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氷川時哉は友人から渡されたタブレットを突き返した。
「で、何だ?テレビに出たことを自慢したかったのか?」
まだ午前七時である。憎たらしい友人……中杉にたたき起こされていなかったらまだ寝ている時間である。朝早く起きるときは、前日に早く寝ないと午前中は死んだも同然になる。
現在三二歳の、パイロットとして脂がのってきた氷川に飛び込んでくる仕事は朝よりも夕方や夜の方が多い。突発的な依頼に対応するためだ、という大義名分のもと堂々と眠っていたのに、中杉に起こされて朝食をとっているのである。数か月ぶりの朝食でもある。
「かわいい娘だろ?」返答に、時哉は頭が痛くなった。
目の前の優男も三十路を周ったところである。未だに気障で、自分の百倍ぐらい伊達男だ。
「スタジオにいた二人もいい感じかと思ったんだけど、俺が乗せた娘も礼儀正しい感じで」
「黙れ」ちっとも口に入らない朝食を味噌汁だけ飲んで誤魔化す。「俺には関係のない話だろ、滝とか松本にやってろ」整備士と気象予報士の名前を上げる。あの二人なら、もう出勤している時間だ。
「滝は真面目すぎるし、松本は天才すぎてやべぇだろ」
箸をおいて、椅子を引き、もう帰るぞ、というポーズ。半分ブラフだったが、半分は間違いなく本気だった。
「待った待った、ここからが本題だ」
なら最初から本題を言え、と思ったが、言ったらもっと話が長くなるのが分かっているので呑み込んだ。
「その娘を代わりに乗せる気はないか?任務はまぁ、それっぽく見えるなら何でもいい」
「厄介事?」
「いんや……ちょっと陸自からお呼びがかかった」
「十分厄介事だ。何頼まれんだ?」
「大方、特殊作戦機の真似事だろうよ。それはまあ、どうでもいい。問題はお得意様の依頼は無下にはできないってとこ」
「ファーストハズバンドのコネ?」北芝ナツ隊長の夫の大樹は、国会議員である。その伝なら、確かに断れまい。
「ああ、うん。北芝……大樹さんのほう」
「で?そこまでして取材の方を押し付けたいのは?」
「これだよ」中杉は手でコインを作って見せる「さすが親方日の丸、払いが良い」
「嘘だな」
「なんで?」
「かわいい娘なんだろ?」
「お?興味持った?」
「俺の主観じゃない、お前の主観だ」
「いいじゃねえ――――」彼が笑みを深くする。この上なく怪しい。
「奥さんに怒られた…………?」ほぼ、勘だった。
中杉は笑みを崩さなかったが、頬がやや引くつくのが分かった。
「なるほどなるほど、お前の奥さんに、その娘のことをかわいいって言ってたと―――」
「ストップストップ、OK、交渉に乗ろう」
「高くつくぞ?」半眼で睨みつける。
「ぐっ……まあいい。今度一回、朝早くの任務を代行しよう」
「じゃあもう一つ」
「なんだ?」
「ここの勘定、よろしく」そう言って、氷川は席を立った。
もう二度寝するには目が覚めている。だが、起きているのは辛い。
一つ聞きたいことがあったのを思い出した。愛機のことだ。
「ああそうだ」中杉の方を向いた。「PC-6の改造、どうしたらいいと思う?」
「PC-6?お前、あれまだ使ってんのか?流石に古いだろう?無駄に頑丈だし」
「頑丈で重宝してるんだ。荷重9Gくらい耐えられるようにしたい」
「9G?馬鹿にしてんのか?」
「本気だ」
「何?ターボ・ポーターでアクロバットでもすんのか」
PC-6、愛称、ターボ・ポーター。単発高翼の短距離離着陸機。氷川が持っているのはハードポイントがある軍の払い下げ機である。
「主翼外板をFRPにしたから、主翼は9Gには耐えられるんだ。胴体との接合部がな……」
「第四大学の機械工学科が高強度ビーム金具を作ってたぞ。サンプルが来てるが……」
「つけとくか」
「寿村さんが持ってるはずだ」
「あの人か……」再び食堂を出る。
彼は彼女がやや苦手である。還暦を周った整備士整備士のボスだ。
ターミナルを出て、格納庫へ向かう。歩いて1キロ程ある。目を覚ますにはまあまあ手ごろな距離だ。
格納庫前にピックアップトラックが止まっていた。滝の車だろう。
