第五話
そこはただ、闇に包まれていた。他に何かが存在しているとは思えない雰囲気のみが周囲に拡散し、それでいて存在するものを強調するかのように収束もしている。
「――奴は、始末できたのだろうな?」
響き渡る声。
それほど大きなものでもないが、明瞭な、確固たる意志を持つ声だ。それも、男性の。
「――それが……」
応じる声。
先程とは別人の声だ。こちらもまた、確かな意志を持ったはっきりとした声をしている。
「――邪魔が入ったとでも?」
「……はっ」
問いに、肯定の声。
一切の視覚情報が得られない場所にいるというのに、その二人に動揺はない。むしろ、それが当然の如くに会話をしていた。いや、それが常なのだろう。そうでなければ、その場の雰囲気に呑まれてしまうはずだ。
辺りに満ちている空気は、普通ではない。ある種の力を持った、邪気とでも言うのだろうか、そういった類の気配が充満しているのだ。普通の人間ならば発狂していておかしくはない。
その中にいるにも関わらず、二人は平然と言葉を交わしている。
尋常ではない。
「……『アズライル』が干渉してきました」
「アズライル……奴めが動いたというのか」
何かを思案するような声。
邪気が濃くなったように思われた。
「――如何致しますか?」
「奴らの行方の方は?」
「アズライルは不明ですが、もう一方の者ならば、そう遠くへは行ってはいないはず」
「そうか……」
再度、思案するような声が続いた。
「――まずは、奴を始末する事を優先させよ」
「……はっ」
応じる声と共に、その場から一つの気配が薄れていった。どうやって入ったのか、どうやって出て行くのか、様子すら見えない。
そんな中、残された者が含み笑いの混じった溜め息を漏らした。
「……奴を始末しようとして、アズライルが干渉したのであれば――」
――アズライルを誘き出す餌にもなるという事だ。
既に日は沈んでいる。
テントが組み上がり、ヨハネスは皆から少し離れた場所で一息ついていた。予想以上に体力を使ってしまったらしい。やはり倒れていたという事で、ボロボロだった身体がまだ回復しきっていないのだろう。
加えて、左手だ。
テントを組むのにものを掴んだ際、左手に力が入らない。小指が切り落とされている影響だと考えてまず問題ないが、右手の力とのバランスが取れない。
(……何があったんだ、俺に)
思案を廻らせながら自分の左手を見つめる。
「どうした、ガキ」
ふと、背後から掛けられた声に首を回して視線を向ければ、そこには今までヨハネスをこき使っていた大男がいた。
「そっちこそ、俺なんかに構ってる暇があるのか? 俺と違ってあんたには友人だっているはずだろ?」
少しだけ挑発的な、それでいて自虐的な言葉を返す。
「飯だ。離れていると貰えねぇ事もあるんだ。覚えておけ、二度とは言わんからな」
何か文句でも言われるのだと予測していたのだが、そうでなかった事にヨハネスは拍子抜けした。
「あ、そう。解った、行くよ」
食事が貰えないのは困る。素直に応じ、ヨハネスは立てた左膝に左手を乗せ、支えにして立ち上がった。
「ん? お前その左手……」
小指がないのに気付いたのだろう、大男が眉間に皺を寄せる。
「理由は聞くなよ。俺も解らないんだ」
それにそう応じると、ヨハネスは食事を得るために皆が集まっている場所へと歩いて行った。
食事を受け取り、腹に納める。砂漠の真ん中で気が付いた時の、酷く餓えていた感覚がまだ鮮明に身体に残っているのか、飯が非常に美味い。質素なものなのだろうが、食事があるというだけでも幸福なものなのだと実感する。
(――俺は、何をしていたんだ?)
食事を取りながらも、やはり考えが向かうのはその事だった。
左手の傷痕もそう古いものではない。つまりは、記憶を失う直前か、その少し前までに負っていたという事になる。
考えても仕方がない事だと解っていても、考えずにはいられない。自分が何者で、何をしていたのか、それが解らない事に酷く不安を覚えている。周囲の人間だけでなく、自分自身でも己を気味悪く思っているところすらあるのだから。
(……そういえば、ここの者達は何処へ向かっているんだ?)
自分の事を考えるのを止めるために、他の事へ意識を向ける。
気が付けば、自分の事ばかり考えていた。少しは周りの事も見つめなければならないだろう。自分の事を思い出す手がかりになる可能性もゼロではないのだ。
(アルディア、だったよな。彼女は何の目的でこんな旅を?)
