4-3
夜はあっという間に過ぎた。朝には嵐は止み、かなりの好天候になっていた。といっても、まだ三時。外は真っ暗だ。
好天候ということは、自分が出張る可能性も少なくなったということか。その方が良い。
歯を磨いて、朝食を摂ろうと思ったが、思い直して栄養食と水で済ませた。ハードなフライトの前にしっかりと食事を摂ってしまうと、飛ぶときにきつくなる。
PC-6ターボ・ポーターは既に引き出されていた。
オレンジ色に塗られた尾翼。白が基調だが、胴体の下三分の一は薄い緑に塗られていた。四枚プロペラ。排気管。直角を組み合わせた武骨なスタイル。機首を上に向け、突っ張るような体勢でエプロンに停まっている。
プロペラとスピナーを確認。ピッチも正常。
ワイヤーが機首のインテークから伸びている。こういう親切が寿村の特徴だろう。
カウルのハッチを外し、点検。見える範囲で異常が残されていることがあるわけないが。
ターボプロップに手で触って点検する。燃料供給系統もOK。オイルも許容範囲内。
吸気口もペンライトを当てて確認。
ハッチを閉め、ロックする。
ランディングギアも異常なし。タイヤを蹴って、空気圧を確認。ちょっと抜けすぎかもしれないが、大丈夫だろう。
ドアを開け、コックピットに入る。席の配列も見ておく。キーをひねって、ロックを解除。
操縦桿を動かし、ラダーペダルを踏む。こちらもOK。トリムを中立に戻っているのも確認。迷ったが、トリムはそのままにしておいた。
操縦席の後ろに整備記録と耐空証明が載っていることを確認。整備記録を開いて見てみたが、エンジンも好調、リンケージ・ワイヤーも二か月前に取り換えていた。
イグニッションとマスター・スイッチ、それから無線が切れているのを確認してから、バッテリーを繋ぎ、マスター・スイッチをひねる。
駆動音が鳴る。ジャイロが回り始めた。
燃料をチェック。主翼タンクにつなぐ。
フラップを降ろし、マスター・スイッチを切って降りる。
ランディングギアの足掛けから主翼上面が見える位置まで登り、上面を点検。燃料タンクも点検する。
飛び降りて、フラップが降りているのを手で押す。動かないのを確認。エルロンも手で動かす。ピトー管も確認。カバーを外す。
機体後部へ。エレベータとラダーを確認。尾輪も見ておく。トリムも点検。
左翼に。燃料タンクを見る。息を吹きかけて失速警報装置が動くことを確認しておく。
ドアを開け、コックピットでマスタースイッチを入れ、フラップを戻してすぐに切る。
問題なし。
出発まであと十分ほどある。今三時二十分。早めに出るかと思い直し、コックピットに乗り込む。
エンジンを始動。好調に回り始める。タキシ―して、滑走路へ。反対側のエプロンにAW609が見えた。スロットル・レバーを押し込む。
操縦桿を押し、すぐさま右にラダーを踏む。
機体は極々僅かに機首を振り、猛進。
翼が空気を掴んだ。
撫でるように操縦桿を引く。燃料を多く積んでいるからか、少し重い。
方位を柏へ。
巡航まで出力を落とし、水平へ。
秋空は晴れ渡り、目が痛くなりそうなほどだ。
眼下には都市。はるか先には、まるで国境のようにくっきりと分かれた先、全てが森林になっている。
利根川が見えてきた。大体の位置を把握していたので、すぐに見つかった。無誘導の着陸は慣れている。
滑走路を確認。黒いワゴンが止まっていた。周りに三人程集まっている。
フラップ・ダウン。
スロットルを絞り、機首を水平のまま。
速度が下がってきた。
横を通り過ぎ、風下へ。
速度が一定まで落ちたところで、機首を落とし、スロットルを少し開く。
旋回。さらにスロットルを絞る。
フラップフルダウン。
少ないバンクでも小さく回った。
風に正対。
スロットルをほぼアイドルへ。
沈む。
沈むに任せる。
最後に引き起こし。
衝撃。
凸凹とした振動。
ブレーキを踏みながら、じわじわと操縦桿を引く。
尾輪がつく。
慣性でワゴン車の隣へ。
エンジンを切る。
フラップをアップ。
マスター・スイッチを切った。
車輪止めをもって、コックピットから飛び降りた。
車輪止めをはめ、ワゴン車に向き直る。
「どうも」
「はい、二日ぶりですね。氷川さん」水口リアが微笑んだ。
「えっと、リオンさんでしたか」
