米利堅も遙か遠い世界のことであり、ベルナルディーノの心中などわからない。
とん、と縁側の縁台に何かを置く音がした。
「まれ人殿」
老僧だった。
「般若湯じゃ。ご賞味召されよ」
そう言いながら茶碗に“般若湯”を注ぐ。
「おう、熊、こっちの鱸もやっちまいな」
さっき何も気の利いたことを言えなかった詫び、というわけでもないのだろうが、八つあんがずい、と皿を押しつける。
その皿には、真白い魚が盛り付けてあるように見えた。
よく見れば皿と思ったのは皿ではなく氷を少し削って作られたものであり、その上に大葉の葉が敷かれて厚めにそぎ切りにされた純白の刺身が少しばかり乱雑に、しかしそれでいながら興醒めしないどころか、むしろそれもまたいい味を出していると思える乱雑さで盛り付けられている。
見目も冷ややかな氷の器はいかにも涼しげで、その上に盛り付けられた大葉と純白の刺身が、冬に耐える木々とそれを苛む雪のようだった。
「綺麗デスネ」
「ああ、見た目も味だ」
八つあんが造ったわけもないのに、なぜか胸を張っている。
「相変わらずよの」
老僧が愉快そうに笑った。
「これを造ったのは八五郎の内儀じゃ」
「愛デスネ」
何か噛み合っているのか噛み合っていないのかわからない会話をしている二人だったが、通ずるものがあったようだった。
にこりと笑い合うと、老僧もベルナルディーノもごくりと“般若湯”を飲み干した。
どうやらこの“般若湯”も氷室の氷で冷やしてあるらしく、唇に触れるその冷たさが心地よく、流れ落ちる冷たさが身体を芯から冷やしてくれるようで心地よい。
「これは米醸造酒ですか?」
「般若湯、よ」
老僧はからからと笑う。
「時に八五郎、お主はこれをなんと呼ぶ」
いきなり名を指された八つあんは目を白黒させながら答える。
「いや、酒だろ?」
「八五郎はそう呼ぶ。儂は般若湯と呼ぶ。なぜと思う?」
「そりゃ和尚さんも酒が飲みたいから」
「たわけ者が。そんなことを聞いておると思うのか」
混ぜっ返した八つあんは老僧にそう斬り捨てられる。
「思うに、その実は空にして、名は色に当たるからではなかろうか、と」
「…………」
勿論、ベルナルディーノには何のことかわからない。
「つまりよ、和尚さんは俺が酒、和尚さんが般若湯と呼ぶけれども、実は空だ、というのか」
「そうじゃ。実は空――仏門に入って五十余年、未だに空とは何かわからぬ愚僧の言じゃがの」
なるほど、と八つあんが頷いた。
「なあ、熊。お前、さっき酒のことを別の名で呼んだよな?」
「米醸造酒、デスネ」
「れすびん……か? まあいいや。お前さんからしたらこれはれすびんだ。俺からしたら酒、和尚さんからしたら般若湯だ」
「はい、そうデスネ」
「でもその実は同じだ。飲めばうめぇってことよ。和尚さんがついつい飲んじまうほどな」
「たわけ者が。されども方便としては理に適っておる」
にかっと笑う八つあんと、苦笑いの老僧――
「お前は日ノ本では熊、米利堅ではべるべるでーの、それでいいじゃねぇか」
「ベルナルディーノ、デス。それでいい、デスカ……」
そう言いながら空の茶碗をあおる。
少しだけぬるくなったとはいえ、十分な冷ややかさがするりと喉を越えていき、爽やかな芳香が鼻に抜ける。
「……美味しいデス……これがハンニャトウでも、サケでも、米醸造酒でもなんでもいい。その本質は美味しい、ということ……」
そう呟きながら、今度は鱸の洗いに箸を伸ばす。
「オウ、西洋鱸?」
「鱸だ」
程よい歯ごたえと、身に少し残る玉酒の香り、そして冷たい玉酒で締められたことで抜き出されたような鱸自身の旨味が渾然一体となる。
「美味しいデス」
「当たり前だ。うちのかかぁが造ったんだぞ」
「西洋鱸でも、鱸でも、なんでもいい……」
ベルナルディーノはじっと虚空を見つめる。
「日本では熊……米利堅ではべるべるでーの……ワタシはワタシ……米利堅だろうが伊太利だろうがなんでもいい」
やがて、力が抜けたいい笑顔で、にこりと笑う。
「八つあんサン、おしょサン、ありがとうございマス」
ベルナルディーノは八つあんと老僧に感謝すると、八つあんはにやりと笑い、老僧は何も言わず茶碗に酒を注いでくれた。
もう一度、冷たい鱸の洗いを口に運び、老僧が注いでくれていた冷えた酒に口をつける。
冷えた洗いと冷えた酒――それを味わいながら、ベルナルディーノはすう、と身体の暑さが抜けるような気がした。
夏の夕暮れを、涼やかな風が吹き抜けていき、ちりん、と風鈴の音が鳴った。