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お凛  作者: チョコバナナ


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1/1

お凛

人生には、やり直したいと思う日がある。

あの日、違う言葉をかけていれば。 あの日、違う道を選んでいれば。 あと少し早く気づいていれば。

そんな後悔を胸の奥に抱えながら、人は年を重ねていく。


お凛もそうだった。


貧しい長屋に生まれ、多くを失い、多くを手に入れた。

飢えを知り、別れを知り、人の情けを知った。


決して不幸な人生ではなかった。


それでも、死の間際まで消えなかった後悔がある。

救えなかった家族。

守れなかった人。

伝えられなかった想い。

もし人生をもう一度やり直せるなら。


あの年、あの日、あの春へ戻るなら。


これは、一人の女が二度目の人生を歩く物語である。

失ったものを取り戻すためではない。

今度こそ、大切な人たちと共に生きるための物語である。

人が死ぬとき、人生で最も幸せだった日の夢を見るという。


お凛は、それを誰から聞いたのか覚えていなかった。

ただ、最後に見た景色だけははっきり覚えている。


庭先の梅の木だった。


もう花の盛りは過ぎ、風が吹くたびに白い花びらが舞っていた。

縁側には孫たちが座り、誰かが団子を食べている。

嫁たちが忙しく立ち働き、ひ孫が転んで泣いていた。

にぎやかな光景だった。


幸せだったと言えば、きっと幸せだったのだろう。

商家の女主人として店を切り盛りし、多くの人に囲まれて老いた。

飢えることもなく、雨風をしのげない夜もなく、天寿を全うした。


だが。

瞼を閉じる直前、お凛の胸に浮かんだのは別の景色だった。

暗い長屋。

隙間風。


冷たい粥。

そして母の顔。

『もっと早く気づいていれば』


その後悔だけが残った。


兄を助けられたのではないか。

姉を救えたのではないか。

母を長生きさせられたのではないか。

何十年経っても、その思いは消えなかった。


だから死ぬ直前、小さく呟いた。

「もう一度だけ……」


誰に向けた願いだったのか。

神か。

仏か。

それとも運命か。


その瞬間、すべてが闇に沈んだ。

お凛は目を開いた。

最初に感じたのは寒さだった。


着物が薄い。

身体も軽い。

妙に軽い。

まるで骨ごと入れ替えられたような違和感だった。


耳元で赤子の泣き声がする。

その泣き声に聞き覚えがあった。

お凛はゆっくり顔を向ける。


小さな女の子が布団の端でもぞもぞ動いている。

顔を見る。

お鈴だ。

末の妹。

六十年以上前に生き別れた妹。


その瞬間、お凛の呼吸が止まった。

「……お鈴?」

声が幼い。


自分の声ではなかった。

慌てて手を見る。

小さい。

皺ひとつない。

幼児の手だった。


そのとき、背後から声がした。


「お凛、起きたのかい」

世界が止まった。

聞き間違えるはずがない。

二度と聞けないと思っていた声だった。


お凛は振り返る。


痩せた女が囲炉裏の脇に座っている。

髪は乱れ、着物は継ぎだらけ。

それでも目元だけは優しい。

母だった。

母のお梅だった。

五十年以上前に亡くなった母だった。

「母……ちゃん……」


お梅は不思議そうな顔をした。

「何だい。まだ寝ぼけてるのかい?」


次の瞬間、お凛は飛びついていた。

小さな腕で母にしがみつく。

涙があふれる。

止まらない。


お梅は慌てた。

「どうしたんだい!」

「母ちゃん……母ちゃん……」

それしか言えなかった。


温かい。

生きている。

夢ではない。

本当にここにいる。

お梅は困ったように笑い、お凛の頭を撫でた。

その手の感触に、お凛はまた泣いた。


前世でどれほど会いたかったことか。

どれほど後悔したことか。

だが、お梅は何も知らない。

目の前の娘が六十年以上を生きた女になっていることなど。


朝餉の時間になった。

囲炉裏を囲む兄妹たち。

お咲。

太吉。

お花。

寅之助。

お鈴。

全員が揃っている。


お凛は一人ひとりの顔を見た。

思わず息が詰まる。

生きている。

みんな生きている。

前世では失った家族。

もう二度と会えないと思っていた人たち。


太吉が眉をひそめた。

「何だよ。人の顔ばっか見て」

お凛は慌てて目を逸らした。

兄はまだ十歳くらいだ。

日に焼けた顔。

いたずら好きな目。

前世では二十歳を迎える前に亡くなった。


お咲も同じだ。

今はまだ十三歳。

だが三年後には奉公に出される。


その奉公先が、彼女の人生を狂わせる。

お凛は知っていた。

全部知っていた。

だからこそ恐ろしかった。


お梅が粥を配る。

相変わらず薄い。

ほとんど湯だ。

だが、この光景も知っている。

そして知っている。

来年の冬。

父が現場で怪我をする。


その二年後。

母が病に伏せる。

さらにその先。

姉が。

兄が。

妹が。

未来が次々頭に浮かぶ。


お凛の指が震えた。


前世では何もできなかった。

幼かった。

貧しかった。

知らなかった。

だが今は違う。


六十年以上生きた。

人も見た。


世の仕組みも知った。

騙す人間も。

利用する人間も。

恩を返す人間も。

全部知っている。


神様が本当に人生をやり直させてくれたのなら。

やることは一つしかない。

家族を守る。


お凛は静かに粥をすすった。

その時だった。


脳裏にある少年の顔が浮かんだ。

雪の日。

降り積もった白い道。

血で染まる着物。

そして最後まで真っ直ぐだった目。

九条新之助。

旗本九条家の庶子。

お凛が前世で唯一、心から尊敬し、そして救えなかった男。


二十七歳の若さで命を落とした男。

その時のお凛は三十を過ぎていた。

何もできなかった。

見送ることしかできなかった。

だが今なら違う。


まだ七歳のはずだ。

まだ生きている。

まだ何も始まっていない。

お凛は小さく息を吐いた。


まずは家族。

その次に、新之助。

もう誰も失わない。


そう決めた瞬間だった。

外から男の怒鳴り声が聞こえた。

「太吉!早く出てこい!」

父の声だった。

お凛の身体が固まる。


父も生きている。

前世で最初に失った人。

お凛は目を閉じた。

涙がこぼれそうになる。

しかし泣かなかった。


前世で泣くべきだけ泣いた。

今必要なのは涙ではない。

生きることだ。

守ることだ。


五歳の小さな身体の中で、六十七年を生きた女は静かに拳を握った。

こうして、お凛の二度目の人生が始まった。

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