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白紙の巻物

作者: ゆきだま
掲載日:2026/10/10

初めまして。


読み切りとして書いています。

どうしても思い出せないことがある。


 なぜ俺が、こんな勝負を挑んだのか。その理由だ。


 体の芯には、確かに焼きついている。絶対にそうしなければならなかった。命を賭けてでも、こいつに勝たなければならない理由が俺にはあった。それだけは骨の髄まで分かっている。なのに、肝心のその"理由"そのものが、霧の向こうに溶けて、どれだけ手を伸ばしても指先に触れない。


 覚えているのは、ここでのことだけだ。この作り物の盤面の上で起きたことだけ。


 だから、ここから話す。


  *


 相手がどんな姿だったのかも、うまく思い出せない。人のようでもあり、そうでないようでもあった。ただ、そいつの声だけは妙にはっきりと耳に残っている。落ち着いた、こちらを面白がるような声だった。


 俺が勝負を申し込んだとき、そいつはしばらく黙って、それから言った。


「本当に、やるのか」


 やる、と俺は答えた。他に選べる道はなかった。少なくとも、俺の中ではそうなっていた。


「いいだろう」と、そいつは言った。「ならば、形式はお前が決めろ」


 なぜ俺に、それを決める権利があったのか。今思い返しても分からない。けれど、あの時の俺はそれを当然のように受け取っていた。このルールは俺が作る。俺がこの盤面を設計する。そういう立場に俺はいた。その理由だけが、他の多くのことと同じように、霧に溶けて思い出せない。


 俺は少し考えてから口を開いた。


「鬼ごっこにしよう」


 子供じみた言葉だと、自分でも思った。けれど、これが一番はっきりしていた。追う者と、逃げる者。生き延びればこちらの勝ち。単純なほど、ごまかしが利かない。


「でも、そうだな」と俺は続けた。数えてみれば、こちらは十人ほどいた。


 ——なぜ、十人なのか。


 ふいに、その疑問が頭をかすめた。逃げるだけなら、こんな人数、いらないはずだ。むしろ、少ないほうが身軽だった。一人で隠れていたほうが、よほど安全だったかもしれない。なのに俺は、十人を選んだ。この数でなければならない理由が、きっとあった。


 ……いや、今は考えている場合じゃない。俺は、思考を振り払った。


「これではいくらなんでも、相手が不利すぎる。それでは勝っても意味がない。一対十だと、さすがにそちらが厳しいだろう。だから、追う側の人数は三人にしよう」


 相手は何も言わなかった。ただ、俺の言葉の続きを待っていた。


「ただし、残りの二人には、今から言う条件に従ってもらう」


 俺は指を立てた。


「一人目は、特定のエリア内でしか行動できない。決められた区域から、一歩も外へは出られない。その代わり、区域の中でなら、好きに動いていい」


 ただし、その"特定のエリア"が、盤面のどこからどこまでなのかは、俺たちにも知らされなかった。どこに踏み込めば襲われるのか、それは自分の足で確かめるしかなかった。


 2本目の指を立てる。


「二人目は、全エリアを監視できる。盤面のどこで何が起きているか、すべて見える。ただし、直接こちらに危害を加えることはできない。見るだけだ。見つけても、できるのは報せることだけ。しかも、報せられる相手は、残る二人のうちの、どちらか一人だけだ」


 これで、実際に俺たちを襲えるのは、一人。もう一人は決まった場所からしか動けず、最後の一人は、見て、どちらか片方に報せるだけ。見つかっても、追手が二人まとめて来ることはない。我ながら、慎重に組んだつもりだった。十人を守るには、十分な枷だと思った。そう思ってしまった。今にして思えば、その"つもり"こそが落とし穴だったのだ。


