第十話
廃墟から一人の男が出てくる。小柄な、ジップと呼ばれていた男だ。
(……見張り、か。まずいな)
木の上で息を潜めているアズライルは内心で舌打ちした。
見張りがいる、という事は向こうも警戒しているという事だ。気配を消したまま眠るなどという技術をアズライルは会得していない。加えて、アズライルが休息をとるために眠ってしまえば、眠っている間の相手の動きは解らない。その間に移動されてしまえば、後をつけてきた意味がない。
(……仕方ない、こちらから打って出るか)
ジップが背を向けた瞬間、アズライルは木の上から飛び降りた。
落ち葉が立てた音にジップが振り返った瞬間、アズライルはジップの目の前にまで踏み込んでいた。着込んだ外套で隠れた背中から短剣を引き抜き、ジップの首筋にあてがう。
「――!」
「動くな。質問に答えろ」
身を退こうとするジップに、アズライルは静かに告げた。低く落とした声に、ジップが動きを止める。
「ア、アズライル……!」
「……貴様等の目的は何だ?」
「……」
アズライルの問いに、ジップが黙り込む。
その瞬間、密度を増した邪気に、アズライルは反射的に身を退いていた。
「――流石に勘が良いな」
「貴様、まさか……」
「……ふ、他の奴ならば殺すわけには行かなかったが、貴様ならば問題はない!」
そのジップの言葉にアズライルは舌打ちした。
奴等はアズライルがオスティスの居場所を知らない事を知っている。つまり、奴等からすればアズライルは排除対象なのだ。他の者ならばオスティスの居場所に関して何か知っていたかもしれないが、居場所を知らないアズライルは邪魔者でしかないという事である。
邪気を放つジップの周囲に漆黒の霧が収束して行く。ジップがその霧に包まれた直後、人ではない姿へと霧が変化して行った。
「……『グノーシス』……!」
闇を知識・力として取り込み、人間を越える力を得た存在。
蝙蝠に似た翼を背に持った、それでも人間に近い姿へと変容したジップに、アズライルは身構える。既にジップの顔はなく、そこには切れ目にも似た穴が二つ存在するだけだ。その穴の奥は真紅に輝きを放ち、そこが目なのだと判断するのは容易い。四肢は長く伸び、その先端には鋭い鉤爪がついていた。
飛び掛ってくるジップの爪を、アズライルは横に跳んでかわす。そのアズライルの動きでさえ、常人を越えていたが、ジップはアズライルの身体能力すらも上回っていた。
地面を転がるようにして受け身を取ったアズライルに、ジップが蹴りを繰り出す。寸前で屈んでかわしたところへ、空中に浮いているジップが身体を前転させるように回転させ、踵落としを放つ。強引に身体を後方へ投げ出して何とかかわしたアズライルの眼前に、ジップが浮いていた。
「――ちっ!」
舌打ちすると共に跳ね上げた右手に持った短剣でジップの手、爪を受け止める。
「舐めるな……」
鋭く細めた視線に、ジップの気配が一瞬、たじろいだのが判った。
グノーシスとは根本から異なる、アズライルの内に秘めた力の一部を己の表層に引き上げる。
「まさか、『トリスメギストス』ッ――!?」
ジップが身を退こうとする瞬間、鉤爪に短剣を引っ掛ける事でジップを押さえつける。
握り締めた左手から、淡い光がまるで剣のように伸びていく。その光を一閃させた瞬間、ジップの身体が両断されていた。それと同時に、短剣を引き戻したアズライルはジップの下から転がり出ていた。それにやや遅れて、ジップを変化させていた漆黒の霧が周囲に散り、胸の辺りで真横に両断されたジップが倒れる。
血を撒き散らし、息絶えるジップから離れ、アズライルは近くの木に背中を預けていた。
(……この分だと後手に回るかもしれないな……こんな時にウェレがいれば多少は楽なんだがな……)
まだ明けぬ夜に、残されたもう一人の男をどう処理すべきか、アズライルは思案していた。
一人の男が、得体の知れない力で殺された。その戦慄が一瞬にしてその場を戦場へと変える。
「――あいつは、何なんだ……?」
ヨハネスの目の前で、少年は余裕の表情で戦士達の攻撃をかわしている。
いや、かわしていると言うよりも、攻撃が当たらないと言った方が的確なのかもしれない。少年自身には「避けている」という表情や雰囲気はなく、ただその場でふらふらと下手な踊りをしているようにしか見えなかった。戦士達の攻撃はただ空振りしているようなものだ。
「……あの者、もしや『ヘルメス』!? 馬鹿な……!」
ヨハネスの背後で、アルディアに付き従っていたティラという老女が呟いた。いつの間にそこまで移動したのか、という事よりも、ヨハネスにはその言葉の内容の方が気になった。
(――ヘルメス……!?)
