Epilogue
Su-29bisが、第七大の空を飾る。
三日間すべての日程を消化し終えた氷川は、第七代の第二野外多目的トラックに立っていた。スクラップ同然となった可哀想なPC-6は、FCSがモスボール保管することになった。要するに、格納庫の肥やしにするわけだ。
そのPC-6はいま、あの脱出劇のドキュメンタリーをエンドレスで流し続けるスクリーンの前に佇んでいる。恥ずかしすぎて、近づいていない。まるでヒーローのように編集するのはやめてほしい。名誉棄損よりも悪質ではないか。どうも最近、嬉しいとも嫌だとも思えない、ふわふわとして掴みどころのない状況が多い。
極めつけは、これである。
「あの、氷川さん」水口がこちらを見上げてくる。
「何」少し不愛想な声かもしれなかった。
「その……今晩、夕食のご予定はありますか?」
「いや、無いけど。飛行機どうしようか」
「明日までここは借り切ってくれるそうです」
「そうか。じゃあ、まあいいよ」
……下心がなかった、と言えば嘘になるだろう。だが、彼の俗世的な一部が、せっかくハードな仕事を終えたところだし、美人と会食位はしてもいいのではないか、とささやいたのだ。
いったん別れてから、実は結構拙い事態なのではないか、と考え始めた。社会の一般常識的に、飛行服で会食に行くのは余り褒められた行為ではないだろう。あまり汚れは無いが、所々オイルもついている。
当たり前だが、Su-29bisにもPC-6にもクローゼットはついていない。今持ってきている服は着ているこの飛行服一着だ。
慌てて、大学の購買へ向かう。最近はちゃんと扱っているはずだ。服なんて、自分でまともに選んだことも無い。
一応、そこでポロシャツとジーンズを買い、着替える。新しく買った普通の服を着るのは数年ぶりだ。脱いだ飛行服は後席に突っ込んでおく。
まだ時間までには二時間ほどある。仕事のやり取りは殆どメールで済ませていたので、会って話をするのは意外に少なかった。
場所は大学から500m程の地下街。階層的に、大深度地下ではない。つまり、私企業の所有だろう。大学ではないということ。
といっても、大学から出るのに一キロほど歩くので、実はあまり余裕はない。バスで行けばいいかとも思ったが、諦めて歩く。溜息。断わっておけばよかったかとも思ったが、失礼か。
浮きたっている。心が。飛行機の中は自分のホームだ。しかし、レストランとは完全にアウェイだ。
購買の出入り口の画面には、さっき飛んできたルートが映し出されていた。流石に、渡り廊下を潜った後ウォールをやったのはやりすぎたかもしれない。先ほどから、自分の演技がずっと映し出されていた。機体は渡り廊下を潜った瞬間、機首を真上に向け、スモークを機体全体で攪拌しながら上昇した。それを、渡り廊下の上から撮影したものだった。空気を掻き乱すような音が、スモークと共にしばらく残る。
機体の尾翼には、Alley mur murの羽ペンのマーク。カーボン地に白抜きのラインが綺麗だった。よくもまあ、三日で仕上げたものである。寸法を送ってから、フィルムが出来るまで一日かからなかったのだ。優秀なデザイナがいるに違いない。初めて使ったので剥がれないか心配だったが、問題なかった。
ぶらぶらと街を歩く。普段何をして生きているのかわからない人たちが通りを行きかっている。
飛行場にはそれぞれの意見が明確に決まっている人たしかいないから、何をしているのかわからない人がいるという状況が中々に刺激的だった。
何か気の利いたものでも買っていこうかとも思ったが、何も思いつかない。諦めて、手ぶらで行こうと思いなおす。なんだか、本土ではこういう妥協が多いなと思う。それはきっと、飛行場では妥協するほどの余裕がないからだろう。いつも、飛ぶことを考えている。いまは、もしかしたら飛ぶよりも難しいことについて考えている。でも、悪くない。
PC-6はFCSが捨て値で買い取り、手持ちの機体はCH750とSu-29bisのみになった。受けられる依頼はかなり減るだろう。勿論、これはFCSなりの福利厚生だ。有り難いが、なんとなく口惜しい感じがした。
いい機会だ。アラスカにでも行って、本場のブッシュパイロットの訓練でも受けようか。伝もあるし、気が向いたら来てくれ、と声を掛けてくれた団体も幾つかある。Alley mur murの依頼はどうしようか。短期の集中研修なら一か月で済ませられる。マスコミ対応にしばらくかかるといっていたから、雲隠れにちょうどいいだろう。
そうこうしているうちに、そのビルの前に来てしまった。地下に降りる階段だけで、レストランだということを表すものは何もなかった。
まだ三十分ほど早いが、まあいいだろう。しかし、ちょっと入るのに勇気がいる。ドアを慎重に開けて、中をのぞく。カウンター席も無く、白っぽい基調の部屋で、調理室らしき場所の反対側に三つだけ二人掛けのテーブルがあった。
まだ誰も来ていない。当たり前だ。ただ、店員もいない。これは当たり前ではない。
一番奥のテーブルの上にだけ、紙があった。見てみると、「水口様 氷川様」と書いてあったので、奥の席に掛ける。
ドアが開く音がして、誰か入ってきた。
それは、彼女だった。
いつもの笑みで、彼女は微笑んだ。
「先に来たかとも思っていたのですが……」
「いや、俺が異常だ」
「多分、私も……」彼女は時計を見た。「20分以上前ですね」
「すごいね、ここ……」レストランを見回す。「店員さんは居ないの?」
「いえ、多分、予約の時間になったら来ると思います」
「へぇ……興味深いスタンスだ」
「うーん、副編集長に勧められたんですけど」
「行きつけとかないの?」
「余り、こういうことはしかったので……」
「うん……」彼女の目を見た。「実は、俺もだ」