格納庫のドアを開けて中に入る。十機ほど入っていた。幸いというべきか、寿村はいなかった。
「滝さん?」
「はい、何でしょうか?」生真面目な彼はわざわざ作業を止めて振り向いた。
「高強度ビームの金具が来てるって聞いたんだが」
「ああ、あれですか……ちょっと扱いに困っています。幸い、いくつかあるんで合う機体も多いんですが、正直言って重くなるだけなので……」
「つけといてくれ。俺のPC-6に」
「解りました。というか、もう準備はできてます」
「え?」
「寿村さんが、欲しがるだろうって……」
氷川は黙って頭を掻いた。読まれていたようだ。
「明日にはできますよ。はっきり言って、全部出払っていてやることがないんです」
「頼む」
「あ、ではこれを掛けておいていただけますか?」
「ん……」渡されたタグを見る。『飛行禁止』のタグだった。
「了解。車を借りていいですか」
「どれぐらいでしょうか」
「数分」
「大丈夫です。キーは刺さってます」
彼から離れてPC-6に向かう。スピンナーにタグを掛け、機内に乗り込む。
一通り点検して、離れた。
次に、CH750のところへ向かう。
主翼を後方に折りたたんだ状態で、あまり邪魔にならなかったためか比較的出しやすい位置にある。
フロートも後ろにあった。
ドリーを前輪に固定する。低圧タイヤで大きいため、ちょっと掛けにくい。
車をバックで近づけ、エンジンを止めずにドリーを掛ける。どうせまっすぐ出すだけなので固定はしなかった。
ドアを開けたままゆっくり発進。外に出たところで、降りてドリーを外す。車を回して、前と同じところに止める。
サイドブレーキ。エンジンを止め、キーを指したまま外に出た。飛行機にもサイドブレーキがあればいいのに、と思う。
再び格納庫の中へ。フロートの後ろに。手で押したが、かなり低い。腰が痛くなりそうだが、仕方がない。押して外に出した。
予想通り腰が痛い。伸びをする。一気に目が覚めた。
主翼を片側ずつ開く。スペース的な意味よりも、雨などの時にシートを掛けるのが楽、という利点の方が大きいかもしれない。
主翼の付け根、重心より少し前のリブの下にジャッキを付ける。片側も同様に。フロートを機体の前に真っ直ぐ入れられるように移動させる。尾部にもジャッキを入れ、少しだけ持ち上げる。主翼を両側少しずつ電動器具で上げていく。
完全に持ち上がった。主脚に回り、車輪を外す。前脚も外す。どちらもフロートを付けたら不要なものだ。フロートを下に差し入れる。何回かの修正の後、位置が合った。尾部に回り、ジャッキアップ。前部のフロート支柱を立て、胴体につける。固定する。機体はやや前傾姿勢だ。
尾部ジャッキを降ろしていく。今度は主翼の方を降ろす。繰り返し、ぴったりと嵌まるまで繰り返した。カバーを外し、固定。フロート周りをまわって確認する。問題なし。
外した車輪を転がして戻していく。フロートがあった位置へ。
バッテリーはちゃんと充電されていた。整備員に感謝だ。車止めを噛ませて、エンジンを回す。
問題なく回る。
この分なら大丈夫だろう。近海海域の水質調査のためにフロートを履かせたが、問題なさそうだ。
エンジンをカットし、ジャッキを戻し、ドリーもつかないのでワイヤーで引っ張っていく。
フロートの取り付け部カバーを閉じる。
格納庫内に入る前に、主翼をたたむ。移動禁止のタグをつけて、格納庫に戻しておく。
時計は十二時。朝食を碌に食べていなかったので、食堂に行く。出口から中杉が出てくるところだった。
「連絡先渡してなかったろ」
「送っといてくれ」
「了解」
溜息をついた。
そばを注文して、机に座ってタブレットを開く。どうも、もう送られてきていたらしい。
そばをすすりながら文面を入力した。
「初めまして。中杉の代わりに次の取材を受ける氷川時哉です。
日程はもう聞いているので、打ち合わせ通りに越し下さい。今回は東京湾沿岸の河口近くの海域で海水の収集をする予定です。
海面に着水してサンプルを採取するので前回よりブッシュパイロットらしい任務です。
何らかの希望があれば可能な範囲でお答えいたします。
氷川」
送信。