片翼の天使
「危な……っ!」
声をあげかけ、その言葉をのみ込んだ。切り立った崖の上に腰掛ける小さな人影。危ないからと声をかけようとした。
声が聞こえたかのように振り返ったその人の背中には、大きな真っ白な翼があった。
* *
身軽にそこからひょいと跳び上がった小さな人影は、勢いのままに遙か上から見上げる青年、ガロードの目の前に降り立った。焦げ茶の髪と目のガロードを見上げたのは、ぼさぼさの金髪の子供だった。
「有翼人か……坊主」
「………お節介な上に失礼な人間だな、あんた」
憮然とした顔で言ったその子供はそのまま踵を返して行ってしまおうとする。思わずガロードはその背中を呼び止めていた。有翼人には一生かかっても出会えないことが多い。そもそもは突然変異だったのだろうか、それとも神々の悪戯だったのだろうか。絶対数の少ない有翼人は人前にまず姿をさらさない。
「失礼はお互い様だろう、こっちは心配したんだ」
「余計なお世話だよ」
振り返った有翼人の子供は、ガロードの顔が強ばっていることに気づいた。背中を見せれば気づきもするだろう。
「あんた、名前は」
「……ガロード。お前その……」
「ここで見たこと、誰にも言うなよ。見ての通りあたしは移動できないんだから」
「……て、お前女かぁ?」
「いいっ加減失礼にも程があるぞ」
一睨みして、背中を向けた彼女の背中には、片方しか翼がなかった。大きな見事な純白の翼が一枚だけ。
* *
腕は立つが真面目なのか不真面目なのか分からない、どこまで本気なのか分からない、本心を見せない奴。それがガロードの評判だった。人と一緒にもいるし付き合いもいい……だが決して本心を見せない。そして怒らせたり敵に回したりしてはいけない相手。こんな人間が人手不足の近衛騎士隊に今は雇われているけれど、もともとは根無し草の傭兵だ。
「どうした、ガロード。珍しく真面目な顔をして」
酒場で声をかけてきた同僚に目を向けたガロードは苦笑いをしてグラスを軽く持ち上げる。脳裏にはまっすぐに自分を見つめるあの有翼人の少女の目が焼き付いて離れなかった。驚くほどに深く美しい緑と青のオッドアイ。
「天使を見たことあるか?」
「何だ、そんなにお前が言うほどいい女がこの町にいたか?」
天使といってまず思い浮かべるのはそっちらしい。それか、有翼人だろう。有翼人といっても翼の色もその姿の様々だ。だが、今日出会った少女のあの姿は、誰が見ても天使だというだろう。そう……翼がきちんと一対あれば。
同僚の言葉を聞きつけた酒場の女が、聞き捨てならないと目をつり上げて迫っているけれど放っておくことにした。周りを寄せ付けようとしない、拒絶しきったようなあの少女の姿が離れない。まるで傷ついているような顔だったと今は思う。
「ガロード、明日の早朝訓練は隊長と当たるんだろ?」
「……ああ、そういえばそんな順番だったな」
「いい加減、本気の腕前見せてくれよ」
「オレはいつだって本気だよ」
笑って言いながらガロードはグラスを置く。傭兵稼業だ、処世術は一応心得ている。そこにいたければとりあえず、負けておくべき場所もあるのだ。出ていく気になったら本気を出せばいい。何の執着もない町だったけれど、急に執着と言うほどではないが心残りができた。あの少女にまた会ってみたい、と。あの目がどうしても忘れられない。
* *
あの日の崖の下に立った。その崖を見上げ、首が痛くなる。真下に立てばその上は見えないほどに高い崖だ。この崖の上からあの少女は平気な顔で飛び降りたのだ。
あれから毎日のようにここに来てもあの少女の姿はない。自分に出会ったことで警戒してここに来なくなったのかともふと思う。だがここしかないのだ。彼女が来るかもしれないと分かる場所は。
その背中に今日は苛立ちの感じられる声がかけられた。あの少女のものではない。
「あんた、誰だ」
「?」
振り返ったガロードの目に、長い手足に整った顔立ちの少年の姿が映った。黒髪に鳶色の目の少年。何か怒ってはいるようだったけれど、その目は本来優しい人柄であることを知らせてしまっている。
「君は? ここは私有地ではないと思うが」
「私有地みたいなもんだろ。こっちには誰も来ない」
「来ても問題はない」
睨む少年の目に苛立ちがあった。何かあるのかと問いかけようとしたが、自分を見たと誰にも言うなと言ったあの少女の言葉がそれを押しとどめる。
しばらく互いに何も言わないまま向き合っていた。それを破ったのはあの少女の声だった。声と一緒にすぐ側の木陰から姿を見せた。
