第2-1話:算定不能の石ころと店長の吐息
新宿の地下を走る電車の微かな振動が、安アパートの床を通じて伝わってくる。
俺、鈴木慎一は、1Rの狭いキッチンで、昨日コンビニで買っておいた150円の強炭酸飲料を喉に流し込んでいた。
時刻は午前10時。バイトの出勤まではまだ時間がある。
本来なら、高校を卒業したばかりの18歳。同級生たちは大学のサークル勧誘に浮かれたり、大手探索者ギルドの研修で汗を流したりしている頃だろう。
「……ふぅ。やっぱり、この『何もしなくていい時間』が最高だな」
俺は自分の両手を握り、開き、その感触を確かめる。
驚くほど、身体が軽い。
高校三年間、探索者育成コースの最底辺である『荷物持ち(ポーター)』として、エリートたちの重い予備装備やポーション、果ては彼らの「栄光の重み」まで肩に食い込ませて歩き続けてきた俺の身体。
慢性的だった腰の重みや、階段を上るたびに悲鳴を上げていた膝の痛み。それらすべてが、今朝は霧が晴れたように消え去っている。
原因は、昨日バイト先の店長・氷室冴子からもらった『魔力おにぎり』だ。
元S級探索者である彼女の、あまりに高純度で穏やかな治癒魔力。それが寝ている間に俺の細胞の隅々まで行き渡り、Lv1という脆弱な器を、完璧なまでにメンテナンスしてしまったらしい。
(……新宿の空気は、案外健康にいいのかもな。あるいは、あの古い修理店の埃が、俺の体質に合ってるのか)
俺は、彼女の恩恵を「環境のせい」にして、都合よく解釈した。
彼女のあの、熱っぽくてどこか危うい視線を「感謝」や「期待」として受け取ってしまったら、俺のモブとしての平穏が崩れてしまう。
俺はあくまで、ただの背景。
彼女はあくまで、ただの雇い主。
その境界線を守ることこそが、石ころとして生きるための鉄則なのだ。
12時を過ぎ、俺はアパートを出た。
新宿駅前の広場を通り抜ける際、街頭の大型ビジョンでは、勇者レオンの単独インタビューが流れていた。
『――僕が戦い続けられるのは、平和を願う皆さんの声があるからです。そして、僕を支えてくれる最高の仲間たちがいるから。……鈴木くん? いえ、そんな名前の団員は心当たりがありませんが、かつての候補生なら、きっと今頃どこかで幸せに暮らしているでしょう』
レオンの、非の打ち所がない爽やかな笑顔。
それを見上げる群衆の、羨望の眼差し。
(……正解だよ、レオン様。俺みたいな名前は、あなたの輝かしい記憶に残っちゃいけないんだ)
俺は、群衆の認識を滑り抜けるようにして、路地裏へと滑り込んだ。
『モブの極意』を意識せずとも、俺の存在は街の風景に溶け込んでいく。
誰にも見られず、誰にも期待されず、ただの空気として街を漂う心地よさ。
カランカラン、と寂びた鈴の音を鳴らして、俺は『氷室魔道具修理店』の扉を開けた。
「……来たわね。慎一君」
カウンターの奥、白衣を羽織った冴子が、獲物を待つ蜘蛛のような……いや、迷子を待つ聖母のような、形容しがたい眼差しで俺を迎えた。
「……こんにちは、店長。今日から本腰を入れて、あの棚の盾を全部片付けようかと思いまして」
「……ええ、そうして。でも、その前に……少しだけ、付き合ってくれるかしら?」
冴子が取り出したのは、見たこともない奇妙な形状のデバイスだった。
半透明の結晶が複雑に組み込まれた、拳銃のような、あるいはスカウターのような機械。
「……店長、それは? 掃除道具には見えませんが」
「……最新鋭の魔力測定器『アステリオス』よ。元S級のコネで、特別に借りてきたの。あなたのその……『無』の正体を、少しだけ数値化しておきたくて」
冴子の瞳には、昨日よりもさらに深い、探求心という名の「執着」が宿っていた。