黙って彼女は頷いた。ほか、河蕊が居た。責任者として立ち会っていたようだ。現在三時四十分。今から戻っても先行偵察機の偵察の十分前に着陸できる。
「行くのは水口さんだけ?」
「はい。よろしくお願いします」
「ああ」頷く。「じゃあ、乗って」
彼女を副操縦士席に乗せ、車止めを外して乗り込む。
エンジンがまだ暖かいせいか、レスポンスが良い。
滑走路の向こう側までタキシングして、今度は操縦桿を引いたまま離陸。STOLだ。
機体は簡単に浮く。流石に、人一人分だけで劇的に操縦の感触が変わったりはしない。
進路を南へ。
「緊急依頼って、青木ヶ原キャンプのことですよね」
「あれ?言ってなかった?」
「はい」
確かに、はっきりとは言っていなかったかもしれない。
「編集長があそこにいるんです」
「ああ」
「ついて行っていいですか?」
驚いて、ちょっと操縦がぐらつく。驚くことも無く、彼女はこっちを見ている。
3000m程まで来てしまった。
日の出はまだ遠い。
「死ぬかもしれない」
「分かっています」一瞬の迷いもなく、彼女は言い切った。
「君の業務を逸脱している」
「分かっています」
迷惑だ、邪魔だと言って要求を突っぱねることもできた。
だが、できなかった。
彼女の顔を見た。
彼女の瞳を見た。
意思を宿した目だった。
いくつもの言葉が浮かび、
すべて、喉の手前で割れ、消えてしまった。
「迷惑ですか?」
そうだ、と言いかけて止める。もう一度、彼女の顔を見る。鏡は見てないが、情け無い目をしていたに違いない。
「君が死んでも、責任は取れない」言い訳みたいに、脅しの言葉を重ねる。
彼女の意思を否定することは、きっと知性の否定になるだろう。それほど、彼女の意思は確かだった。
「問題ないです」彼女は悪戯っぽく微笑んだ。「貴方が死んだら、だれが責任を取るのですか?」彼女は顔を前に向けた。なんとなく感じていた圧迫感が消え、溜息をついた。
しばらく考える。整備士だろうか。北芝ナツだろうか。否、誰でもない。
「俺だね」やっと、そう答えた。
彼女は喋らなかった。彼女が抱くカメラのキーホルダーを見た。少し黒ずんでいる。多分、メッキではなく無垢の銀だ。意匠化された一筆書きの羽ペンだった。見覚えがある。Alley mur murのシンボルマークだ。
「今、偵察機が離陸した」
「RF-15J、ですね」
「良く知ってるね」
「はい、勉強しました」
「今乗っているのは?」
「スイスの、PC-6です」
「合ってる」
まだ誰も飛び立っていない。静かな飛行場に、滑り込むようにランディング。
エプロンへ。まだ結果が出るまで、十分ほど時間がある。
エプロンには、殆どのメンバーが集まっていた。松本以外は、だが。まだ暗いし、秋なので寒い。室内でやればいいのに、わざわざモニターをもってきてここで見ているらしい。すぐに飛び立てるように、ということかもしれない。しかし、ほかの人が飛ばなければいけない状況になった時点でどこにいたって同じだろう。
「どうですか?」
「いま、やってるよ」腕を組んだナツがモニターを睨んだ。
二つ並んだ画面の右にはHMDの映像、左にはメーターが幾つも表示されていた。それをのぞき込む。
後ろで、早速リアがカメラを回し始めた。
「今のところ問題なし、か……」
異変は、そうつぶやいた直後に起きた。
右の映像が、一瞬で90度回り、下を向いた。緑が視界を覆う。
メーターの操舵量がフルに切られる。
「うぐっ」という声が聞こえた。
Gメーターがレッドゾーンへ。
機体を何とか立て直して、映像が正立に戻る。
一瞬の出来事だった。カメラが外れたのかとも思った。
「こちら空自だ。最大8Gを記録、8Gを記録した」
それは、絶望的な数値だった。
「戦闘機で8G?」思わず声が出た。じゃあ、それより軽い軽飛行機なら、いったいどうなるんだ?
重力の8倍。機体には二十トン近い荷重がかかる。10Gに耐えられる機体だって、一瞬耐えられる、というだけだ。そのうえ、愛機を試験に掛けたわけではない。多分、かかって耐えられるGはもっと下だろう。
ナツのタブレットが鳴り、通話をして、すぐに切った。
皆が黙り、聞き耳を立てている。「そうか」や、「わかった」などだけだった。
「奴さんは諦めたよ」彼女の顔がこちらを向いた。「出番だ、氷川」
思いっきり舌打ちした。