周りの状況だけでなく自分の事すら解らなかったヨハネスには、その答えを推測する事すらできない。今いる場所が掴めず、目的地を聞いたところでそこがどこだか解るはずもない。
アルディア本人から聞ければ解る事だが、周りの人達の様子を見るに、どうやら身分がかなり高いらしい。下手に声をかけようものなら、あの大男が言ったように首を斬られかねない。
(結局打つ手なし、か……)
そんな結論に至り、ヨハネスは、小さく溜め息をついた。
自分を探すために旅に出ようにも、位置の掴めない砂漠という、現在地が悪過ぎる。せめて生活ができる街に辿り着いてからでなければ、道も解らない。あてもなく放浪してものたれ死ぬだけだ。
後は流れていく時間に身を任せて、何か自身に対して影響を与える事象に出会うか、その中で道を模索するしかないだろう。どの道、今、この瞬間にヨハネスができる事と言えば食器を片付けて眠る事ぐらいしかない。
砂漠の夜は想像以上に冷え込むものだ。テントの中で毛布に包まってさっさと眠った方がいいだろう。
暗い夜空に浮かぶ三日月を一度だけ見上げて、ヨハネスは自分の寝場所としてあてがわれているテントの中に入った。
ヨハネスにはその三日月が、蒼く見えた。
他の者達よりも少しだけ豪華に見える食事を受け取り、アルディアは口に運んでいた。いつもよりも美味しいと感じているのは、ヨハネスの出現が確実にアルディアの心境に何らかの変化をもたらしたからだろう。
今までは旅が憂鬱だった。希望など何も見い出せず、ただその日その日を惰性で生きていくのだとすら感じていたのだ。
だが、そこに現れたヨハネスはアルディアの興味を引いた。
まずは自分自身が彼の存在を探知した事によるだろう。魔力や霊感とでもいうのであろう、普通の人間にはない感覚を持っているアルディアが、その力で感知したのがヨハネスだ。ヨハネスに何を感じてアルディアの力が働いたのか興味がある。
元々、アルディアの持つ先を『視る』という力は、自分の意思では使えない。自分の身に危険が降り掛かる直前に『視え』た事が多く、それ故に今まではそれが自分の身を守る力だと思っていた事もある。未来予知ができた人間のほとんどは、自分に関わる事象のうち、危険度が高い場合にそれを回避する術として『視る』事ができたらしい。
だとすれば、ヨハネスはアルディアの身に危険が及ぶ時に何かしら関わってくる存在なのかもしれない。
そう考えれば、興味が湧かない方が不思議だろう。
次にヨハネスの状況だ。何も解らないと言う彼は、急にその場所に飛ばされたとでもいうかのような装備で砂漠に立っていたのである。その地点に辿り着くまでには、アルディア達も一週間以上は旅が必要だったし、目的地に辿り着くまでにも同等か、それ以上の距離があるのだ。ヨハネスのいでたちではまず、そこまで辿り着く事は不可能なのだ。
そして、不審点ばかりが目立つ中で、ヨハネス自身は狂乱したような人間ではなく、しっかりと物事を考えて行動しているようなのである。助けられ、落ち着いた、という説明もできるし、記憶喪失のために性格が変わってしまった、とも言えなくもない。
ただ、それほど悪い人間には感じられなかった。
(……話をしてみたい)
正直に、そう思う。
だが、周りの者達やティラの目がある所では中々そういった機会は得られないだろう。身分など、どうでもいいのに。
「退屈だわ……」
周りにいる誰にも聞かれる事のない小さな声で、アルディアは呟いた。
心境の変化はアルディアの心に余裕をも蘇らせたらしい。興味を抱いた存在がいるというだけで、惰性で、何も考えずに過ごしていた時間が『退屈』だと感じるようになった。
彼と接してみたい。
「……如何なさいました?」
表情の変化を読み取ったのか、ティラが歩み寄って来た。
観察力が良過ぎるというのもアルディアには少し迷惑に思えて仕方が無い。少しは自分一人の意思で周りを気にせずに動いてみたい。
「何でもないわ。それよりヨハネスの様子はどうでした?」
「たった今、テントに入って眠り始めたようです」
「……そうですか」
ティラの返答に、アルディアは溜め息をついた。
夜中に話ができるかもしれないと思っていたのに、早々に眠ってしまったらしい。昼間の労働が堪えたのだろうか。いずれにせよ、ヨハネスと会話をする機会は今夜中にはなさそうだ。
「はぁ……。――?」
溜め息を着いて空を見上げた瞬間、視界が揺らいだように見えた。
「アルディア様……?」
ティラの言葉はアルディアには届いていなかった。いや、聞こえていたとしても、話してどうにかなるような事ではない。それに、具体的に何かが『視え』た訳ではなかったのだから。
「――……気のせい、かしら? 冷えてきたようだし、私も眠るわ」
違う。それも何かの予兆なのだ。アルディアはティラにそう言い、テントへと入っていった。
ただ、一つだけ解るのは、ヨハネスの時とは違う感覚であったという事だけだった。
どうも、白銀(W1595A)です。五番手をさせていただきました。
普段、一話というよりも「一章」という形で区切って執筆をしているので、長くなり過ぎたような気がします。冒頭部分でもやりたい放題な事をしてしまったので今後どうなっていくのか楽しみです(笑)