「期限は、明日から五日間」


 俺は空を指した。切れ目のない、のっぺりした空だった。


「フィールドでは、時間が定期的に切り替わる。昼が来て、夜が来る。夜になれば、実際の夜と同じように暗くなり、視界も悪くなる。足元も見えなくなると思え」


 それから、少し声を落とした。これは自分で決めておきながら、口にするのが嫌なルールだった。


「それと、一日に一度、ランダムな時刻に、七時間の『睡眠タイム』がアナウンスされる。この間は、追う側は俺たちに直接干渉できない。襲えない。触れられない。ただし」


「移動だけは、できる」


 安全な時間じゃない。ただ、手を出さずに距離を詰めてくる時間。眠っている間に、音もなく真横まで来られる時間。それを俺は、自分で盤面に組み込んだ。


 それから、俺はもう一つ、相手に与えるものを口にした。追う側を三体に絞り、そのうちの二体にまで縛りを課した。さすがに、締めつけすぎだ。勝負は、一方的すぎてもつまらない。


「フィールドには、もともと罠が仕掛けられている。踏めば終わるようなやつが、そこかしこに。それとは別に——お前には、自分の意思で罠を仕掛ける権利をやる」


 俺は、指を三本、立てた。


「三つだ。好きな場所に、好きなものを、三つまで。お前が連れてくる手駒が三体なら、罠も三つ。それで、釣り合いが取れるだろう」


 そのとき、相手がどんな顔をしたのか、俺は覚えていない。ただ、面白がるような、あの声だけが、短く笑った気がした。——俺が、自分で自分に向けて、三つの刃を許したことを。そのうちの一つが、どんな形で牙を剥くことになるのかも知らずに。


 言い終えて、俺は相手を、そして俺に付き合わされることになる二人を見渡した。


「何か、聞いておきたいことはないか」


 誰も、何も言わなかった。


 その沈黙を、俺は「異議なし」と受け取った。本当は、あの時、誰か一人でも何かを問いかけてくれていたら。あるいは俺自身が、もう一度ルールを見直していたら。きっと、違う五日間になっていた。


「では」と俺は言った。「明日から始めよう」


 # 二


 盤面は、森に似ていた。


 木々の間隔が、不自然なほど等しい。同じ木が、定規で測ったように並んでいる。空は決まった間隔で色を変えた。本物の自然なら、夕暮れはゆっくり滲むものだ。ここの夕暮れは、スイッチのように切り替わる。誰かが用意した、作り物の世界。それが嫌というほど伝わってきた。


 生き延びる手段は、一つだけあった。巻物だ。


 エリアのあちこちに、それは落ちている。筒状に丸められた、古い紙。拾い上げると、その瞬間、何の能力かが頭に流れ込んでくる。どの巻物にどの力が宿っているかは、拾うまで分からない。完全に運だ。全部で十種類ほどあるらしかった。


 使うには、まず装着しなければならない。巻物を手に持ち、「装着」と唱える。すると紙がほどけ、包帯のように手へ巻き付いていく。その状態になって初めて、力は使える。


 ただし、装着できるのは両手で二つまで。右手に一つ、左手に一つ。この二枠が、常に手札のすべてだった。


 拾った巻物を装着せず、ポシェットにしまっておくこともできる。ストックだ。けれど、ストックした巻物を使うには、一度取り出して、あらためて「装着」と唱え直さなければならない。そして何より厄介なのが、装着は動きながらできないことだった。一度、足を止める。立ち止まって唱える。そうしないと、巻き付いてくれない。走りながらの付け替えは、できない。


 つまり、追われている最中に手札を変えるなら、立ち止まるという賭けに出るしかない。その数秒で、距離を詰められる。だから基本は、走り出す前に手へ巻いておいた二つで、すべてを切り抜ける。何を巻いておくか。それがこの盤面では、命そのものだった。


 二枠が埋まっているとき、新しい巻物を装着するとどうなるか。これも、初日に実験して分かった。古いほうが、消える。右手に一つ目、左手に二つ目を巻いた状態で三つ目を装着すると、一番古い一つ目の上に、新しい力が上書きされる。押し出された一つ目の能力は、そのまま消滅して、二度と使えない。常に、手元に残るのは直近の二つだけ。


 だから俺は、拾うたびに選ばされた。これを巻くか。巻くなら、今ある二つのうち、どちらを捨てるか。その判断の一つひとつが、後の生死を分けていった。


 覚えている限り、巻物を書いておく。これから先、同じ盤面に立つ者がいるなら、きっと役に立つ。


 一つ。【停時《ていじ》】。相手の時間を、数秒だけ止める。追われているとき、これほど頼りになるものはなかった。俺は何度も、これで命を拾った。


 二つ。【隠形《おんぎょう》】。自分の気配を完全に消す。相手の認識から、こちらが消える。目の前にいても見えなくなる。ただし、効果の間に相手へ触れてしまえば、そこで露見する。