「いいよ、もう。別にその人、あたしのことどっかに売るつもりじゃないみたいだし」
片翼の少女は少年の脇に立ってガロードを見た。心配そうに少年が少女を見下ろす。少女はその顔を見上げ、複雑そうな顔で笑った。
「もういいよ、それに来ちゃだめだって何回も言ってる。帰りなよ、あんたは」
少年の背中を押すように追い返した少女は、呆然としているガロードにようやくそのオッドアイを向けた。目を細めて笑う。
「名前、聞くだけ聞いて言ってなかったよね。あたしはルシフ。あたしのことを、探してたの?」
「あの時、あの上で何してたんだ?」
「空見てたの。あの空を飛べるなら、途中で力尽きて落ちてしまってもかまわない」
空に憧れる眼差しで片翼の少女は言う。けれど、途中で力尽きる以前に翼を片方しかもたないルシフには飛ぶこと自体かなわないのだ。
「でもあの高さから……」
「身は軽いの。あのくらいなら、この片方の翼でも役に立つみたい」
そう言ったルシフの顔が寂しそうに揺らいだ。ガロードは戸惑い、その顔を見つめる。
「ガロードは何で、ずっとここに来ていた?」
「探してたんだ。また会えるかと思った。で、会えた」
「会ってどうするつもりだったんだ」
「さあ……」
あっさりと答えるガロードをまじまじと見て、ルシフはくすくすと笑った。初めて少女らしい顔を見たとガロードは思う。空に焦がれる少女は妙に大人びて、そして固い顔をしていたから。
* *
ガロードの日課がそれから不意に変わった。勤務時間が終わると酒場に流れ、それからとってある宿へ戻るかそれとも他の場所へ転がり込むか。そんな日常が変わり、訓練と勤務時間が終わると足はそのままルシフのいる場所へ向かっていた。空へ続くような崖がある森へ。空へ焦がれ続ける少女と何を話すわけでもなく。ただ、とりとめもなく話していた。根無し草でとどまることのないガロードはこれまで行った場所のことをルシフに求められるままに語る。
「ガロードはいろんな場所に行っているんだな。そのうち、ここも離れるのか?」
「……まだ当分は離れられないだろうな」
不意のルシフの問いにガロードの方が言葉につまった。離れないと言った自分の言葉にルシフが嬉しそうな顔をするのに気づいた。それに妙に安堵する。
ルシフは自分で言った通り、ここを離れられないのだろう。空を飛ぶこともできない。けれどその姿で人前に出ることもできない。人前に出れば見せ物小屋にいつの間にか入れられかねないのだから。普通の有翼人でさえそうなのだ。片翼ではなおのことその危険が伴う。歩いての移動しかできないルシフに、ここを離れることはまるで夢のような話なのだろう。
「お前はずっとここにいるのか?」
「そう。ずっと、今までも、これからも。きっと」
言いながらルシフは空を見上げる。空にとけ込むことを何よりも願うその顔からガロードは思わず目をそらした。
なぜお前は片翼なのかと、そんな問いが何度も頭を掠める。けれど口にはできなかった。そんなこと、知ることができるのなら本人が一番知りたい可能性だってあるのだから。
ガロードの最近の様子に、同僚達の間では本人の耳に入らぬように噂が広がっていた。あそこまでガロードが変わるのならきっと女だ、と。
ついにガロードがその噂を聞きつけた時には全員が怒りを予感して身をすくめたが、ガロードの方がぽかんとした顔でそんな同僚達の顔を眺めていた。
「なるほど……そうかもな」
「おい……ガロード?」
噂をしていた方が心配になるような態度に、ガロードは笑って頷く。その様子で本格的に心配になり、同僚達は強引にガロードの腕を引っ張った。雇われ騎士隊員と言ってもガロードの腕は確かで、そして仲間思いであることに変わりはないのだ。
「お前、最近付き合いが悪いからおかしいんだ。今日はつきあえ。いいな」
そうして引っ張って行かれた酒場で、ガロードはあの日の少年に再会した。
* *
仲間達と久々に騒いで酒を飲んでいたガロードはそれでも酔えない自分に気づいていた。空に憧れ続けるあの目がいつも脳裏にあるのだ。言葉を交わさなかったことがなおさらルシフの声を聞きたいと思わせる。そして、毎日のようにあそこに行っていた自分に気づいた。ルシフがもし、自分を待っていたらという思いがわいてくる。
そのガロードの目が、あの日ルシフと再会した日に出会った少年が酒場に入ってくるのをとらえ、思わず立ち上がっていた。