その言葉を、ヨハネスは知っている。背筋に寒気が走るような感覚と共に、その意味だけが頭の中に響き渡るかのように浮かび上がった。
ヘルメス。特異な力を持つ者の総称。その力はある種の魔法のようなものに近く、この世の法則を無視するようなものがほとんどだ。
「――!」
ティラが何事か言葉を発した瞬間、戦場と化した空間に異変が起きた。
少年の頭上に巨大な円が描かれ、その円の内部に幾何学的な紋様が作り出されていく。その直後、その紋様の中央に赤い光が収束し、少年へと一直線に降り注いだ。赤い光はその途中で炎へと変化し、熱気を周囲に振り撒いて少年を包み込む。
熱気がヨハネスの前髪を揺らし、周囲の戦士達がゆっくりと離れていく。
「――ふン、少し意外かな。魔術が使える奴がいたのか」
燃え盛る炎の柱の中から、何も無かったかのように少年が歩み出てくる。炎はその身体に直接触れておらず、数センチ浮いた場所から少年の身体を避けるように周囲に分かれていた。
魔術。素質のある人間だけが操れる、特殊な術。それは主に言霊を媒介に発動し、自然界の力を操る力だ。
「……私の魔術が効かない!?」
ティラの顔が青褪めた。
「魔術如きで俺は倒せねェ。いや、もう誰も倒せねェかな。俺も下っ端だしな」
緩んだ口元に、嘲笑を含んだ表情。
「ン? 侮るなってか? じゃあとっとと殺っちゃえよウィネ。俺ァそいつどうでもいいし」
肩を竦めて欠伸をする少年に、誰もが愕然としていた。
普通に攻撃して当たらない。恐らく、この場にいる戦士達はそうそうやわな奴等ではないだろう。身体能力は人間を明らかに超えている。
そして、魔術も通用しない。ティラの魔術はかなり高レベルなものなのだろう。魔術を放つ前、ティラにはまだ多少の余裕があった。しかし、今は余裕のない表情で、愕然とした表情を少年に向けている。
(――何だ!?)
ヨハネスの視界に、何かが見えた。
空間の歪みのような、何かが。輪郭だけがぼんやりと見える程度ではあったが、何か強大な力を感じた。
その何かが、ティラへと真っ直ぐに向かって行くのが、解る。そして、その空間の歪みはティラに見えていない事も直ぐに解った。
(っ――!)
