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大体二十か所ぐらい周った。
「あの……」彼に話しかける。「あといくつぐらいですか?」
「次で最後」敬語をやめてくれた彼がこちらを向いた。「ちょっと河口から遡る感じで飛ぶけど、中州に降りてみる?」
「中州?」中州と言ったら、川の中央にできる陸地くらいしか思い当たるものがない。
「まあ、一度着水して、上がることになるね。普通できない体験だから」
「是非」そうはいったが、具体的にどういう状況なのかさっぱりわからなかった。修学旅行で行ったキャンプ地で川を見た思い出はあるが、どう考えてもあんな所には降りられないだろう。近くに利根川があるが、用もないので殆ど近づかない。
機体は旋回し、機首を陸地に向ける。目を細めると、川があることが分かった。でも、修学旅行で行ったところよりずっと広い。
その川の、真ん中あたりに白い島が見える。
確かに、あそこに立ったら周りが全部川で面白いかもしれない。
具体的にどう楽しいのか自分でもよくわからなかったが、確かに何だか楽しそうだ。
「陸地?着水してから上がる?」
「着水してからで」
「その心は?」
「着陸はまだ未体験なんです」
「了解」
優しい人だ、と思った。何も言わなくても決定できたのに、わざわざ聞くなんて。
水面が迫ってくる。難なく着水。毎回、全く同じ衝撃だった。
自然のスロープを上がって、停止。
なんだかワクワクしてきた。
外に出る。カメラを回した。
「普段こんな景色を見ているんですか?」
「そうですね」
上を見上げる。
空が、広い。
何にも区切られていない空を見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。
飛行機の中では気づかなかった。
「もっと広い空も見えますよ」
「え?」
「アクロバット用のなら、視界がもっと広い。なにせ、下まで見える」
「乗ってみたいですね。」
「機会があれば」
学園祭に彼を呼ぼうか。読んだら、来てくれるかもしれない。
「どんな飛び方をするんですか?」
「低いところで飛ぶ、というのが一番大きいファクタ。なんといっても、近くに固定された個体があるというのが恐ろしいね。まだ、お互いに浮いていた方がダメージが少ない」
命を賭して何かする、という行為が彼女には新鮮だった。都市内が世界の大半だと思っていたが、意外と広い。
インサイダーと言ったって、ただ閉じこもっているだけではないのか……。もしかしたら、本当は人間はみんなこんなところで生きるべきなのかもしれない。
「一応、注意しておくけど」彼が驚くほど真面目にこちらを見てきた。「外に出て生活したい、というのは難しいよ」
「え?」唐突な言葉に、驚く。何を考えているか分かったのだろうか。
「過去、人間は自分以外の環境を自分のために大きく変えた。今もまだ、全然もとには戻っていない」
「…………」川の向こうに、森が見えた。その森に、今いったいどれぐらいの動物が住んでいるのだろうか。でも、それはどう見ても「自然」だった。
「人間の活動で、自然の大部分が破壊された。農業活動の負担もかなり大きかった。実を言うと、今から数えて千数百年が全部以上だった」彼は言葉をそこで切った。「これ以上、破壊はできない。ツケが回ってきたんだ。千年以上前からね」
「自然に異常は出ているのですか?」少なくとも、今目の前に見えているのは「大自然」だ。
「異常かどうかすらわからない状況。今まで蓄積してきたデータが全て異常だったからね。正しい生き方をしているのは、間違いなく都市の中で暮らしている人たちだよ。自然破壊は、紀元前から始まっていたから、もうその前の正常なデータがない」
「でも、環境を守る仕事をしている」
「自然が大好きでよくキャンプに行く人と、自然が大嫌いで都市に籠っている人とでは、間違いなく後者の方が自然に良い」
黙った。彼の言葉は本物かもしれない。
「都市内での生活を、「人間的でない」と批判した人たちもいたね。教科書に出ていただろう?でも、その批判をしている人達はもう十分に「人間的でない」生活をしていた。きっと、アウトサイダーはヴォイジャーのように見られているんだろう?実際は違う」
「つまり?」
「看取り士」彼は悲しげに笑った。「いや、申し訳ない。感情的になった」
「いえ……」彼の言葉は正しいだろう。それを否定することだけは、たとえ本人でも許されることではないだろう。「合ってると思います。確かに、軽々しく外に憧れたのは間違っていたかもしれません」
「……そう」
「看取りなのか、そうではないのかは、あとでは決めるものでは」
「そうだね。初対面の人には余り相応しくない話題だったかも」彼は無理やり微笑んだ。
「聞けて良かったと思いますよ。私は」
「ありがとう」彼は視線を逸らした。「帰ろうか」
「ええ」調子を取り戻した彼を見た。一瞬見えた感情的な言動が嘘だったのではないかと思うような冷静さだった。
周りの森……いつか「原生林」になってゆくだろう森を見つめた。でも、そう呼ばれるようになるのはもっとずっと後だろう。少なくとも、千年以上は後。
飛行機に乗り込んだ。不思議と、気分が良かった。
新しいことを知った時というのは、世界の光量が一上がったような感覚に包まれる。
機体はまた飛び立っていく。
頭は大部分がまだ彼のさっきの言葉を思い出している。
「看取る」という動詞が、頭にこびりついて取れない。彼が見ている時間軸は、自分たちとは全く違う。最小単位が100年の物差しで、果てが見えないほど長い。
大学が近づいて、慌ててレンズを回し始めた。どこかホッとする。
降下していく。
低い。
そして、ごちゃごちゃしている。
さらに、恐ろしいことに気がついた。気がついてしまった。
エンジンのせいで、殆ど前の下方が見えないのだ。
彼はいったいどこを目印にしているのだろうか。
彼の視線を見ると、前方ずっと遠くと、斜め前方下を見ていることが分かった。
そのために斜めに入ったのか。
目に見えて減速。
逆に、エンジンは唸り声を大きくした。
機首が上がり、増々前が見えなくなる。彼は横を見ている。
飛び降りれそうなほど地面が近い。
触れられそうなほど木が近い。
旋回。ぐっと高度が下がる。横が下。上が横。体験したことのない感覚だった。
そして、先ほどまでの着水とは全く違う、荒々しい着水。
なるほど、中から見るとこんなにも違うのかと実感。
一日も終わりが近づいてきた。
昼食をとっていなかったはずだが、まったくそれを感じていなかった。