 三つ。【空蝉《うつせみ》】。自分の身代わりを一体、その場に残す。相手の注意がそちらに向く、ほんの数秒を作れる。


 四つ。【韋駄天《いだてん》】。短い間だけ、脚がありえない速さになる。距離を一気に稼げる。ただし、止まるときに受け身を取れなければ、自分の勢いで転ぶ。


 五つ。【遠見《とおみ》】。少し離れた場所の様子が、頭の中に像を結ぶ。先の地形を知り、罠や敵の位置を、前もって掴める。


 六つ。【滅心《めっしん》】。恐怖を一時的に消す。心を凪にする。ただ、怖くなくなるということは、危機感も薄れるということだ。踏み込んではいけない場所に、平気で踏み込めてしまう。


 七つ。【結界《けっかい》】。短い間、その場に見えない壁を張る。相手の侵入を防ぐ。ただし、こちらも出られない。


 八つ。【解縛《げばく》】。拘束や、動けない状態を解く。罠にかかったとき、これがあるかないかで、生死が分かれる。


 九つ。【乱転《らんてん》】。離れた場所へ、一瞬で移動する。行き先は選べない。追い詰められたときの、最後の賭けだ。


 十。これだけは、力が流れ込んでこなかった。拾っても、頭に何も伝わらない。白紙の巻物。装着しても、何も起きないように見えた。外れくじだと、俺は思っていた。


 巻物だけじゃない。地面には、罠が仕掛けられていた。踏めば足を縫い止める、見えない縄のようなもの。近づくと体が痺れて動けなくなる、淀んだ空気の溜まり。拾おうとした巻物が偽物で、触れた瞬間に手が焼ける、というのもあった。盤面そのものが、こちらを殺そうとしていた。


 これらは、フィールドが勝手に生み出す罠だ。だが、罠はそれだけじゃない。俺は相手に、自分の意思で仕掛けられる罠を、三つ許していた。どこに、どんなものを仕掛けたのか。それは、相手にしか分からない。盤面のどこかで、三つの牙が、俺たちが踏むのを静かに待っている。そのことを、俺は頭の片隅で、ずっと忘れないようにしていた。


 追ってくるものは、三体。


 一体は、実際に俺たちを襲ってくる相手だった。姿はうまく思い出せない。けれど、そいつから五日間、逃げ切ればこの勝負は終わる。それだけは分かっていた。


 一体は、空を舞う鳥だった。盤面の上を、ゆったりと旋回している。使いの鳥、とでも言うべきものだった。手は出してこない。くちばしも、爪も、こちらには届かない。けれど、この鳥に見つかれば終わりだった。獲物の居場所を見つけ次第、追手のもとへ報せに飛ぶ。俺たちのいる場所を、襲ってくる敵に、そっくり伝えてしまう。


 だから、空を気にしながら歩いた。開けた場所には、できるだけ出ない。木々の天蓋の下を選んで動く。それでも、見上げればいつも、あの鳥がどこかの空を回っていた。見られているという感覚が、じわじわと神経を削った。隠形を手に巻いていれば、気配ごと消えて、鳥の目からも逃れられる。この盤面で隠形がどれほど貴重だったか、それだけでも分かってもらえると思う。


 そして、最後の一体。決まった区域の中だけを、ゆっくりと歩き回るもの。


 ナマハゲだ。


 その区域にさえ入らなければ、襲ってこない。だから最初、俺はそいつをただの障害物だと思っていた。追う側の三体は、相手が連れてきたものだ。どんなものが来るかは、俺にも分からなかった。だからこそ、せめて一体くらいは、動ける場所を縛っておこうと思った。「特定のエリアからは出られない」という条件。それを、俺が課した。あのときは、それが安全への備えだと、信じて疑わなかった。


