第四十一話
「ふむ……」
立ち上がったメフィストフェレス――もとい邪神――は、自らを睨み付ける面々を見渡し、下卑た嗤いを浮かべる。
ヨハネス、アズライルは腰を屈め、いつでも飛びかかれると言わんばかりに。ウェレとイマナは後ろのアルディアとシスルを守る様に立ちはだかり、エルスとプシュケは特に何をするでもなく突っ立っている。
「……貴様達は、まだ私との力の差に気付いていない様だな」
フン、と鼻を鳴らし、邪神は右手を空高く掲げ、
「ひれ伏せ。愚民」
勢い良く降り下ろした。
次の瞬間には、まるで重力が増した様に、ヨハネス達がその場に倒れ込んだ。
「なッ、に、ィ……!?」
グググッ、と立ち上がろうとするアズライルだが、身体が重くてそれは叶わない。他の仲間も同じ様に倒れたまま、起きあがろうとしている。
「隙だらけだな。殺して欲しいのか?」
嗤いながら、邪神が一歩、また一歩と、ゆっくり近付いていく。まるで、断頭台のロープを斬る処刑執行人の様に。
「地べたに這い蹲り、死を待つだけの虫螻が。私のバリアをたった一度破壊しただけでいい気になるなよ」
互いの距離は、およそ一〇メートル。少しずつ少しずつ、邪神は距離を詰めていく。
サクッ、サクサクッ。
不意に聞こえる小さな音に、邪神は首を傾げてその方向を見やる。
「これで少しは身軽になりましたね」
音の主、そして声の主は、プシュケだ。
誰もが立ち上がれない現状で、一番小柄な少女だけが立ち上がっていた。目を剥き、驚きを隠せない邪神だが、それはヨハネス達も同じ事だ。
「驚く事はないでしょう。普段から三〇〇キロ強の装備を担いでいる私にとって、こんな超重力はないに等しいです」
革のベルトを素肌にに巻き付け、『着ている』少女は、全ての武器を放棄している。今の彼女は丸腰だ。
にも拘わらず、その小さく形良い口元には、笑みさえ浮かんでいる。
「今の重力は、通常の三倍と言ったところですか?アズライル。貴方の体重はどれほどですか?」
「……六〇ぐらいだ、確か」
「だとすれば、今の貴方には一八〇キロの気圧が降り懸かっています。慣れない者には動く事すらままならないでしょう。しかし――」
歩みを止めた邪神に振り返り、プシュケは超重力をものともせずに優雅に歩を進める。
「私の体重は三四キロ。つまり今は一〇二キロ程度です。動くに何不自由はない」
邪神に近付き、バリアに阻まれるまでに接近する。バリアに手を添え、中で守られている邪神を見据え、言う。
「軽いんだよ、アンタ。醜くてつまらない力だ。まだマナフやチコの方が華麗な強さを持っていた」
ベロリと舌を出し、見えない壁を舐める。愉悦に満ち、乱暴な物言いでプシュケは続ける。
「潰すよ、アンタの幻想を。現実なんかに浸ってないで、さっさと消えろ」
コツン、と。プシュケは右の爪先で地面を蹴った。すると弾かれた様に、レザーブーツの踵から、勢い良く、刃の短い柄なしのナイフが飛び出してきた。
後ろ手にそれを掴んだプシュケは、柄のないナイフをバリアに突き立てる。が、その手がバリアに弾かれる。
「普通に戦ったんじゃダメだ!」
ウェレが叫ぶ。プシュケはニタリと咲い、右足に力を込めて左に飛ぶ。
「フン。だったらどうだと言うのだ?」
邪神は右手を掲げ、プシュケに向ける。圧縮された黒炎の弾丸が音速で飛び出し、プシュケを襲う。だがプシュケは垂直に飛び、これを回避する。
空中で、口に含んでいた吹き矢を邪神めがけて放つ。バリアに弾かれると同時に、煙幕が立ちこめた。
屋外という事もあり、煙幕は十数秒でかき消える。だが晴れた視界に、プシュケの姿はない。
「シュッ!」
背後に回り込んだプシュケはバリアと地面の間にナイフを差し込み、力任せに上に裂く。脆い部分を狙われたバリアは、ほんの僅かに裂け目を見せた。
「小癪な!」
邪神の、振り向き様の黒炎弾。足下を狙われたのが幸いした。ナイフを空に放りながらバック転の要領で避け、着地したプシュケは落ちてきたナイフを取った瞬間にバリアの裂け目に飛ばす。
ガキィ!という音を響かせ、ナイフは空中で止まった。どうやらバリアの再生によって、隙間にはまったらしい。
(まずは仕込み……あと二手)
プシュケは冷静に判断し、左の爪先で地面を蹴り、踵から飛び出すナイフを取り、しゃがみ込む。
「貴様の攻撃なぞ届かんわ!」
「さぁ。それはどうかな」
互いに不敵に笑い、身構える。一触即発の空気が流れる。
「兄さん、ウェレ!加勢してあげてくれよ!」
超重力により動けないままのヨハネスが叫ぶ。
だが、アズライルとウェレは同時に首を横に振ったその動作すらも苦しげに。
「悪いな、ヨハネス。俺の空間移動じゃ邪神のバリアの内側には進入できないんだ。あれはかなり強力な結界だ」
ウェレは囁く。あくまで気付かれぬ様に、虫が鳴く様に小さく。
「だ、だったら、兄さんは……。兄さんの剣は距離に関係なく伸縮自在なんでしょ!?」
「今はダメだ」
「どうして!?」
「ヨハネス。あまり大きな声を出すな。邪神に気付かれる」
アズライルはヨハネスを戒め、押し黙ったのを確認して会話を続けた。
「あの子は何かを狙っている。恐らくは邪神の防御を破壊する何かを」
ギリッ、とアズライルは歯を噛み締める。今は何も出来ず、そのせいで幼い少女を危機に晒している。そんな自分が赦せないのかも知れない、とヨハネスは漠然と思う。
「フッ!」
ガキィ!と音が響き、ヨハネス達はプシュケに視線を移す。
同じ要領で、プシュケがナイフをバリアに刺していた。先刻のナイフとは対角になる様に。
「当たっていないぞ!」
黒炎の弾丸がプシュケを襲う。それを横に飛ぶ事でかわしたプシュケに、二発目が飛来し、直撃した。「キャン!」と悲鳴を漏らし、プシュケが吹き飛ぶ。空中で体位を変えて屈みながら着地したプシュケの腕には、見るに耐えない火傷が見えた。
(腕部を負傷。大丈夫……この程度なら!)
