第三十六話
目を覚ました。そこは天井、壁、床の至る場所に、膨大な剣や短剣が突き刺された、彼女のフィールド『刃界』だった。
(……頭がぼんやりする。血が、足りない)
床に大の字で寝たまま、自らの身体を見下ろす。胸にはバスタードソードが突き立っていて、血塗れだ。そこでプシュケはようやく思い出した。
(あぁ……そっか……)
負けたのだ。ウルギスの姫君と、イマナに。
とりあえずプシュケは上体を起こし、バスタードソードを引き抜く。血は止まっていたが、胸部内に溜まっていた血が吹き出る。
(心拍数は仮死状態ギリギリ。体内の血液滞留により生命維持を優先、と言ったところですか。……痛覚はカットしておきましょう)
野生動物は、生命活動に必要な身体機能の操作が出来る。傷を負えば心拍数を抑え失血を減らし、捕食者に追い詰められ生命の窮地に立てば自ら心臓を止めて仮死状態にする。
もちろん、こんな神業は人間は意識的には出来ない。薬石無効の能力を持ち、なおかつ能力を有効的に利用するプシュケだから出来る技術である。
血塗れの服を剥ぎ、上半身を全て晒した彼女は傷口に指を添える。触診である。
(胸部中心よりやや右の傾斜に甚大なる負傷。……よかった。脊髄は傷ついていない。右の肋骨が四本全て切断されてますが……まぁ、死ぬ様な事はないからよしとしましょう)
もちろん、それはプシュケだから言える事である。常人ならば失血多量で死ぬか激痛によるショック死が待っている。
とりあえずプシュケは傷口を癒しておく。傷は見る見る内に塞がり、跡形もなく消えた。
流石に骨を接ぐのは時間が掛かりそうだ。それに、誰もいない広場だからと言って、いつまでも上半身裸のままというのはあまり気分のいいものではない。
プシュケは広場の片隅に放置していた戦いの『切り札』たる袋を手に取り、開く。
中には。全長三メートル強はあろう、恐ろしく長く幅の広いレザーベルトを取り出し、それを器用に身体に巻いていく。
カチン、と。バックルを後ろ腰で止めれば、ベルトを『着ている』と表現してもおかしくはない、局所だけを隠した何とも奇怪な様相となった。
(……やや不安ですが。これ以外、ありま、せんし……仕方ないか)
エルスと同い年の少女にとっては、かなり抵抗があるのだろう。しかし餓死寸前では草木でも食べなくては死んでしまう。それと同じ事だ。
広場を見渡し、剣を背中に回したベルトに収めていく。実はこのベルト、彼女は鞘として使用している。
収められる場所全てを剣で埋めた時、後ろ腰にバスタードソードが二本、左右の腰にはククリが四本、両脇よりやや下――一番下の肋骨付近に小型の歪刀を左右一本ずつ、背中に斜めになる様に特大剣を一本装備していて、計九本の武器を装備している事になる。
いくら身体能力の高いヘルメスとは言えこれは重量の問題で動きづらいのだが、慣れたプシュケには関係ない。それだけ基礎体力が高いのだ。
(勝負は。互いのどちらかが死んだ時点で決します。私の首を斬り落とさなかった貴女が甘いんですよ、イマナさん)
少女は、『縛砂の地下空洞』を抜ける道を、駆ける。
(勝負はまだついていません!)