 そいつに、あれほど心を許すことになるとは、このときは思いもせずに。


 # 三


 最初に巻物の力を本気で使ったのは、初日のことだった。


 その日の俺は、まだ盤面に慣れていなかった。ルールは自分で作った。巻物の存在も知っていた。けれど、知っていることと、体で分かっていることは違う。それを教え込まれたのが、初日のあの数分間だった。


 森を一人で歩いていた。仲間とは、散開していた。十人が固まっていると、一網打尽にされる。それだけは避けたくて、俺は散らばる指示を出していた。


 足元に、巻物が落ちていた。拾い上げる。流れ込んできたのは、【韋駄天】。脚が速くなる力。悪くない。俺は足を止め、「装着」と唱えた。紙がほどけ、右手に巻き付いていく。もう片方の左手には、朝のうちに拾っておいた

【停時】を巻いてあった。手札は、この二つ。


 立ち止まったのは、ほんの数秒だった。けれど、その数秒がまずかった。


 頭上で、ばさり、と羽音がした。


 見上げると、あの鳥が、ちょうど俺の真上を横切るところだった。ぎょろりと、こちらを捉える。目が、合った気がした。次の瞬間、鳥は旋回をやめ、まっすぐどこかへ飛んでいった。報せに行ったのだ。俺の居場所を。


 空気が、変わった。


 背後の、少し離れたあたり。木々の並びの奥から、ぬう、と気配が滲み出てきた。ゆっくりと、重たげに。振り返る前から、分かった。入ってしまったのだ。あいつの、区域に。そして今、俺はそこにいると、鳥に教えられてしまった。


 ナマハゲ。


 俺は、走り出した。


 振り返ったのが、失敗だった。そいつは、遅い。歩いているだけに見える。なのに、一歩が異様に大きい。ゆったりと腕を振るその動きが、こちらが全力で走っても、少しずつ、確実に、距離を詰めてくる。


 俺は、木々の間を縫って走った。


 地面を一度蹴るたび、体が数メートル前へ飛んだ。行く手を塞ぐ倒木を、助走もなく飛び越える。着地して、また蹴る。太い幹が迫れば、そこへ足をかけ、斜めに数歩駆け上がって、横の枝へ飛び移った。息は、まるで切れない。肺の奥が、どれだけ走っても凪いでいる。脚は、いくらでも動いた。


 それでも。


 背後の気配は、剥がれなかった。


 心臓だけが、早鐘のように鳴っていた。脚のせいじゃない。恐怖で、だ。


 距離が、詰まる。背後に、あの湿った気配が迫ってくる。振り向く余裕はない。けれど、肌が感じていた。もう、数メートル。腕を伸ばせば、届く。


 左手の、【停時】


 俺は、それを使った。「停まれ」。唱えた瞬間、背後の気配が、ぴたりと凍りついた。空気の流れが、止まる。世界から、音が消える。


 その隙に、俺はただ走った。全力で。止まった気配を背に、一歩でも遠くへ。木々が、後ろへ流れていく。韋駄天は、まだ使わない。切り札は、取っておく。数秒。ほんの数秒だが、【停時】が稼いでくれたその時間は、大きかった。


 けれど、【停時】は、数秒で切れる。


 背後で、ぶわりと、気配が再び動き出した。止めていた時間の分を、取り戻すように。再び、距離が詰まり始める。


 【停時】は、もう消えた。使い切って、左手は空になっている。残る手札は、右手の【韋駄天】ひとつ。ポシェットには、ストックした巻物が一本あるにはあった。けれど、それを装着するには、立ち止まって「装着」と唱えなければならない。その数秒。今この状況で足を止めるのは、自殺行為だった。止まった瞬間に、掴まれる。


 だめだ。ストックは、諦める。今、右手に残った【韋駄天】だけで、切り抜ける。


 俺は、韋駄天を巻いた右手に、意識を集中した。力を、すべて脚に注ぎ込む。前方に、ひときわ高い倒木の山が見えた。普通なら、迂回する。でも、迂回すれば、その分、追いつかれる。


 俺は、跳んだ。


 【韋駄天】の速度を乗せたまま、倒木の山を、一息に飛び越えた。体が宙に浮く。風を切る。着地の瞬間、受け身を取り損ねれば転ぶ、という韋駄天の警告が、頭をよぎった。俺は膝を柔らかく使い、転がるように着地して、その勢いを殺さず、また走り出した。


