第三十七話
同い年ぐらいの子供が互いに向き合い、地を蹴る。
エルスの足元から地面が連続して爆ぜ、プシュケへと向かって行く。プシュケがそれを避けようと身体を捻り、横に跳んだ。
が、着地の瞬間、プシュケがふらついた。まだ傷が十分に癒えていなためのものだった。
「うっ……!」
自分の力が治療に属する能力であろうと、実際に自分の身体が酷く損傷した経験が無かったのだろう。プシュケは自分の身体が戦える状態がどこまでなのかを把握しきれていなかった。
ふらついたまま、膝を着いたプシュケが愕然とする。自然に傷口へ手を当てれば、傷口が開き掛けていた。
「ッらァあ! 何呆けてやがンだよォ!」
エルスの声。
プシュケが顔を上げた瞬間には、既にウィネが目前に迫っていた。膝を着いた状態からは回避不能。
プシュケが直撃する事を覚悟した瞬間だった。
「――黙れ――!」
凄まじいまでの気迫。
それと共に真横から飛来した閃光がウィネを両断し、掻き消した。
「!」
エルスとプシュケの視線が向かった先には、右掌をかざしたアズライルが立っていた。
「今は貴様等の喧嘩に付き合ってる暇はないんだ」
有無を言わせぬアズライルの口調。今までプシュケやエルスが見てきた誰よりも鋭過ぎる視線。殺気すらも貫くような、気迫。
「戦いがしたいのなら二人まとめて地獄に送ってやっても構わん。敵になろうが味方になろうが知った事か」
一歩、踏み出したアズライルに、プシュケは座り込んでいながら後ずさっていた。
イマナと戦っていた時とは比べ物にならない程に緊張しているのが解る。冷や汗が止まらない。呼吸すら、し難く感じた。
「貴様が望むならもう一度イマナと戦わせてやる。喧嘩の続きもやればいい。だがな、の前にオスティスの傷を癒してもらう」
アズライルの言葉に、プシュケは動く事ができなかった。
「な、何で――」
「貴様に拒否権はない」
反論しようと口を開いた瞬間、アズライルが言い放つ。
エルスですら、何も文句が言えずにいた。見やれば、目を剥いてアズライルを凝視している。だが、その腰は明らかに引けていた。プシュケと同様に。
「解ったら早くしろ!!」
その言葉に、プシュケは反射的に立ち上がっていた。いや、立ち上がらされていた。
「て、てめェ……――っ!」
ようやくエルスが何か言おうと口を開いた瞬間、アズライルはエルスの胸倉掴み、壁に背を叩き付けていた。大人、それも長身のアズライルとまだ子供の域を出ないエルスでは体格が違う。エルスの両足は地面から離れていた。
「貴様が提案した事だ。忘れたとは言わさん!」
目の前で言葉を叩き付け、アズライルは手を離す。
どすん、と音を立ててエルスが尻餅をつき、黙り込んだ。
「……珍しいな、お前があそこまでキレるなんて」
唯一人、アズライルの言動に驚いていないのはウェレだけだった。
プシュケやエルス、アルディアは勿論の事、イマナでさえも目を丸くしていたのだ。
「時間を無駄にしたくない」
溜め息交じりに呟いたアズライルは冷静さを取り戻していた。
「……私がここで赤獅子を殺そうとするとは考えないのかしら?」
「ああ、お前の攻撃手段が物理的なものである限り、俺が逸らすから問題ねぇよ」
ヨハネスの傍にまで歩み寄ったプシュケの問いに、ウェレが即答した。
ヘルメスとしての力が治癒能力しかないプシュケには、攻撃は武器に頼るしかない。武器、つまり物理的なもので攻撃する限り、ウェレの能力で逸らす事ができる。
「ま、それ以前にアズライルに気合負けしてんだからそんな気も起こらねぇだろうがな」
溜め息交じりに呟いたウェレに、プシュケは顔を伏せた。
数瞬の間躊躇っていたものの、プシュケは屈み込むとヨハネスに両手をかざした。その両手が仄かに紅く輝きを放ち、ヨハネスの傷を癒し始める。
「私は、この力が憎い」
「え……?」
プシュケの呟いた言葉に、アルディアが首を傾げた。
「……あの時、この力にはもう目覚めていたのに、誰一人救えなかった」
自然と、プシュケは語り始めていた。
語る気など一つもなかったというのに、堰を切って言葉が溢れ出す。仲間が皆、いなくなってしまったからなのか、エルスが離れてしまったからなのか、プシュケ自身にも解らなかった。解ってくれる人などいないと思いつつも、どこかで誰かに聞いて欲しいと思っている。
それが、プシュケには辛かった。
エルスの妹が死んだ夜、プシュケもまた、争いに巻き込まれていた。その時には既にプシュケは力を扱えるようになっていた。治療専門の魔術師の卵として生きていたのだ。その時までは。