彼女の『真眼』は、俺の隣にいる間だけ、世界が静かになるという奇跡を観測している。
だからこそ、彼女はその「静寂の源」である俺を、論理的に解析し、逃がさないための檻を欲しているようだった。
「……解析なんて、大げさですよ。俺、ただのLv1ですし、測るほどの魔力なんてありませんよ」
「……いいから、そこに座って。いつものように、盾を磨き始めてちょうだい」
俺は促されるまま作業台に座り、煤けた盾を手に取った。
冴子が横に立ち、俺の頭上から『アステリオス』を向ける。
ピッ、ピッ、と機械的な音が店内に響く。
「……計測、開始。……魔力波形、検出不能? いえ、エラーじゃない。波形そのものが『0』を維持したまま、周囲のノイズを吸収している……?」
冴子の声が、驚愕に震え始めた。
俺は構わず、盾を磨き続ける。
ボロ布を動かすたび、呪いの煤が剥がれ落ち、俺の指先を通じて「虚無」が盾に浸透していく。
「……出力、最大! 解析レベルをフェーズ5に……! おかしいわ、こんなこと。測定器のキャパシティを、あなたの『何もない気配』が食い潰している!」
『アステリオス』の結晶体が、異常なまでの熱を帯び始めた。
赤い警告灯が点滅し、機械が激しく振動を始める。
「……店長、その機械、火を噴きそうですよ? 壊れる前に止めた方が――」
「……まだよ! あと少しで、あなたの底が見え……っ!」
パキィィィィィィィィィィィン!!
凄まじい破裂音と共に、冴子の手に持っていた『アステリオス』が、内側から弾け飛んだ。
飛び散る結晶の破片。
しかし、その破片すらも、俺の周囲数センチの空間に触れた瞬間、勢いを失ってパラパラと床に落ちた。
「…………あ」
呆然と、自分の空になった手を見つめる冴子。
時価数千万は下らないであろう最高級のデバイスが、今やただの焦げた鉄屑と化している。
「……壊れちゃいましたね。やっぱり、中古品はダメですよ。俺みたいなLv1を測るのに、そんな気合を入れるから……」
俺は、壊れた機械を見て落ち込む冴子に、精一杯の「慰め」をかけた。
「……店長、俺が直せればいいんですけど、掃除しかできないんで。……でも、その代わり、この盾は完璧に綺麗にしておきますから。ね?」
俺は無造作に、黒焦げた機械の残骸をゴミ箱へ放り込み、再び盾を磨き始めた。
冴子は、しばらくの間、無言で立ち尽くしていた。
だが、やがて彼女の肩が、小刻みに震え始める。
「……あは、あははは……っ。……そうよね。中古のガラクタだものね。私の最高級品を、そうやって『ゴミ』扱いできるのは……世界中で、あなただけよ。慎一君」
冴子の顔が、熱っぽく紅潮していく。
恐怖を通り越した恍惚。
自分の誇りであった『真眼』やデバイスが通用しない、底知れぬ「無」の深淵。
彼女は、その「絶対的な背景」である俺という存在に、抗えないほどの快感と依存を感じ始めていた。
「……さあ、続けて。その布で、私の世界をもっと、真っ白に塗りつぶして……」
背後からかけられる言葉は、ますます意味不明になっていく。
(……やっぱり、この店長、ちょっと疲れてるんだな。明日からはもっと、ビタミン剤の入った差し入れでも持ってこようか)
俺は相変わらずの鈍感さを発揮しながら、ひたすら盾を磨き続ける。
だが。
その時、店の外の薄暗い路地裏。
一人の少女が、スマートフォンの画面と睨み合いながら、不規則な魔力ログを追っていた。
「……見つけた。間違いないじゃん。昨夜の『ボイド』が発生した源流、このボロい修理店に繋がってる……!」
派手な金髪メッシュ。
如月咲良が、一千万人のフォロワーに見守られたカメラを掲げ、修理店の扉に手をかけようとしていた。
鈴木慎一、バイト3日目。
俺の「石ころの平穏」に、最初の波風が立とうとしていた。




