第二十三話
砂漠の国とは言え、夜の繁華街となると街灯やランプの灯りのお陰で、不夜と化している。
元々砂漠では油田が大量に発掘され、他の国よりも安く民間に出回っているのだ。そうなれば必然的に、国は灯りに困る事がなくなる。
そして現在、シャラグリア国の城下町は、混乱を極めている。
理由は、現国王であるメフィストフィレスと婚約を結んでいた、ウルギス・ハーン国の皇女アルディアの謎の失踪である。砂漠のオアシスにて何者かにさらわれ、捜査隊が躍起になって情報を収集しているのだ。
緑豊かな広野の国ウルギス・ハーンとの国交易の為の政略結婚である。アルディア姫がシャラグリア国の王妃となった暁には、鉄道が結ばれ、砂漠の国はより一層豊かになる筈だった。そして広野の国もまた、石油の供給により繁栄する筈だった。裏の事情はどうあれ、少なくとも、表向きはそうなる筈だった。
――そう。そうなる『筈』だったのである。
だが今ではどうだろうか。アルディア姫はさらわれ、ウルギス・ハーン国は婚約破棄になりかけた現状に怒りに怒っている。このままでは戦争になりかねない事態にまで発展している。
(……まァ、ンな事ァ、俺にァ関係ねェンだけどよ)
夜の繁華街を、エルスはただ歩く。足取り怪しく、フラフラと。
別に、散歩をしている訳でもなければ歓楽街に繰り出している訳でもない。ただ、意味もなく徘徊しているだけなのだ。
中身はどうあれ、齢13の少年が一人で歩いている光景は異様で、やたらと目立つ。しかし当の少年は気付いた様子もない。
何をするでもなく、ただ歩くだけ。
と、不意に、肩が当たった。前方から同じくフラフラした足取りで歩いていた中年の男に。エルスと似た様な足取りではあるが、決定的に違う点は、男の方は酔っていた。
だから、ぶつかった瞬間、目を釣り上げた。振り向くでもなければ、ましてや謝るなんて選択肢すら存在しない黒い少年の肩を掴む。
「おいコラ!人にぶつかっといて、謝りもしないのか!?」
案の定、酔って勢いづいている男がエルスに絡む。だがエルスは掴まれた肩を動かして男の手を振り解き、何事もなかった様に去ろうとする。
「テメ――」
「吹き飛ばせ、ウィネ」
ズゴンッ!
違った。エルスが呟いた直後、酔った男の身体が激しい音と同時に吹き飛び、露店に突っ込んだ。数メートルも人が吹き飛んだ光景を見て、周囲の人々は唖然とした。
少年は、何もしていない。ただうざったそうに手を振り解いただけである。にも拘わらず、一方の男は吹き飛んだ。
そんな正体不明な光景に、恐怖しない者がいるだろうか。
ピクリとも動かなくなった男に振り返り、エルスは視線を向ける。
その漆黒の冷眼は限りなく冷淡で、冷酷で、冷徹で。冷気を帯びて冷然としていて、冷罵している様に冷涼に冷血で、そして冷静で冷厳な冷笑を浮かべていた。
「ヒヒ、ッハ!殺されないだけ感謝ァしてろ。俺ァ別にテメェなンざァどォだッてイインだけどよォ。シュゼールに止められてンだよ。『あンまり人を殺すな』ッてよォ」
口元を歪め、エルスが謳う。衆人はその、あまりに人間離れした笑いに、背筋を凍らせる。
と、もう一度、エルスの後ろから小さな衝撃が走る。膝元に。
罵倒を邪魔された事に気分を害したのか、エルスが振り向くと、膝元にぶつかったと思われる人物と目があった。
幼い、まだ10にも満たないだろう、少女。
「……ァあ?何だァ?」
こんな治安の悪い場所に場違いな、可愛らしい少女であるが、エルスを見上げた瞬間、泣きに顔を歪める。
「おォ!待ッた、泣くなよ!?泣くンじャねェぞ!?」
額に脂汗を浮かべ、エルスはしゃがみ込んで少女の頭を撫でる。誰であろうと、殺す時に躊躇いさえ見せないエルスが狼狽している。もし普段の彼を知っている者がこの場にいたとしたら、その不気味さに背筋に悪寒が走る事だろう。
「……まさか、俺が怖ェから泣くとか、ンな理由じャァねェだろォな?」
恐る恐るといった調子で訊ねると、少女は首を横に振った。
「どォしたッてンだよ、チクショウが……」
不快に顔を歪め、しかしどこかホッとした様子で、エルスは呟く。
「……ぁ、ん」
少女が、何かを小声で囁く。
「ァあ?あンだッて?」
「お母、さん……」
今度はハッキリと聞こえた。どうやら迷子の様だと、エルスは解釈する。
「ンだよ……そンなくだンねェ理由かよ……」
眉間を押さえ、エルスは呟く。どこか疲れた様子で。
エルスが少女に対し、やたらと親切になるには、理由――いや、原因がある。それは別に、エルスが幼女趣味だとか、そんな訳ではない。
ただ、ウィネ……双子の妹が死んだ時と同じくらいの子供は、何故か憎めないのだ。
「だッたら、もッと親切な奴に頼むンだな。俺ァ行くぞ、ガキ」
立ち上がり、エルスはばつの悪そうな表情でその場を後にする。
正確には、後にしようとした。
だが、少女はエルスのズボンを掴んだまま、放さない。
「……テメェ、俺に何ォ期待してンだァ?俺が母親探ししてやるよォな親切な奴に見えるッてのかよ?」
無碍にもなく、エルスは少女の手を振り解き、さっさと歩む。足音は、二つ。
重なる足音が気になって振り返ると、少女が後ろをついてきていた。
「……チッ、くそウゼェ」
ヘルメスであるエルスは、本気で走れば50メートルを二秒足らずで走る事が出来る。こんな幼い少女を撒くぐらい大した事はない。
(……だッてのに、どォして俺ァ、そォしねェンだァ?)