 倒木の山が、壁になった。


 ナマハゲは、それを飛び越えられなかった。あるいは、飛び越えるという発想が、あの鈍重な体にはなかったのかもしれない。山を回り込もうと、そいつが向きを変える、その数秒。俺は、ただひたすらに、走り続けた。


 どれだけ走った頃だろう。ふいに、背後の気配が、嘘のように消えた。


 振り返ると、ナマハゲは、遠く、見えない線の手前で、ぴたりと足を止めていた。それ以上は、来ない。来られない。知らないうちに、俺はあいつの区域の外へ、出ていたらしかった。「特定のエリアからは出られない」。俺自身が課した、あの縛り。それに、今、俺は救われていた。


 膝に手をついて、俺は、荒い息を吐いた。いや、息は荒くなかった。肺は、まだ余裕がある。荒れていたのは、心のほうだった。


 助かった。両手に巻いておいた、二つの巻物。それを使い切って、どうにか切り抜けた。


 このとき、俺は、学んだつもりでいた。あいつは遅い。区域からは出られない。手札さえきちんと巻いておけば、逃げ切れる。立ち止まりさえしなければ、負けはしない。


 その慢心が、のちに俺を、取り返しのつかないところへ追い込むとも知らずに。


 けれど、初日の俺は、まだ、それを知らない。


 # 四


 三日目だったと思う。


 昼と夜の切り替わりの回数で数えていたが、途中から自信がなくなっていた。眠らされ、起こされを繰り返すうちに、体の中の時計が、少しずつずれていく。


 その日は朝から、いや、朝と呼べるものがあればの話だが、ずっと嫌な予感がしていた。


 誰かに見られている。空の鳥の、あの乾いた視線とは違う。もっと近くて、もっと湿った視線。背中の真後ろに、ぴったり貼りついているような感覚。振り返っても、誰もいない。なのに、消えない。


 近くには、二人いた。


 俺と歳の近い、女の子。それから、五十代くらいのおじさん。


 この二人がどういう関係で俺と一緒にいるのか、正直、よく覚えていない。ただ、二人とも俺のためにこの盤面に参加してくれた。そういう感覚だけが、確かにあった。借りがある、と体が覚えている。だから、守らなければならない。理由は、やっぱり思い出せないのに。


 残りの七人とは、初日に散開してから、一度も顔を合わせていなかった。そういえば、あいつらは、うまくやれているのだろうか。ふと、そんなことが頭をよぎった。けれど、確かめる術は、なかった。この盤面の、どこにいるのかも分からない。


 妙な気持ち悪さを抱えたまま、三人で歩いていると、遠くに建物が見えた。


 盤面の中に建物があること自体が、おかしかった。森の中に、ぽつんと一軒。全体がボロボロに朽ちていて、上の階には、壁に亀裂が走っていた。今にも崩れそうな、廃墟。


 近づいてはいけない、と頭では分かっていた。けれど、あの貼りつくような視線の出どころが、あそこな気がした。入らなければ、この気持ち悪さは終わらない。そんな気さえした。


「……入るんですか」と、女の子が小さく言った。


 おじさんは、何も言わなかった。ただ、俺の判断を待っていた。


 俺は、頷いた。


 何が起きてもいいように、慎重に周囲を確かめながら、中へ入っていく。床板は、一歩ごとに軋んだ。埃と、かび臭さと、その奥に、何か甘ったるい、いやな匂いがした。


 しばらく探るうちに一つだけ、扉のついた部屋を見つけた。


 他の部屋には、扉なんてなかった。枠だけが残っていた。なのに、その部屋だけ、きちんと扉が閉まっていた。まるで、何かを閉じ込めるように。あるいは、誰かが開けるのを待つように。


