第十七話
アルディアが次のオアシスで疲れた身体を横たえていると、テントの入り口がそっと開き、ティラの皺くちゃの顔が現れた。
「アルディア様、ちょっとお話が……」
くぐもった声でティラが囁いた。
「なんなの、ティラ。わたし、今日は早く休みたいのよ」
ティラの方を向いたアルディアには、いつもの黒いベールはなかった。テントの中では、彼女はむさ苦しい黒いマントとベールを脱いでおり、白い絹のガウンを優雅に羽織っている。ベールのないその顔は、『白百合』という意味の“アルディア”という名前に相応しい白いきめの細かい肌と、そして黒曜石のような大きな黒い瞳のコントラストが、はっとするほど美しい。
けれども今のアルディアの瞳には、翳りと寂寞感が漂っていた。
「お疲れなのは、分かります。何しろ今日は、妙な漆黒の少年が現れたり、ウェレというトリスメギストスが出現したり、砂嵐とともにヨハネスが消えたりしたのですから。そして極めつけは、“あの”男の出現です!」
「ああ、マナフですね」
アルディアは興味なさそうに言った。
「あの男の右手はご覧になりましたね!」
「もちろん! あの男もまた、わたしを守護する者かもしれない、と言いたいのね」
「いいえ、そうではありませぬ!」
ティラは激しく言い返した。
「お気をつけなさいませ。わたしは老いたりと言えども、『畏れの巫女』の長と言われた女であり、ヘルメスでもあります。何か臭うのです、あの男には」
「でも、守護するものは指が一つ無い者だといいますよ」
「いいえ、皇女! あの男の左手を見ましたか?」
「左手?」
「マナフの左手の指は6本ですよ、皇女!」
「―――!」
アルディアは驚きのあまり、声無き声をあげた。
「それに、申しあげにくいのですが、わたしにはあの男の影が二つあることを発見しました!」
「二つ? ということは……」
「ええ、マナフは実は一人のように見えますが、二人なのです。言わば合体しているのですわ!」
「だ、誰と?!」
「やあ、皇女!」
と突如声がして、その方向を見たアルディアとティラの前に、マナフが現れた。けれどもそれは昼間見たマナフの姿ではなかった。それはマナフでもあり、又マナフでもなく、二重に重なった人影だったのだ! その瞳は昼間の優しさは微塵も無く、今は邪悪に瞬いていた。
「ティラよ、さすがだな。さあ、アルディア! こちらへ来るのだ。お前をシャラグリアのメフィストフェレスに渡す気は無い! どっちにせよ、お前は人身御供のはずだ。シャラグリアとの政略結婚に利用されているだけだろ? シャラグリアとお前の国ウルギスが合体すれば、強大な力になる。その上、メフィストの野郎は、お前と結婚することでこの世界で最も偉大な力を得ることになるのだから!」
「ふっふふふーーー」とティラの不気味な声がした。
「とうとう正体を現しましたね、マナフ。アルディア様、先ほど言いましたように、マナフは右手は4本ですが、左手は6本。足すとどうなるかお分かりでしょう?」
「10本ですね! 分かりました! お前はニセの守護者なんだわ!」
「ちぇっ、そこまで分かっちゃ仕様が無い。お前を連れて行く!」
「お待ち! アルディア様を何処へ?」
「お前の知ったことか、この老いぼれめ!」
指差したマナフの四本の右手から、閃光が放たれ、それは真っ直ぐティラを貫いた。その途端、ティラはバッタリと倒れた。アルディアは恐怖に凍りついた。
「さあ、来い! 俺とともに、アルディア!」
「ア、ル、ディ、ア、様……」
と途切れ途切れに言うティラのかすれ声がした。
「あなたの真の守護者は、やはりヨハネスです……これはわたしの最後の言葉……よきお聞き届けくだ、さ、ぃ……」
そう言いながら、ティラは絶命した。次の瞬間、アルディアはマナフとともに、底知れぬ闇の中に落ちて行った。
はっとしてオスティスは目を覚ました。嫌な予感に胸が締め付けられる。直ぐ隣の寝台では、兄のアズライルがすやすやと微かな寝息を立てながら、眠り込んでいた。
天井はシャラグリア独特の文様で彩られ、深い夜の闇の中、月の光で微かに浮き上がっていた。
― 助けて、ヨハネス! 助けて! わたしはあなたを信じます! マナフと呼ばれる者とそしてもっと邪悪な何かがわたしを連れ去ろうとしている! ああっ、もうこれが限界よ!
わたしの全身全霊をかけた力で、あなたに伝えています。もしも聞えたら、わたしに返事をして! ヨハネス……
夢なのか? それとも現実? アルディアの心の声が、遠い距離を隔てて聞こえてきた。そしてオスティスには感じられた。アルディアが翼のある何者かにさらわれてしまったのを!
もっと恐ろしいことには、その翼の影に潜んで居るのは、ウェレだったのだ! ウェレは一体何者なのだろう?!
オスティスはアルディアの輝くような瞳を思い出した。
ー 待っていてくれ、アルディア! 必ず俺はあんたを守る! それが俺の宿命だと今分かったんだ、はっきりと!
アズライルとオスティスの故郷シャラグリアは、大きな湖の側にある強大な国で、その宮殿は断崖の上に建っていた。そしていたるところ眩いばかりの水晶で出来ている。その宮殿の壁は、日の光に反射して、辺り一面に光の粉を撒き散らしているようだった。
そして水晶を敷き詰められた長い廊下を、薄いブルーの衣装に身を包んだ、妖しい美女が何かを捧げ持ちながらしずしずと歩いていた。
彼女は一番奥の部屋の扉を無造作に開いた。横に立つ兵士たちは、黙って敬礼した。
「あなた達は下がってちょうだい!」
と言う高飛車な命令が飛んだ。
誰も居なくなった広大な部屋の中、彼女は進んでいくと、その又奥には私室があり、巨大な玉座に狡猾な顔付きの男が一人座っていた。
「おお、サスキアか! 我が妹よ!」
「手に入れましたわ、お兄様」とサスキアは言った。
「これです」
玉座の男は目をこらして、サスキアの捧げ持つ、水晶で出来た小箱を見つめた。
奇麗に透けて見える小箱の中には、一本の指が空中に浮いて漂っていた。そしてその指には、眩い光を放つ玉のついた指輪がはまっていた。
「わぁあああーーー!」と叫んだ男を、サスキアは軽蔑したように見つめた。
「な、なんだ、こ、これは!」
「オスティスの左手の小指ではないですか! みっともないわ、お兄様! メフィストフェレス王ともあろう方が、そのような大声を出すなんて」
「ではあの……」
「そう、オスティスを捕えた時に、急いで切り落とした小指です。実は指輪を抜こうとしたのですが、それはかないませんでした。オスティスの亡くなった母親の魔法の為に抜けず、とうとう切り落とさざるを得なかったのです。
でもオスティスの力の源は絶ちました。あの少年はこの指輪が無ければ、例えどんなに強大な力を秘めていても使うことは出来ないし、そして記憶を完全に取り戻すことも出来ませんわ。おっほっほっほっっっっっ!」
サスキアはこの上なく優雅に、そして邪悪に哄笑した。その笑い声は、広大な宮殿にこだまして行った……。