両腕を振るい、ギュルンと腕の皮膚が蠢く。刹那の間に火傷は跡形もなく癒えた。
キュロットのポケットから錠剤を取り出したプシュケは口に含み、噛み砕いて飲み込む。
急速に痛みがなくなる。感覚神経が完全に麻痺し、地面を踏んでいる筈なのに、空に浮いている様な奇妙な感覚。
マイナートランキライザー。精神神経用剤とも呼ばれるこの薬品は、アポプロンやフェノバールを主成分としている。中枢神経に作用し、鎮痛・抗不安・抗痙攣などの薬理作用を及ぼす。
「フゥ……」
薬石無効の能力により代謝を活性化したプシュケは、薬理作用がいち早く及ぶ。歪んだ嗤いを浮かべたまま、
「何となく、考えていた」
邪神に向かって走り出す。
「外側の攻撃を一切遮断する貴方の防御がある筈なのに、どうして内側から外側に対しての攻撃は通るのか」
黒炎が飛来するが、プシュケはこれを飛んでかわす。
「剣よ!」
空中で叫び、地面に捨てたままだった、二メートルはあろうグレートソードが空に浮かび上がり、プシュケの手に収まる。
そのまま、
ガン!と。
バリアの上に降り立ち、グレートソードをバリアに突き立てる。
両サイドに突き刺さったままだったナイフから直線的に、グレートソードまでヒビが入る、鉄壁のバリア。邪神の表情が強ばり、丁度笑っている様に見える。
「これは私の仮説。黒炎を放つ時、その大きさの『穴』がバリアに開けているんじゃないの?」
ピシピシ、とバリアのヒビが更に深くなる。プシュケはにやけた様に嗤う。
エルスが殺す者なら、プシュケは生かす者。
エルスが冷なら、プシュケは熱。
プシュケは、嗤う。熱狂し、熱烈に、熱意に溢れ。熱源は熱血し熱願する様に熱気を帯びた双眸。それは熱砂の様に熱く熱情的に熱心に熱誠に満ち、まるで熱戦を凱しむかの如く。
「どうしたの?撃たないの?ヒビ割れたバリアじゃ、加算重力によって四〇〇キロ以上になったグレートソードを受け止めれるとは思えないんだけど?ホラ、さっさとしてよ。違うのかどうか見せてみてよ」
嗤いながら、それでも苛々した様にプシュケは急かす。
「なっ、くぅ……!!」
真上に右手を掲げ、しかしそれでも邪神は黒炎を撃たない。否、撃てない。
動く事もままならない。絶妙なバランスで保っているバリアが割れ、四〇〇キロもの剣が落ちるより先に避けられるとも思えない。
撃てば、死ぬ。
動けば、死ぬ。
待てば、死ぬ。
ジレンマが邪神を襲う。
今もじわじわと、ヒビは大きくなっている。
「決定的……ですね。仮説が間違っていた時の為に感覚神経を消したというのに、ガッカリですよ」
ゴンとバリアを蹴り、突き立てているグレートソードに力を込める。その口調は、皮肉の混じった敬語に戻っている。
「さて。そろそろ寝たきりなのも飽きたでしょう。――ねぇ、アズライル」
「待ってました、とでも言えばいいのかな、マドモアゼル」
ギクリ、と。邪神は反射的に振り返る。
超重力により、ひれ伏したままだった、トリスメギストス最強の攻撃力を持つ男を。
男の右手に青白い光が灯っているのを。
「なっ ちょ っと、 待 て 。 まだ 私は ァア、 !!」
青白い光は瞬く間に剣へとその姿を変貌し、蛇の様に地面を真っ直ぐに走る。迸る光は眩しく、邪神は思わず両手で目を覆う。
「チッ。なンだよなンだよ。素敵に最ッ高に格好イイじャねェかよ、プシュケ」
ひれ伏したまま、エルスは獰猛に嗤う。いつもは猛禽類を彷彿とさせる両目だが、今はただ優しい光を帯びてプシュケの姿を捉えている。
やがて。
アズライルの光の剣が邪神のバリアに達し、
バリアと地面の隙間、唯一脆い部分に滑り込み、
パリン、と。ガラスが割れる様な音が響き、絶妙なバランスを取っていたバリアは、粉々に砕けた。
「そんな、バカな!」
邪神は、何かあり得ない物でも見た様に、愕然と叫ぶ。
「それでは。オゥルボア(さようなら)」
増幅された重力に逆らう事なく、プシュケの小柄な身体が落下し、全長二メートルはあろうグレートソードが邪神の左肩に刺さり、左足まで達して貫いた。