 三人で、顔を見合わせた。


 警戒しながら、俺はその扉に手をかけた。ゆっくりと開ける。きしむ音。暗い部屋。がらんとして、何もない。


 俺たちは、足を踏み入れた。


 三人全員が部屋の中に入りきった、その瞬間だった。


 バタン、と背後で音がした。


 扉が、閉まった。


 同時に、俺の体が動かなくなった。


 縄で縛られたわけじゃない。糸で吊られたわけでもない。ただ、首から下が、自分のものでなくなった。足も、腕も、指一本動かない。声も出ない。目だけが、動いた。


 視界の端に、二人が見えた。同じだ。二人とも、固まったまま、目だけを必死に動かしている。


 嫌な予感が、一気に現実の重さを持った。


 目の前に、何かが現れていた。


 いつ現れたのか、分からなかった。気づいたときには、もう、そこにいた。その姿を、俺はどうしても思い出せない。見ていたはずなのに、思い出そうとすると、頭の中に靄がかかる。人だったのか、獣だったのか、それすら曖昧だ。ただ、そこに"居る"という圧だけが、肌を刺すように伝わってきた。


 それは、ゆっくりと、俺たちの前を順番に歩いた。


 一人ひとりの前で立ち止まり、顔を近づけて、数秒、じっと凝視する。値踏みするみたいに。あるいは、確かめるみたいに。


 不思議なことに、凝視されている、その数秒の間だけは、なぜか体が自由に動いた。まるで、「さあ、動いてみろ」と試されているようだった。けれど、動いたところで、どこへも行けない。扉は閉まっている。俺はただ、されるがままに、見つめ返すことしかできなかった。


 それは唐突に、俺の目の前に、玉のようなものを置いた。


 冷たくも温かくもない。ただ、重さだけがやけに手に馴染む玉。俺は慎重にそれを拾い上げ、視線を前に戻した。


 すると、そこに籠が置いてあった。


 数メートル先。何も言われなかった。けれど、分かった。これを、あそこへ。入れろ、と。周りを見れば、二人も同じように玉を手にしていた。


 そこから先の記憶が、ない。


 おそらく、俺たちは籠に向かって玉を投げたのだと思う。気がつくと、視界の先で、三つの玉が床を転がっていた。籠には、入ったのか。入らなかったのか。それすら、分からない。


 そして、俺の腕が刺されていた。


 痛みは、遅れてやってきた。腕の、ちょうど真ん中あたり。何に刺されたのかは見えなかった。ただ、傷口から、黒く見えるものがにじんでいた。


 近くで、絶叫が聞こえた。


 振り返ると、女の子が腹部を押さえて蹲っていた。指の間から、同じ黒いものが溢れていた。


 おじさんは、無傷だった。立ったまま、呆然と、自分の両手を見下ろしていた。どこも、刺されていない。


 刺される直前、俺ははっきりと感じていた。殺される、と。


 なのに、生きている。腕を刺されただけで、心臓は動いている。


 その"何か"は、俺たちを順に見下ろすと、ただ一言、言い残して消えた。


「五時間後、またここに来い」


 足音も立てなかった。靄が晴れるように、ふっと消えた。


 # 五


 女の子を二人がかりで支えながら、俺たちは廃ビルを出た。


 傷は深かった。けれど、不思議と、血が止まるのは早かった。まるで、"殺すつもりはなかった"とでもいうように。それが、かえって不気味だった。


 歩きながら、俺は思った。——あれが、そうだ。相手が仕掛けた、三つの罠の、一つ目。自動で生まれる盤面の罠とは、質が違った。意思があった。俺たちを、わざわざ呼び寄せ、玉を握らせ、また来いと言い残していった。あんな手の込んだ仕掛けは、誰かが"そうしたくて"置いたものだ。


 だとすれば、残りは、あと二つ。どこにあるのかも、何なのかも分からない。その事実が、傷よりも重く、背中にのしかかった。


 少し落ち着いてから、俺はおじさんに尋ねた。


「……あなただけ、無事だった。何か、心当たりはありませんか」


 同じ部屋で、同じ玉を渡され、同じように投げた。なのに、結果だけが違う。偶然のはずがない。何か、おじさんだけがやったことがあるはずだった。


 おじさんは、しばらく黙っていた。それから、自分でも半信半疑、という顔で、ぼそりと言った。


「……血を、拭いたんだ。玉を渡される、その前に。手のひらに、血が、ついていてな。無意識に、服の袖で、拭ったんだ。ちょうど、玉が、触れるところを」


 血を、拭いた。それだけ。


 意味が分からなかった。汚れた手を拭く。たったそれだけの仕草が、生死を分けたというのか。おじさん自身も、なぜそうしたのか説明できないようだった。ただ、昔からの癖で、汚れたものを持つ前に手を拭く。それが、たまたま。