プシュケが遭遇したのは、グノーシスに荒らされた城門前。幾人もの兵士が倒れ、血を流していた。そんな中、プシュケは一人、治療を続けていたのである。だが、数も多く、明らかな致命傷を負った者も少なくはない。肩から鳩尾までを引き裂かれている者も、上半身と下半身が皮一枚で繋がっているような者もいた。
そんな中で、治療を続けたところで何にもならない。幼いプシュケにはそれが解らなかった。ただ、治癒の力が使えるというだけで、誰でも救える気になっていたのだろう。だからこそ、一人で治療しようとした。だが、結果として、誰も救えなかった。
それにプシュケは絶望したのだ。
「それは傲慢だな」
「……!」
アズライルの放った言葉にプシュケが顔を上げた。両の目から涙を流しながらも見上げたプシュケが見たのは、冷淡なアズライルの視線だった。
「アズライル……!」
アルディアがその言葉を咎めようとするのを目で制し、アズライルは口を開いた。
「お前が自分の力で救えたと思っているのなら、それは間違いだ。その頃のお前にも今のお前にも、それだけの力はない」
「なら、赤獅子だって救えないはずよ!」
「違うな。こいつは既にアルディアの治療をある程度受けている。お前の足りない力でも十分に回復できる」
「私の力が、足りない……!?」
「力にも限界がある。お前には、その時、その場にいた全員を救う力は元々無かったんだ。あいつらを救えなかったのは、お前じゃない。俺だ」
「――!」
アズライルの放った言葉に、プシュケは言葉を失っていた。
「いきさつは知らんが、救えなかったから奪う側に回るなんて、筋違いだろう」
それだけ言うと、アズライルは手近な壁に背中を預け、目を閉じた。
「ヨハネスが回復し次第、進むぞ」
目閉じたままアズライルは言った。
「で、結局どうするんだその二人は?」
「勝手にすればいい」
ウェレの問いにそれだけ答え、アズライルが黙り込む。
「なら、俺ァついていくぜ」
エルスは言うと、立ち上がった。
「……私も、私も行きます」
プシュケが呟く。
その二人の言葉に、他の者は何も言わなかった。
異論はない。そういう事だ。
「――裏切りか……」
不意、その場に誰のものでもない言葉が放たれる。サスキアの声ではない。男の声だ。
「まぁいい。どの道、もう問題はない」
「誰だ!?」
二度目の声に、ウェレが叫んだ。
「この声、メフィストフェレスか……」
「流石はアズライル。良く解ったな」
目を閉じたまま、アズライルが放った言葉に、声が応じた。
メフィストフェレスの声。間違いは無い。ただ、妙な点があるとすれば、どこから声が聞こえているのか。それと、今までのメフィストフェレスとは明らかに違う口調。
「……いや、メフィストフェレスではないな、貴様。今も、あの時も」
アズライルの言葉に、周囲の空気に笑い声が零れたような気がした。
あの時、アズライルを王の暗殺者として仕立て上げた時のメフィストフェレスは、今でのメフィストフェレスとは明らかに違った。物腰も口調も、目つきも。
「クク、鋭いな」
「それで、この会話の意義は何だ?」
「いやなに、裏切り者を始末しようかと思ってな」
アズライルの問いに、メフィストフェレスの声が答える。
瞬間、エルスとプシュケの背後に空間の亀裂が生じ、霧のように闇が溢れ出した。
「なっ!?」
ウェレが動こうとした瞬間、アズライルは目を見開き、両手を振るった。刹那、二つの閃光が左右に放たれる。
両手から放たれた閃光の一つが、エルスを迂回するようにして回り込み、背後にあった空間の亀裂を両断する。もう一つの閃光がプシュケの背後に生じた空間の亀裂を裂き、消滅させた。
「ほぅ、中々やるな」
声が笑う。
「貴様、この先にいるな?」
「いるとも」
「解った」
アズライルの確認に、余裕の言葉を返す声。
「……予定変更だ。ウェレ、イマナ、行くぞ」
「おい! 俺を置いて行くッてェのか!?」
「他の者はヨハネスが目を覚ましてから共に来い」
エルスの抗議にアズライルは言い、歩き出した。
「だろうな。この場で奴の攻撃を凌ぎ続けるよりは俺達が先に相手してた方がこっちは安全だしな。ガキ二人は用心しての護衛って訳か」
アズライルの真意を口に出し、ウェレが後を追って歩き出す。
「流石、切れ者ね。即決でそこまで考えられるなんて」
イマナも小さく笑みを浮かべ、歩き出す。
「仲間だと言うなら、役割を果たせ」
アズライルは言い放ち、通路の奥へと消えていった。
その言葉はエルスに向けたものか、それともプシュケに向けたものだったのか。いや、二人に向けたものだったのだろう。三人の背中を見送るアルディアは、そう感じていた。