口許を歪め、プシュケは笑った。
「あァ!?テッメェ、ふざけんなよ!?あンまナメた事抜かしてッと、五体バラッバラにすンぞコラ!」
「……オーケー。今ここで決着をつけようか」
バッ、と。エルスとウェレは同時に身構え、バックステップで距離をとり、戦闘準備完了。アズライルはその光景を黙って傍観していた。
「ねぇ……あれ、何事?」
ヨハネスを癒すアルディアについていたイマナが顔を上げ、アズライルに訊ねる。
「気にするな。ウェレが『今までの事を謝るなら仲間に入れない事もない。さぁ、頭を地べたにつけて精魂込めて謝れ』とか言い出してな。まぁ、そんなこんなで戦闘が始まった訳だ」
苦笑いを浮かべ、アズライルが説明する。分かっているのだ。それがウェレなりの照れ隠しだと言う事を。
アズライルとイマナの目の前では、とてつもない戦闘が繰り広げられていた。
エルスが一足でウェレの懐に潜り、小さな身体を最大限に生かすアッパー。
それを首を動かして避けたウェレが、引き際にジャブを三連撃放つ。
身体を地に伏せる様にかわしたエルスは、四肢を駆使して横に飛び、着地と同時に再び跳躍、ウェレの背後に回り込んで後頭部めがけてハイキック。しかしウェレはその蹴りを振り向き様に左手でいなし、しゃがみ込んで足払い。見事に体勢を崩したエルスだが、両手を使って倒立し、蹴りを放つ。ウェレの頬に突き刺さり、吹き飛ぶ。
「ハッハァ!どォしたよどォしたよ、どォしたンですかァ!?テメェ、能力なしじャそンの程度かよ!?これだからァ深窓のお坊ッちャンァ嫌ェなンだよ!ちッたァ戦闘不能になりそォな強烈な一撃ォ決めにこいよ!ほらほら、どォしたよ、ァあ!?」
両手をだらりと下げ、エルスはノーガードを主張する。
「んのガキ……泣かしてやる!」
今度はウェレから飛び込み、体重を乗せた拳の一撃を放つ。ノーガードにより反応が遅れたエルスは真っ向から受け、やはり吹き飛ぶ。
「どうした?鼻血出てんぞ、ガキぃ」
ウェレはニヤリと邪悪に笑う。
「ンなろ……ッ!一発マグレで当たッただけで、ナニいきがッてンですかァ!?ヒヒッ、もォ喰らわねェンだよ、バァカ!」
どちらかが攻撃を受けては、どちらかが笑う。壮絶ないたちごっこを見つめながら、イマナは呟く。
「ってか……仲悪いだけじゃないのかしら、あれ」
「……かもな」
二人は同意する。とてもとても苦々しく。
「た、大変です!アズライル様、イマナ様!」
と唐突に、ヨハネスの様子を見ていたシスルが叫ぶ。アズライルとイマナは振り返った。
「オスティ……もとい、ヨハネス様の容態が……ッ!」
「何だと!?」
苦笑いを一変、アズライルはヨハネスの顔を覗き込む。
額に脂汗を浮かべ、歯を食いしばっている。ヨハネスの腹部に手をあてがって治癒していたアルディアは、かなり疲れている。
「おいおい、マジかよ………なァ、どォにかなンねェのかよ!?」
「お前のせいだろうが」
エルスとウェレもいがみ合いを中断し、駆け寄ってきた。特にエルスは、かなりバツが悪そうに。
「大ッ体よォ、なンで容態悪くなンだァ?アンタ癒しの魔術が使えンだろ?」
「はい……ですが、」
限界、なのだ。アルディアの様子には、その場にいた誰もが気付いた。
アンラ・マンユにさらわれた恐怖、後のウェレの治療の疲労、戦闘の強制参加による極度の緊張。これだけの事が立て続けに勃発した。訓練された戦士ならば兎も角、ただの姫君に耐えられる事ではない。
「体力が続かないのも無理はないか」
ウェレが苦々しく呟く。
「すみま、せん……力不、足で……」
「いや。貴女が謝る必要はない。悪いのは全てコイツですから」
「……否定はしないが、テメェ、マジで天上に昇天してェみてェだな」
アルディアが申し訳なく謝罪し、ウェレは人当たりの良い笑顔(敬語)で答え、エルスがウェレを睨み付ける。