まるで旧知に出会ったかのように親しげに少年に歩み寄ったガロードは、同僚達にちょっと悪いと一声かけ、少年と酒場の隅の席を占領した。驚いた顔の少年の頭をテーブルにつくほど下げさせ、低い声で尋ねる。
「本当に、お前あの日からあそこに行かないんだな」
「……来るなって言われ続けたんだ。あんたがいたら、もう行く言い訳もない」
「………?」
「分かってなかったのか?まさか。ルシフはあそこから動けない。食べるものだってまともに手に入れられないんだ……じゃあまさか」
少年の言葉にガロードは驚く。時折、自分の分と一緒に持っていったものを分けて一緒に食べたことはあった。だがそれ以外にあえて食べさせるために毎日何かを持っていったわけではない。
「おい……お前は何でそんなに知っている」
「ルシフはぼくの姉弟だ」
「何?だってお前は」
ガロードの顔に浮かんだ驚きを、少年ははねつけるような目で見返す。誰も知らない、家族しか知らないことだ。身内に有翼人がいるなんて。もちろん、突然変異なんかではなかった。人と有翼人の間に生まれたから、ルシフには片方しか翼がないのだ。その翼もなければ人の中にも入れたろうに、空に憧れ続けるルシフはその翼を守り続ける。そしてそのルシフの外見は、人の中に入るにはあまりに透き通った純粋な美しさを持ちすぎていた。
「あんたなら、ルシフを一人にしないかと思ったんだ、あの時。なのに」
少年の身勝手な言葉がガロードの胸に刺さった。
あの日、少年のことは帰しながらルシフはガロードのことは追い返さなかった。ガロードが一カ所に居着かない類の人間であることは少年にも分かった。それでももし、ガロードがルシフを孤独から引っ張り出してくれるならそれでよいと思った。
片翼しかないルシフは有翼人の中に入ることもできない。片翼があるルシフは人にもなれない。どちらにも属することができず、そしてあそこから出ることもできない。血のつながった家族にさえ存在を否定されるように生きているルシフ。美しい有翼人だったというルシフの母がいればまだ良かったのかもしれない。
ガロードはルシフの一つ一つの表情、言葉、眼差しを思い返す。ふとそれが、諦めから来ているものだったのかと感じた。諦めることなど、何もないだろうに。
「お前達は家族なのに、ルシフを一人にしているのか」
責めるつもりはなかった。責める筋合いはなかった。ガロードの言葉に少年は顔を背けた。母は、ルシフを認めない。父はそんなルシフがせめて人の中に入りどこかの養子でもよいから暮らせるようにと、ルシフから翼を奪おうとしたことがあった。それがどれほど残酷なことか知りながら。空に憧れ続けるルシフはそれを拒み、逃げたのだ。
少年との話から戻ったガロードの思い詰めた表情に仲間達はぎょっとした。どういう知り合いだったのかと少年の方をうかがうが、そちらはそちらで難しい顔をしている。
「おい、ガロード?」
「……そろそろ潮時か」
呟くようなガロードの声に仲間達は顔を見合わせた。いついなくなってしまうか分からない仲間。それでもできることならずっと一緒にいて欲しい仲間だ。
「行くのか?」
「さあな。親父、食いもん適当に詰めてくれ。持って帰る」
* *
夜遅くなってから姿を見せたガロードに、ルシフは驚きながら呼ぶ声に応えて姿を見せた。いつもよりも難しい顔をしている。
「ガロード?どうしたんだ?」
「……確かに、痩せたよな」
言いながらガロードが渡したものにルシフはきょとんとした顔になる。いっぱいに料理のつまった箱だった。どかっと地面に座りながらガロードはルシフの細い腕を引っ張って隣に座らせた。
「一人で食ってもうまくない。つきあえ」
「……何か偉そうだなぁ」
怪訝そうな顔をしながらそれでもルシフはガロードの渡すものを口に入れる。素直においしいと言って顔をほころばせるのを見てガロードは気づいた。最初はルシフは自分に表情など見せようとしていなかったのだ。それが今、これ程素直な顔を見せている。
「……よし、やっぱり決めた」
「?」
口をもぐもぐさせながらルシフは首を傾げる。その無邪気な顔にガロードは苦笑いになってしまった。ここでどんなことをルシフに話して聞かせただろうか。他では今まで話す気にもならなかったことまで話した。失敗談も、思い出したくもない話も、楽しかったことも。本心をさらけ出す出さないもなく、ルシフの前でガロードは何も隠すことがなかった。素のままで、ありのままでいられた。
「変な奴だよな、お前」
「何だよ、やぶからぼうに」
「そんなに、空がいいか」