間隔をあけて背後を歩く少女と、ペースを合わせる。
自らの行動の意味が、彼自身も不可解で、理解出来ない――。
(メフィストフィレス!)
ヨハネスは、メフィストフィレスがキングサイズのベッドに腰掛けたのを確認すると、ベッド下から転がり出た。
「なっ!?」
豪奢な服飾の男・メフィストフィレスが驚愕に目を剥く。そんな事はお構いなしに、ヨハネスは飛びかかる。
ベッドに押し倒し、左手で口を塞ぎ、右手に持ったナイフを首筋にあてがう。
「ムグッ」
「動くな。喉笛をかっ切るぞ」
静かに、深く、重く。ヨハネスは声を潜めてメフィストフィレスの耳元に囁く。
両の二の腕を広げさせ、そこに膝を乗せる様にマウントポジションをとる。こうする事で、相手は行動の大半を封じられる。
「俺の指……いや、母さんのくれた指輪はどこだ?」
「ンー、んーッ!」
「騒ぐなよ。大声を出したら、殺す」
見下しながら、ヨハネスはゆっくりと左手をメフィストフィレスの口元から離す。ナイフの切っ先を切れない程度に軽く、喉に沈める。
「さ、サスキアだ。あれは、サスキアが保管している!」
「サスキア……アンタの妹って奴か」
「そ、そうなんだ。私でもその場所は分からない」
「……とすれば、サスキアの方を担当した兄さんが、すでに手に入れてるかも知れないな」
ヨハネスはナイフを上げ、逆手に持ち替えながら呟く。
(……どうしたもんかな。もし兄さんが見つけているとすると、長居は無用。ケド、まだ見つけていないとしたら?これからの戦い、力なしじゃ俺はただの足手まといだ。ここまで派手な行動しちまった分、次の機会はもうないだろうし。ってか、ウェレがいたらもうちょっと効率よく出来たんだろうな。アイツどこで何してんだ?)
思考がズレ始め、ヨハネスに隙が出来る。マウントしている事による余裕も相まっているのだろう。実戦を知らないヨハネスは、その事に気付かない。
そして、メフィストフィレスはその僅かな気の緩みを見逃さなかった。
「衛兵!衛兵、早く来てくれっ!」
突如とした叫び声に驚いたヨハネスは、身を強ばらせる。力が抜けた事を謀った様に、メフィストフィレスはヨハネスを突き飛ばして頑丈そうな扉の前まで移動した。
「くっそ、やっちまった……」
次の瞬間には、二人の距離は10メートルは開いていた。更に追い打ちをかける様に、衛兵達が部屋になだれ込んでくる。
「どうしました!?」
「反逆だ!アズライルの実の弟、オスティスが攻め込んできた!」
「なっ……オスティス様……!?」
衛兵達の表情が、驚愕に染まる。
(なんだ……?)
ナイフを構えながらも訝しるヨハネス。ジリジリと、ゆっくり後退する。
「何をボサッとしている!早くひっ捕らえるんだ!」
「は、ッハ!」
スラリと歪刀を抜く衛兵達を見ながら、ヨハネスは思いに耽る。
(躊躇している……。ケド、どうして?)
そこまで考え、ある思考にたどり着く。
(もしかして、コイツら……本当は……)
だとすれば、もしかしたらメフィストフィレスに敵う要因になるかも知れない。
(指輪については残念だが……今回の収入としては十分だな)
ほくそ笑み、ヨハネスはマントの中から縄付きの鉤爪を取り出す。
「あっばよ!」
軸足を反転、ヨハネスは部屋の窓に向かって突進する。
ガシャアン!
窓を蹴破り、鉤爪を窓枠に引っかけ、急降下する。
「うぉお!メチャクチャ怖ぇっ!」
ピン、とロープが張りつめ、
物理的な法則に従い、ヨハネスの身体が階下の部屋の窓をブチ破った。
「ぐえ!」
ガラスの散りばめられた床を転がり、ようやくヨハネスの身体が静止する。くっそ、今日は切り傷だらけだよ……。
「きゃあ!」
部屋の隅から悲鳴が聞こえ、ヨハネスは顔を上げる。
(ちっ、人がいたか!)
顔を上げると、そこには。
赤いセミロングに眼鏡を掛け、給仕服に身を包んだ、同い年ぐらいの少女がいた。
「えっ……オスティス様!?」
驚いた表情で、少女が息を呑んだ。