「人の弟が死にかけてるってのに、そんなコントをしてる場合か!」
犬歯を剥き出しに、アズライルが吼える。二人は押し黙った。
「ックソ、ちくしょォが……。プシュケの奴が生きてりャァ、話は早かッたンだがなァ……」
「私がどうかしましたか?」
皆の背後から、冷たい声が聞こえた。振り返るとそこには、プシュケがいた。イマナとアルディアは驚愕する。
「な、どうして!?」
「そんなバカな!?」
「貴女達は私の能力を知っていたのではないですか?それともまさか、薬石無効の能力は自身には効果無効だとでも思っていたのですか?」
ただひたすら冷淡に、プシュケは告げる。
「ッと、ちョッと待てや」
エルスが挙手しながら口を挟む。
「お前さァ。なンで、ンな愉快な格好してンだァ?」
愉快な格好とは、上半身に巻き付けているレザーベルトの事である。
「……その質問については黙秘させて頂きます。というか、私からも質問があります。どうして貴方がアズライル一味と一緒にいるのですか?」
プシュケが訊ね返す。
あァ、とエルスは呟き、メンバーを見渡しながら、
「ちィッとばッかし事情が変わッてな。悪りィけど、“闇”は抜けさせてもらうわ」
エルスの言葉を受け、次に驚愕したのはプシュケの方である。
「ほ、本当ですか!?」
その質問は、エルスに向けたものではない。アズライル達にだ。
「う〜ん。まぁ、不本意ながら、そうなった訳だ」
答えたのはウェレだ。イマナが頷き、アズライルは無言のままヨハネスを見下ろしている。
「そこで提案だ。テメェの力を貸して欲しい。赤獅子……もとい、ヨハネスの傷が思ッてたよりもヤバげでな」
自分のせいだというのに、しれっと提案するエルス。
「……私は“闇”の人間です。貴方がアズライル側に回ったという事は、敵です。そんなバカげた頼み、聞くと思っているのですか?」
「……力ずくでも、テメェの能力ァ貸してもらうに決まッてンだろォがよォ」
互いに、冷徹な瞳で睨み合うエルスとプシュケ。プシュケはどこか迷いのある虚勢の様な双眸だが、エルスは心底から楽しそうに。まるで今までの、歪んだ心を持ったエルスに戻った様に思える。
「標的はイマナさんですが……気が変わりました。貴方から処分します」
「ヒ、ヒャ、ハ、ハッ、ハッ!面白ェ事ォ言うなァ!テメェが俺ォ殺すゥ!?ハハッ!最ッ高に愉快じャねェの!?イイねイイね!やッてみろよこンのクソアマ!」
両手を天高く掲げ、ゲラゲラと笑うエルス。彼の人となりを知っているアルディアとウェレは思う。エルスに戦闘の機会を与えるのは鬼門だと。完全に元の殺人狂に戻っている。
「オイ、テメェら。手ェ出すンじャねェぞ!?コイツァ俺の獲物だかンなァ!?」
エルスはプシュケと間合いを取り、叫ぶ。
「ウィネ!」
突如として、エルスの背後で砂漠の砂が弾ぜる。その言葉を聞く度、プシュケは目を伏せる。
「あンまりイキすぎて死ぬンじャねェぞコラ!テメェにャァヤッてもらわねェとイケねェ事があンだからよォ!!」
ニタリ、と。エルスは笑う。
冷酷に、冷徹に。ひたすら黒の一色に双眸を染め。闇の心に忠実に服従して。
ただ、どこか。
アルディアの目には、エルスの狂笑が、孤独に寂しがっている子供の様に見えた。
それが何なのか。元仲間と戦う事になった後悔なのか、それとも別の何かなのか。
人を殺す事しか出来ない能力を持つ少年・エルス。
人を癒す事しか出来ない能力を持つ少女・プシュケ。
もしかしたら。シュゼールがプシュケをエルスと二人組を組ませていたのは、無駄な殺生をさせない為の中和剤として使っていたのかも知れない。
だが、それが真実かどうか、確かめる術はない。
だから、エルスの狂笑の中に微かに覗く悲哀の色が何なのか。
アルディアには分からなかった。