 けれど、俺の直感は、その断片に強く反応していた。


 血を、拭く。玉に、血を、つけない。


 これは、きっと、何かの役に立つ。大事な情報だ。どんなふうに役立つのかは、まだ分からない。それでも、きっと俺たちの助けになってくれる。——根拠もなく、そう感じた。


 俺は、その言葉を胸の奥に、きつく握りしめた。


 #六


 謎の"何か"と別れて、一時間ほどが過ぎた頃だった。


 俺たちは廃ビルの周辺を、巻物を集めるために歩いていた。もちろん、傷ついた女の子には十分に配慮しながら。次に"あそこへ来い"と言われた時刻までに、少しでも手札を増やしておきたかった。


 その時、少し前方に、動く影を見つけた。


 ナマハゲだった。


 初日に、一度だけ遭遇していた。あの時は巻物を駆使して、なんとか逃げ切った。つまり今、俺たちは知らないうちに、ナマハゲの行動エリアに足を踏み入れていたのだ。


 本来なら、すぐに引き返すべきだった。「区域からは出られない」という縛りを、そいつに課したのは、ほかでもない俺自身だ。危険なやつだと、誰より分かっていたはずだった。


 けれど、ここでふと、さっきのことが頭をよぎった。


 あの"何か"と、このナマハゲ。何か、関わりがあるんじゃないか。


 根拠はなかった。まったく、なかった。ただ、一度そう思ってしまうと、その考えは頭から離れなくなった。あの廃ビルで感じた湿った視線。ナマハゲの、決まった場所をただ歩き続ける、あの淀んだ気配。どこかで、繋がっている気がした。


 俺は、ナマハゲに直接、話しかけることにした。


「やめてください!」女の子が、声を振り絞った。「死にますよ!」


 おじさんも、俺の腕を掴んだ。必死だった。当然だ。正気の沙汰じゃない。自分で「危険だから縛っておけ」と言い張った相手に、自分から近づこうというのだから。


 俺は、二人の手を振り払った。


「……すぐ、戻る」


 そう言い残して、一人、ナマハゲのほうへ歩いていった。


 ナマハゲは、静かにこちらを見ていた。


 襲ってこなかった。身構える様子もなかった。ただ、こちらを見て、まるで俺が何かを話し出すのを待っているみたいだった。


 俺は、話した。


 廃ビルのことを。扉の閉まった部屋のことを。体が動かなくなったことを。顔を覗き込んできた"何か"のことを。玉と、籠のことを。腕を刺され、女の子が腹を刺され、おじさんだけが無傷だったことを。そして、「血を拭いた」という、あの、意味の分からない行動のことを。


 ナマハゲは、聞いていた。


 静かに。まるで、その一つひとつに心当たりがあるみたいに。何かを知っている者だけが浮かべる、あの沈黙で。


 話すうちに、俺は、ナマハゲの体から、少しずつ力が抜けていくのが分かった。


 張りつめていた輪郭が、ゆっくりと緩んでいく。肩のあたりが、下がっていく。


 伝わった。


 なぜだか、そう思った。助かった、とさえ思った。こいつは、何かを知っている。そして今、俺の話を聞いて、何かを理解してくれた。同じ側に、立ってくれた。


 ナマハゲは、何かを考え込むように、ゆっくりと、反対の方向へ歩き出した。


 俺は、ほっとした。


 勇気を出して、よかった。踏み込んで、よかった。この一歩が、きっと、何かに繋がる。


 次の瞬間、俺の首は、掴まれていた。


 いつ、距離を詰められたのか。反対に歩いていったはずのそいつが、どうやって。分からなかった。何も、分からなかった。


 指が、信じられないほど強かった。


 空気が、入ってこない。足が、地面から離れる。喉の奥で、ひゅう、と細い音が鳴った。


 今、確かに、通じ合ったはずだった。力が抜けて、歩き去ったはずだった。なぜ。痛みより先に、その疑問だけが、薄れていく頭の中をぐるぐると回る。


 そのとき、気づいた。


 ポシェットの奥の『白紙の巻物』が、ありえないほど熱を持っている。手が届くはずもないのに、あのザラついた紙の感触が、手のひらに、直接へばりついてくる。


 頭の芯で、何かがカチリと音を立てた。


(装着——)


