第1-5話:石ころと魔女の聖域
安アパートの薄い壁越しに、カラスの鳴き声と遠くを走る電車の音が聞こえてくる。
俺、鈴木慎一は、スマートフォンのアラームが鳴る数分前に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む朝日は、空気中に舞う埃をキラキラと照らしている。
昨日、勇者パーティーの面接に落ち、路地裏の修理店でバイトを決めた。
たった一日の出来事のはずだが、不思議と数ヶ月も前のことのように感じられるのは、あの『氷室魔道具修理店』の静寂が、あまりに濃密だったからだろうか。
(……身体が軽いな。昨日までの泥のような重さが嘘みたいだ)
起き上がって軽く伸びをすると、関節が驚くほどスムーズに動く。
高校三年間、探索者育成コースで凛花たちの巨大なバックパックを背負い続け、慢性的な腰痛と筋肉痛に悩まされていた俺の身体。
それが今、まるで新品のパーツに交換されたかのような万全の状態にある。
原因は明らかだ。昨夜食べた、店長の冴子からもらったあのおにぎり。
高純度の治癒魔力が込められたあの食事が、寝ている間に俺の細胞一つひとつを丁寧にメンテナンスしてくれたらしい。
Lv1の貧弱な身体には、本来なら受け入れきれないほどの過剰な回復量だが、俺の『モブの極意』がその「過剰な刺激」すらも背景へと逃がし、純粋な回復効果だけを抽出したようだった。
俺はキッチンに立ち、水道水をコップ一杯飲み干した。
昨夜買った強炭酸飲料の空き缶が、シンクの横で静かに佇んでいる。
かつての高校時代、実習で泥まみれになり、ボロボロの身体で帰宅しては、翌朝の筋肉痛に怯えながら湿布を貼っていたあの日常。
俺の役割は、主役たちが万全で戦えるよう、その「疲れ」すらも俺が代わりに荷物として背負うことだった。
その重荷が、一晩で綺麗さっぱり消えている。
(……さて。13時までは自由時間か。何をしようかな)
モブにとって、この「誰にも干渉されない、誰の役にも立たない時間」こそが至高の贅沢だ。
俺は適当な色褪せたTシャツに着替え、昨日ギルドから受け取った「一般職向け」の就職支援資料を手に取った。
パラパラと捲れば、そこには『安定したキャリア』『社会貢献』『チームでの成長』といった、俺の平穏を根こそぎ奪い去りそうな眩しすぎる単語が踊っている。
「……ゴミ箱行き、だな」
迷うことなく、資料をプラスチックゴミの袋へ放り込んだ。
エリート探索者の補助や、大企業の事務職なんて真っ平ごめんだ。
あの埃っぽくて薄暗い店内で、冴子店長の熱っぽい、それでいてこちらの領域を侵さない独特の視線をスルーしながら、黙々と煤を落とす。
それだけで、俺の人生は完成している。
正午を過ぎ、俺はアパートを出た。
『モブの極意』を自然体で発動させながら、新宿の喧騒へと足を踏み入れる。
このスキルは、俺が「自分は景色の一部だ」と強く意識すればするほど、その効果を増す。
駅へ向かうサラリーマンの波、昼食を求めて歩き回る学生たち。
彼らの視線は俺の上を滑り、まるで最初からそこに誰もいなかったかのように通り過ぎていく。
駅前の大型ビジョンでは、相変わらず勇者パーティーの最新攻略状況がリピート再生されていた。
「……あ」
ふと、ビジョンの隅に映り込んだ「不自然なノイズ」に目が止まる。
それはレオンたちの華麗な戦闘シーンではなく、その周囲を警戒飛行していた観測ドローンの記録映像だった。
『――昨夜、新宿区内で稼働していた一部の公共配信ドローンにて、原因不明の映像エラーが発生しました。専門家は局所的な魔力干渉の可能性を示唆していますが、ネット上では「謎の空白」として注目を集めています……』
ニュースキャスターの声と共に、一瞬だけ静止画が表示される。
それは昨夜、俺がベンチに座っておにぎりを食べていた場所の、わずか数メートル横を捉えたものだ。
映像は砂嵐のように激しく乱れ、周囲の景色がデジタル的なモザイクに崩れている。