「手に入らないと思うからどうしても手を伸ばしたくなるんだ。あの崖もそう。あそこから飛び降りれば、さすがに飛べるかと思った。でもあの高さじゃだめだった」
「……何を考えている?」
「内緒だよ。きっとガロードでも怒るから」
ルシフはくすっと、楽しそうに笑った。
* *
町中を歩いていくその姿に誰もが振り返り唖然とした。あまりに堂々としていて、とっさに声も出なかった。だいぶ遅れてざわめきが起こり、騒ぎになっていく。これ程堂々と出られては見せ物小屋も何もあったものではない。
町を囲む森の方から来た少女の背には、一つだけ翼があった。片翼の天使と、町の人々の声は広まっていく。それほどに目を奪われる美しい姿をしていた。
その声を聞き、少年は飛び出した。その後を、その父も追う。少年は片翼の天使、ルシフを目にした瞬間父が口にした言葉を聞いた。彼は娘の名を呼ばなかった。それはきっと、ルシフの母の名。
ルシフの足はまっすぐに、城に向かっていた。
城の中でガロードは騎士隊の隊長と向きあっていた。いつまでと決めて雇われていたわけではなかった。それでも急すぎると申し訳なくは思ったものの、呼ぶ声には抗えなかった。旅の空が、ガロードを呼んでいた。ガロードもまた、空に魅入られているのかもしれない。
その城の中までは町の騒ぎは聞こえてこない。いつもよりもにぎやかだという程度で。
「ガロード……いつまでもいるとは思っていなかったが。それでもこのまま残ってくれると、期待してしまっていた」
「申し訳ないとは思っている。だが、ここはオレの居場所じゃない」
「……その居場所を見つけたということか」
「?」
「顔が変わった。ここに来た時から比べて。ここではお前は一度も本気を出したことがなかったな。確かに、それでは居場所にはなれない……残念だが、引き止めることもできないだろうな、その顔では。いずれまた会うことを楽しみにしよう」
隊長の言葉に、ガロードは驚きを隠せなかった。雇われているに過ぎない自分のことまでそれほど見ていたのか、と。顔に出たのか、隊長が口元に笑みを浮かべる。
「思ったことを顔に出すのも、初めて見たな」
隊長が言い終わるのを待っていたかのように、勢いよく部屋の扉が開けられた。ノックもないその不作法に顔をしかめるが、隊長はただごとではない様子に微かに眉をひそめた。
「何事だ」
「し……城の塔に。西の塔に……」
息を切らした使いの少年の言葉に隊長とガロードは顔をしかめ、窓の外を眺めた。城で……いや、この辺りで一番高い西の塔はこの部屋からも見ることができる。
目をやった瞬間、二人とも目を見開いた。
西の塔の上、頂の上にある鉄の棒の上に人影があった。夕暮れ時。赤く染まった景色にシルエットは片方だけ翼を広げていた。
「ルシフ……っ」
思わずガロードは叫ぶ。あの崖よりもあの塔はさらに高い。城を建てた誰かが、沈む夕日をいつまでも追い続けようとどこまでも高くしたのだと言われているように。それを誰も疑わないほどに。
「やめろ、ルシフ……!」
そこまで、空を飛びたいのかとガロードは見つめる。空に抱かれたいかと。だが、片方しか翼のないルシフを空は抱き留めてはくれない。
反射的に部屋を飛び出していくガロードを驚きの目で見つめ、それから騎士隊の隊長は息を切らしている使いの少年を起こした。
「城内にいる隊員を集めろ。ガロードを手伝うのだ」
* *
ルシフは沈んでいく太陽を見つめ、そして夜がゆっくりと訪れる空を仰いだ。青空も、夕日の赤い空も、そして夜の暗い空も、朝方の白い空も、自分を受け入れてはくれない。飛ばせてはくれない。
それでも、少しでも飛んでいる気になれるものなら、それで最後でもよかった。何もないのだから。もう、失うものは。自分しかいないのだ。自分しか持たないのだ。自分がなくなればそれで終わり。自分につながるものは何一つない。ガロードも、きっともう行ってしまう。
町中で、父がいた。多分、あの人が。けれど呼んだ名は、自分のものではなかった。
ルシフは細い棒の上に立ち、そのまま身体を空に預けた。受け止めてはくれない、抱き留めてくれない空に。片方しかないこの翼は、空をうまく抱くことができないから。
景色が早く流れていく。風が強く顔に当たる。飛ぶのはこういう事ではないと知っている。まだ小さい頃、抱いてもらって飛んだことがあるから。風は優しく撫でてくれるものであり、そして景色は目で追えるように緩やかに流れる。早く飛べばそれも違うのだろうけれど。やはり自分だけで飛ぶという感覚すら得ることはできないのだ。
