お凛
人生には、やり直したいと思う日がある。
あの日、違う言葉をかけていれば。 あの日、違う道を選んでいれば。 あと少し早く気づいていれば。
そんな後悔を胸の奥に抱えながら、人は年を重ねていく。
お凛もそうだった。
貧しい長屋に生まれ、多くを失い、多くを手に入れた。
飢えを知り、別れを知り、人の情けを知った。
決して不幸な人生ではなかった。
それでも、死の間際まで消えなかった後悔がある。
救えなかった家族。
守れなかった人。
伝えられなかった想い。
もし人生をもう一度やり直せるなら。
あの年、あの日、あの春へ戻るなら。
これは、一人の女が二度目の人生を歩く物語である。
失ったものを取り戻すためではない。
今度こそ、大切な人たちと共に生きるための物語である。
人が死ぬとき、人生で最も幸せだった日の夢を見るという。
お凛は、それを誰から聞いたのか覚えていなかった。
ただ、最後に見た景色だけははっきり覚えている。
庭先の梅の木だった。
もう花の盛りは過ぎ、風が吹くたびに白い花びらが舞っていた。
縁側には孫たちが座り、誰かが団子を食べている。
嫁たちが忙しく立ち働き、ひ孫が転んで泣いていた。
にぎやかな光景だった。
幸せだったと言えば、きっと幸せだったのだろう。
商家の女主人として店を切り盛りし、多くの人に囲まれて老いた。
飢えることもなく、雨風をしのげない夜もなく、天寿を全うした。
だが。
瞼を閉じる直前、お凛の胸に浮かんだのは別の景色だった。
暗い長屋。
隙間風。
冷たい粥。
そして母の顔。
『もっと早く気づいていれば』
その後悔だけが残った。
兄を助けられたのではないか。
姉を救えたのではないか。
母を長生きさせられたのではないか。
何十年経っても、その思いは消えなかった。
だから死ぬ直前、小さく呟いた。
「もう一度だけ……」
誰に向けた願いだったのか。
神か。
仏か。
それとも運命か。
その瞬間、すべてが闇に沈んだ。
お凛は目を開いた。
最初に感じたのは寒さだった。
着物が薄い。
身体も軽い。
妙に軽い。
まるで骨ごと入れ替えられたような違和感だった。
耳元で赤子の泣き声がする。
その泣き声に聞き覚えがあった。
お凛はゆっくり顔を向ける。
小さな女の子が布団の端でもぞもぞ動いている。
顔を見る。
お鈴だ。
末の妹。
六十年以上前に生き別れた妹。
その瞬間、お凛の呼吸が止まった。
「……お鈴?」
声が幼い。
自分の声ではなかった。
慌てて手を見る。
小さい。
皺ひとつない。
幼児の手だった。
そのとき、背後から声がした。
「お凛、起きたのかい」
世界が止まった。
聞き間違えるはずがない。
二度と聞けないと思っていた声だった。
お凛は振り返る。
痩せた女が囲炉裏の脇に座っている。
髪は乱れ、着物は継ぎだらけ。
それでも目元だけは優しい。
母だった。
母のお梅だった。
五十年以上前に亡くなった母だった。
「母……ちゃん……」
お梅は不思議そうな顔をした。
「何だい。まだ寝ぼけてるのかい?」
次の瞬間、お凛は飛びついていた。
小さな腕で母にしがみつく。
涙があふれる。
止まらない。
お梅は慌てた。
「どうしたんだい!」
「母ちゃん……母ちゃん……」
それしか言えなかった。
温かい。
生きている。
夢ではない。
本当にここにいる。
お梅は困ったように笑い、お凛の頭を撫でた。
その手の感触に、お凛はまた泣いた。
前世でどれほど会いたかったことか。
どれほど後悔したことか。
だが、お梅は何も知らない。
目の前の娘が六十年以上を生きた女になっていることなど。
朝餉の時間になった。
囲炉裏を囲む兄妹たち。
お咲。
太吉。
お花。
寅之助。
お鈴。
全員が揃っている。
お凛は一人ひとりの顔を見た。
思わず息が詰まる。
生きている。
みんな生きている。
前世では失った家族。
もう二度と会えないと思っていた人たち。
太吉が眉をひそめた。
「何だよ。人の顔ばっか見て」
お凛は慌てて目を逸らした。
兄はまだ十歳くらいだ。
日に焼けた顔。
いたずら好きな目。
前世では二十歳を迎える前に亡くなった。
お咲も同じだ。
今はまだ十三歳。
だが三年後には奉公に出される。
その奉公先が、彼女の人生を狂わせる。
お凛は知っていた。
全部知っていた。
だからこそ恐ろしかった。
お梅が粥を配る。
相変わらず薄い。
ほとんど湯だ。
だが、この光景も知っている。
そして知っている。
来年の冬。
父が現場で怪我をする。
その二年後。
母が病に伏せる。
さらにその先。
姉が。
兄が。
妹が。
未来が次々頭に浮かぶ。
お凛の指が震えた。
前世では何もできなかった。
幼かった。
貧しかった。
知らなかった。
だが今は違う。
六十年以上生きた。
人も見た。
世の仕組みも知った。
騙す人間も。
利用する人間も。
恩を返す人間も。
全部知っている。
神様が本当に人生をやり直させてくれたのなら。
やることは一つしかない。
家族を守る。
お凛は静かに粥をすすった。
その時だった。
脳裏にある少年の顔が浮かんだ。
雪の日。
降り積もった白い道。
血で染まる着物。
そして最後まで真っ直ぐだった目。
九条新之助。
旗本九条家の庶子。
お凛が前世で唯一、心から尊敬し、そして救えなかった男。
二十七歳の若さで命を落とした男。
その時のお凛は三十を過ぎていた。
何もできなかった。
見送ることしかできなかった。
だが今なら違う。
まだ七歳のはずだ。
まだ生きている。
まだ何も始まっていない。
お凛は小さく息を吐いた。
まずは家族。
その次に、新之助。
もう誰も失わない。
そう決めた瞬間だった。
外から男の怒鳴り声が聞こえた。
「太吉!早く出てこい!」
父の声だった。
お凛の身体が固まる。
父も生きている。
前世で最初に失った人。
お凛は目を閉じた。
涙がこぼれそうになる。
しかし泣かなかった。
前世で泣くべきだけ泣いた。
今必要なのは涙ではない。
生きることだ。
守ることだ。
五歳の小さな身体の中で、六十七年を生きた女は静かに拳を握った。
こうして、お凛の二度目の人生が始まった。