 誰が唱えたのかは、分からない。俺か、ナマハゲか、あるいはこの盤面そのものか。


 右手の【韋駄天】も、ストックしていたすべての巻物も、一瞬で消え去った。そして——一番古い『俺』という存在そのものが、最新の白紙によって、猛烈な勢いで上書きされていく。


 意識が、糸の切れる音もなく。


 切れた。


 # 七


 息が、できた。


 吸える。胸が膨らむ。肺の奥まで、空気が流れ込んでくる。その感覚があまりにも鮮烈で、俺は、それだけで泣きそうになった。


 必死に、呼吸をした。何度も、何度も。吸って、吐いて、吸って。空気が、こんなにも甘いものだったなんて。


 全身が、汗でぐっしょりと濡れていた。


 助かった。そう、思った。


 逃げ切ったのか。それとも、誰かが助けてくれたのか。分からない。とにかく、生きている。息ができている。今は、それが全てだった。


 ぼやけていた視界が、ゆっくりと定まっていく。


 天井が、見えた。


 知らない、天井だった。


 木目の、古い天井。見覚えが、まったくない。ここはどこだ。盤面の、どこかなのか。いや、違う。あの作り物の森に、こんな天井はなかった。


 体を、起こそうとした。


 起こせなかった。力が入らない。いや、違う。そうじゃない。


 目の前に、手をかざしてみた。


 俺の手が、ありえないほど小さかった。


 子供の手だ。ふっくらとした、傷一つない、小さな手。腕を刺されたはずの、あの傷も、ない。


 辺りを、見渡した。


 知らない人が、数人、俺を覗き込んでいた。みんな、心底ほっとした、という顔をしていた。長い悪夢から覚めた我が子を見るような、そんな、安堵の表情で。


 そのうちの一人が、俺に向かって、何か言った。


 優しい、声だった。けれど、それは、俺の名前では、なかった。


 聞いたことのない、知らない名前。


 なのに。


 その、知らないはずの名前に、俺の体が、応えようとしていた。喉の奥が、ひとりでに震える。この肉体が、その名前を「自分のもの」だと、疑いもなく受け入れている。


 ——その時、血の気が引いた。


 白紙の巻物。装着すれば、一番古い力が上書きされ、消える。あのルールが、最後に上書きしたもの。それは、俺だ。


 この体は、奪ったものじゃない。乗っ取ったものでもない。細胞の一つひとつが、そう告げていた。これは——俺が、この世に生み出したものだ。俺の、子供。


 けれど、おかしい。


 俺に、子供などいない。結婚も、誰かと深く結ばれた記憶すら、あの霧の向こうには、ない。


 いるはずのない我が子の体の中で、俺は、目を覚ましている。


 俺が命を賭けて勝負を挑んだ、あの『理由』。それは——この子と、どう繋がっているんだ。


「——ちゃん。大丈夫? わかる?」


 目の前の大人が、また、その知らない名前を呼ぶ。


 俺の小さな口が、俺の意思を裏切って、にんまりと、歪に、笑おうとしていた。まるで、最初からこうなると決まっていたと、誰かが嗤うように。


 俺は、誰だ。


 この体の中にいるのは、本当に、俺なのか。


 それとも——あの白紙に仕込まれていた、まったく別の、何かなのか。




 ……………………………………………………

最後まで読んでいただきありがとうございます。


良ければ感想などお待ちしております。

初めて書いた文章なので、もしかしたら読みにくい部分もあったと思います。

改善点などがもしあれば、アドバイスいただけるとありがたいです。


誤字・脱字等ありましたら報告いただけると助かります。


読み切りとして書きましたが、今後自分の中でこのお話がまとまったら連載として書くかもしれません。

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