「ルシフ!!」
叫び声に、目を下に向けた。目を覆いたくなる勢いで近づいてくる地面。そこにガロードがいる。ぶつかりそうな場所に。危ないから避けてと言いたくても、風の強さに口が開かず声も出ない。泣きたくなった。
ガロードの周りにいつの間にか、仲間の騎士達がいた。受け止められるものではないかもしれない。普通なら。それでも、何かできるかと彼らは手に手に大きな布を持ち、下に積み重ね、そしてさらに大きな布を広げて受け止めようというようにそれを広げている。
ガロードは驚きながらそれを見た。そんなことをしている余裕があるほどに高い塔からルシフはいとも簡単に、その身体を宙に預けてしまったのだ。
「どうして……」
「お前が大事だというのなら大事なんだろう。あの片翼の天使だろう?お前を変えたのは」
「変わった……」
ガロードは呟きながら落ちてくるルシフを見上げる。どこにも根をおろせない自分だと思っていた。それでも、根は下ろさなくともあちこちに帰る場所はできているのかもしれないと。
けれど、とガロードは落ちてくる小さな影を見上げる。ルシフには。ルシフは帰るところも何もないと。きっとルシフ自身がそう感じ続けている。だからあれほどに刹那的で無頓着で。
騒ぎを聞きつけたというよりもここにルシフが入ってくる時に騒ぎになり集まってきた町の人々が門の前に押しかけているようだった。そこをかき分け、押さえつける守衛に抗う顔にガロードは気づく。ルシフの姉弟だといった少年。
ガロードは仲間達が広げている布の上に乗った。慌てて仲間達はそれを抑えようとする。人が受け止められるものではない。だがガロードは振り返りもしなかった。大きくその手を広げる。空の代わりにその身体を、全てを抱き留めようというように。寂しい心までも。
* *
風が吹いた。下から上への上昇気流と、それを抑えるような横向きの風と。複雑な風が吹く。一つの意志を持っているかのように。
大きく開いたルシフの片翼がその風を受けた。勢いが一瞬止まる。バランスの悪いままに受け止めたはずの風は、その複雑な動きのために片翼であることでかえってバランスがとれるようだった。
勢いを止められたルシフは驚きに目を見開き、そして広げられた手の中にふわりと落ちた。地面は柔らかい布が重ねられ、その重みを受け止めるようだった。奇異の目ではなく、安堵の目に囲まれていることに気づく。
「…………」
呆然としているルシフの身体を、その細いからだが折れるほどに抱きしめたガロードは、気がすむと思い切り怒鳴りつけた。
「この、大バカヤロウ!」
「……」
目を見開き、ルシフはガロードを見つめる。父は自分の名を呼びはしなかった。町の人は遠巻きにして近寄ろうとはしなかった。自分が通り過ぎるのを、近寄るのを恐れるように誰も止めようとはしなかった。
「まったくなぁ……人がやっと決心したっていうのに目の前で壊されるところだった」
改めて西の塔の上にのぼり、並んで座ったルシフにガロードはため息混じりに言う。どこよりも空に近い塔からは、こぼれてきそうな星が見える。まるで手を伸ばせば届きそうなほどにここは空に近い。
「決心?」
「もういい。お前なんか知らん」
「嘘。ガロードもういいって思ってないでしょ。何?気になる」
結局あの後、ルシフは見せ物になったようなものだった。騒ぎが一通り落ち着くと、飛べない片翼の有翼人は町の人たちの好奇の視線を浴びることになった。それはまるで、見せ物小屋に入れられているのと変わらなかった。そこから解放してくれたのは意外にも城の方だった。ガロードのことを一応は認めていたらしく、ガロードが守ろうとしたのだと城の門を閉ざしたのだ。そして、既にやめてしまっているガロードとルシフにとりあえず落ち着く時間を与えてくれた。
「オレは、ここを離れる」
「うん」
それは感づいていた。頷くルシフにガロードはため息をつきながらがしがしと頭をかいた。
「そんなに空が欲しいなら、オレのを分けてやるから。……でもお前は、空には受け入れられたんだよな。もういらないか?」
空は片翼の彼女を拒絶していたわけではなかった。空を求め続ける少女を空は否定しなかった。
けれどルシフはそのガロードをじっと見つめる。
「だめ、あたしは両方欲しい。ガロードの空も、もらう」
言ったルシフは逃げるガロードの目を追いかけ、まっすぐに目を合わせるとこれ以上ないほどに嬉しそうに笑った。