だが、そのノイズの中心に、ぽっかりと穴が開いたような、円形の「無」が存在していた。
俺の『モブの極意』が、最新鋭の光学センサーに「認識すべき対象が存在しない」という矛盾を突きつけた結果、システムの論理回路が悲鳴を上げた証拠だ。
(……げっ。あれ、俺のスキルの影響か? 思ったより派手にバグらせてるな)
幸い、誰もそれが「おにぎりを食っている人間」だとは夢にも思っていないようだが、あの如月咲良のような直感に優れた配信者がこれを見たら、面白がって嗅ぎ回ってくるかもしれない。
俺はキャップのツバを深く下げ、足早に路地裏へと滑り込んだ。
光の届かない場所。魔力の淀みと、古びた鉄の匂いが混ざり合う、あの修理店の前まで。
カランカラン、と寂びた鈴の音が店内に響く。
一歩足を踏み入れた瞬間、外の世界の耳障りな喧騒が、魔法で消されたかのように遮断された。
「……来たわね。鈴木君」
カウンターの奥。
昨日と同じ白衣を羽織り、分厚い眼鏡の奥で「真眼」を煌めかせている冴子が、そこにいた。
彼女は俺が入ってきた瞬間、明らかに安堵したように肩の力を抜いたが、すぐにそれを隠すように事務的な無表情を装った。
彼女の作業机の上には、昨日よりもさらに山積みになった「煤まみれの遺物」が置かれている。
そしてその脇には、丁寧に竹の皮で包まれた、まだ温かい包みが二つ。
「……今日も、用意しておいたわ。具は、おかかと焼きたらこよ。昨日、梅干しは酸っぱすぎなかったかしら?」
「……いえ、美味しかったです。でも、仕事の前にいただくわけには」
「いいえ。……あなたがそれを食べて、その『無』の魔力を私の店に満たしてくれることが、何よりの報酬なの。昨夜、あなたが帰った後のこの店は……あまりに騒がしくて、眠れなかったわ」
あまりに唐突な店長の言葉に、俺の手が止まった。
騒がしくて眠れない? この路地裏の、ネズミ一匹通らないような静かな店が?
俺が困惑した表情を浮かべると、冴子は自嘲気味に眼鏡のブリッジを押し上げた。
「……私のこの『真眼』はね、望まなくても視えてしまうのよ。棚にある未清掃の魔道具たちが放つ、残留思念の微かな残響が。夜の闇の中では、それがチカチカと耳障りな光のノイズになって、私の脳を休ませてくれないの」
冴子は、俺のすぐ隣に歩み寄り、俺の肩越しに積まれたガラクタを見つめた。
「でも、不思議ね。あなたがここにいて、その石ころのような気配で作業をしている間だけ、私の視界から余計な情報が消えていく。あなたの『無』が、荒れ狂う魔力のノイズを塗りつぶしてくれるの。……昨夜、あなたが帰った瞬間に、あの眩しさが戻ってきたわ。だから……お願い。今日は少しでも長く、ここにいて」
なるほど。合点がいった。
元S級探索者ともなれば、感知能力が高すぎて、普通の人間には聞こえない「魔力的な騒音」に悩まされる職能病(職業病)のようなものがあるのだろう。
俺の『モブの極意』は、周囲の情報を消し去る性質がある。それが彼女にとっては、最高性能のノイズキャンセラーとして機能しているわけだ。
(好意じゃなくて、機能的に求められてるだけか。それなら気楽でいいな)
俺は納得し、エプロンを締めた。
「わかりました。物理的な騒音はどうにもなりませんが、魔力的な静寂なら、いくらでも提供しますよ。」
「……ええ。頼りにしているわ」
冴子が、満足げに頬を緩ませ、俺のすぐ後ろに椅子を持ってきた。
昨日よりもさらに近い距離。
俺は作業台に座り、まずは手近にあった煤けた短剣を手に取った。
背後で、冴子が俺の項を、あるいは背中の輪郭を、文字通り舐めるように見つめながら、小さく、恍惚とした吐息を漏らした。
鈴木慎一。バイト二日目。
外の世界では、俺という存在の欠落が、静かに、しかし確実に周囲を狂わせ始めている。
だが、この埃っぽい聖域の中にいる限り、俺はまだ、ただの「背景」のままでいられるはずだった。