瞬間、ヨハネスの頭に突き抜けるような痛みが走った。
少し動いてティラを突き飛ばせば、助けられるというのに、瞬間的に生じた頭痛がそれを妨害する。
「……ちっ。記憶が戻るかと思ったんだが、そう簡単には行かないようだな……」
ティラの目の前、ヨハネスの隣に一人の男が立っていた。フードを被り、口元しか見えないまでにローブを着込んだその身なりから、隊商の中の一人だと解る。しかし、呟かれた言葉はヨハネスを刺激した。
その男は空間の歪みを素手で打ち払う。横合いから振るわれたその一撃に、空間の歪みが弾き飛ばされた。
「――ウェレ!?」
フードの下から覗いたその顔を見た瞬間、無意識のうちに声が出ていた。
左目は閉ざされ、その瞼の上には縦に傷が頬にまで伸びている。その顔はヨハネスと同世代ほどの若さだった。
「お? 少しは思い出したか?」
「いや、誰だ……!? 何で俺はあんたの名前を……!?」
ウェレ、と無意識のうちに呼んだ名があっていたらしく、笑みを向けてくる男に、ヨハネスは首を横に振った。
「……アンタ、何モンだ?」
「トリスメギストス。ヘルメスの上の存在さ」
一転して表情から余裕が消えた少年に、ウェレは答えた。
「ウィネェッ!」
「ほぉ、使い魔型か。こりゃまた珍しい」
少年が叫び、手をかざす。
ウェレは関心して呟くと同時、背後に生じた空間の歪みに対して身体を半身にずらしていた。並の速度ではない反射神経を見せたウェレと、少年の力に、その場の誰もが動けない。
空間の歪み、恐らくはそれがウィネと呼んでいるものなのだろう。手か足か判らないが突き出された攻撃を身を退いてかわしたウェレへ、追撃が繰り出される。それを身体を横にずらしてかわし、ウェレは突き出された腕の振り払いを屈んでかわした。
「言動もちょっと可笑しいし、精神分裂の具現化なんだろうなぁ」
ヨハネスにしか見えないと思っていた空間の歪みの動き、攻撃をウェレは簡単に避けている。他のものからすれば、ウェレがその場で妙に動き回っているようにしか見えないだろう。だが、少年の表情が切羽詰ったものに変化していく様子を見れば、ウェレが少年の攻撃を避けているのだと気付くはずだ。
「可哀想に」
一瞬、ウェレが目を閉じて告げた。視界を閉ざしたというのに、その直後の攻撃をウェレはかわしている。
「直ぐに楽にしてやる」
そして、ウェレが目を開いた瞬間、その目つきは変わっていた。
鋭く研ぎ澄まされた刃が如く、全ての存在を貫くかのような視線。その視線がウィネを捉える。伸ばされた右手がウィネを貫き、顔の前で指を二本立てた左手を掲げ右から左へと線を引くかのように動かす。瞬間、立てられた二本の指の先端が淡い光を放ち、弧を描く。直後、空間の歪みが漆黒の霧となって周囲に散り、消え失せた。
「……あ、ァあ…ウィネ……ウィ……」
がくがくと身体全体を震わせながら少年が口走る。
「生きろ、と言ってやりたいが、お前は過ちを犯す事を運命に刻み込まれているようだな」
座り込んで痙攣したかのように震える少年の前に、ウェレが立った。
指を二本立てた左手で十字を切った瞬間、淡い光が十字の形に浮かび上がり少年へと吸い込まれるかのように収束したかと思うと、少年から生気が失せた。そうして、仰向けに倒れて動けなくなった少年に背を向け、ウェレはヨハネスの近くまで歩いて来る。
「……で、何か思い出したか?」
「い、いや、何も……」
目つきが戻り、存在感までもが人並に戻ったウェレの言葉に、ヨハネスはうろたえながら答えた。
一つ溜め息をつき、ウェレはヨハネスの前で止まる様子もなくそのまま歩き続ける。その行動に、ヨハネスは自分の事を何か知っているのかもしれないという期待を口に出せなかった。
「……全く、アズライルに何て言やいいんだか……」
すれ違い様、小さな声だったが、ウェレは確かにそう言っていた。
二週目、十話を担当させて頂きました白銀です。
今回は私が最も得意とする戦闘が回ってきたので好き勝手にやってしまいました。その上また長くなってしまい、申し訳ありません(汗)
戦闘には気を遣っているので、躍動感を感じて頂けたら幸いです。