4-7
氷川は、懸命の操縦を続けていた。しかし、どんなに飛び回っても、火山灰の雲を抜けることはできなかった。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
どっちが上だ?
どっちが北だ?
もう、七時間もこのままだ。
計器を見る。壊れているかもしれない。
頭がくらくらする。
あることに気がついた。否、気がついていないふりをしていた、と気づいた。
バーディゴに罹った。
バーディゴ。日本語で、「空間統合失調症」。地平線など、目安になるものがない時に、脳が自分の体勢を誤認する現象だ。
パイロットにとっては悪魔のような現象だ。これに陥ると、計器が信用できなくなる。故障しているのではないか、と疑ってしまうようになる。例えば、バネばかりを握っていて、「引っ張られた」と感じたとする。もしバネばかりが「押された」と示していたら、はかりを信じて押し返すことはできるだろうか。
舌打ちをする。
心配そうな目で水口がこちらを見た。カメラのキーホルダーが揺れる。
そのキーホルダーの動きをじっと見る。
彼女が戸惑った顔になったのに気づいて、前に目を向けた。と言っても、黒しか見えない。ぐちゃぐちゃになっていた脳が回り始める。
「あ」彼女が間抜けな声をして、カメラをその前面に向ける。
青い火の玉が前から現れ、後方へ消えていく。
きれいだ。
美しい。
そんな、言葉だけでは表せないような光。
操縦を少し忘れてしまった。
「水口さん」口を開く。
「はい?」
「そのキーホルダー、ここの穴に掛けてくれませんか?」スイッチのタグ用の穴を指す。
「はい……?まあ、わかりました」怪訝そうな顔で彼女がこちらを向く。「あの……敬語になってますけど……」
彼女がカラビナを使ってそこに掛けた。彼女の細い腕が見えた。
一度目を瞑って、そのキーホルダーを見た。
もう、大丈夫だ。
キーホルダーは重力に引かれ、コイル状のストラップが少し伸びている。
キーホルダーが突然、右に触れる。操縦桿を倒して、左に切り返す。
思い通りに、サーマルに乗った。
躰の感覚も正常になりつつある。
「何ですか?それ」彼女がカメラをキーホルダーに向ける。
「うん……」考える。「お守りかな」
「は?」
「万有引力の御利益確実の」
「は?」
「後ろの人たちはどう?」
「かなり、グロッキーです」後ろを見る。愚かにも朝食を食べてきた彼らは、かなり体調を崩していた。藤田という男のみが、意識を保っている。だが、顔色が明らかに悪かった。
「なるほど……」顎に手を当てる。「これまでに、宇宙エレベーターに頻繁に乗ったり、スカイダイビングをしたり、ロケットに乗ったり、スキューバダイビングをしたりしたことは?」
「冗談ですか?」
「いや、割と真面目な質問」
「ありません」
「あ、登山は?」
「いや……どれぐらいの高さの?」
「少なくとも、2000m以上」
「ありません」
「分かった。体調を崩したら言って」
「分かりました」
あとは、方向だ。
でも、それも少しずつ分かってきた。旋回は、前半は早く、後半はゆっくりと旋回する。心持ち、だが。風で飛び方が、上昇率が変わる。それによって、コイルの伸びがわずかにだが変わっている。
暗闇。暗闇しかない。でも、機体の軌跡はわかっていた。
「すみません、気持ちが悪くなってきました」彼女が俯く。
「分かった」
思い通りになった。
生き残れるかもしれない。
きっと生き残れる。
タイミングを計って、水平に。
降下を開始する。計算が正しければ、生き残って離脱できる。
正しくなければ、地面に叩きつけられて死ぬ。
エンジンはまだ生きているだろうか。
PC-6は、緩降下を開始した。
ただ、静か。
後ろのゾンビたちも少しずつ動き始めた。
「あの……」水口が控えめに話しかけてきた。
「何?」
「いえ、その……大丈夫ですか?」
「多分ね」片目を瞑る。「君の体調を崩しているというのが正確なら」
「そんなに重要なことでしたか?」
「うん」
「どうして?」
「えっとね……」頭の中で文をまとめる。「君は今高山病に罹っているんだ」
「高山病?」
「そう。高山病。俺は体制が割とあるから、なりにくい。後ろは既にグロッキー。藤田さんは、ちょっと参考にならない。君なら、ちゃんと高山病に罹ってくれると思っていた」
「ちゃんとかかるって……」
「大体、2400m程からかかるんだけど、大体、発症までに数時間かかる。今から5時間ほど前が2400mだとすると、毎時1200mになる。計七時間で、8400m」だから、今多分8000m程だ。キーホルダーのコイルの伸びは、平均すると余り変わっていない。
彼女の方を見る。口が、「すごい」と動いていた。
「勿論、間違ってる可能性もある。もしそうだったら、墜落してしまう」
あとはもう、信じて進むしかない。




