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世界最強の勇者パーティーをクビになったので、路地裏で静かに『石ころ』を目指します  作者: 寝不足魔王


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第1-3話:石ころと魔女の聖域

 採用が決まってから、三時間が経過した。

 新宿の喧騒から隔絶された『氷室魔道具修理店』の奥。俺は、店主の氷室冴子から手渡された『呪いのすす』にまみれた古びた盾を、無心で磨き続けていた。


 シュッ、シュッ、という布が金属を擦る音だけが、店内の静寂に溶けていく。

 普通、ダンジョンから持ち出された遺物に付着している『煤』は、微弱な負の魔力を帯びている。不用意に触れれば精神を汚染され、悪夢を見たり、高熱にうなされたりするものだ。

 だからこそ、専門のクリーナーは特殊な防護手袋と、精神を安定させる高価な香を焚きながら作業を行う。


 だが、俺は素手だ。

 エプロンこそ借りているが、特別な装備は何一つ身につけていない。


(……不思議だな。これ、ただの埃と変わらない気がするんだけど)


 俺の固有スキル『モブの極意(Lv1)』。

 それは、周囲からの認識を阻害するだけではない。俺自身が「背景」として世界に同化することで、あらゆる「悪意」や「干渉」からも見落とされる。

 呪いですら、俺を「そこにいる人間」として認識できないのだ。

 ただの石ころに呪いをかけても意味がないように、俺に付着した煤は、ただの汚れた灰としてハラハラと床に落ちていく。


「…………すごいわ」


 不意に、横から熱っぽい吐息が漏れた。

 驚いて顔を向けると、そこには自分の作業机を放り出し、椅子の背もたれを抱えるようにして俺を凝視している冴子の姿があった。

 彼女の眼鏡の奥、その瞳はわずかに潤み、陶酔したような光を宿している。


「……あの、店長。何か、やり方が間違っていますか?」

「いいえ……完璧。信じられないほど、丁寧で、無慈悲なまでに静かな手つき……。私の『真眼』でも、あなたの魔力の揺らぎが全く見えない。まるで、虚無が盾を洗っているみたい」

「はあ、恐縮です。……ただ、そんなに見つめられると、少し作業がしづらいのですが」


 俺が困ったように言うと、冴子はハッとしたように頬を赤らめ、視線を泳がせた。

 元S級探索者。かつては『万物を見通す魔女』と恐れられた彼女も、今ではただの、少し情緒が不安定な独身女性にしか見えない。


「……ごめんなさい。つい、ね。……私、引退してからというもの、情報の洪水に酔っていたのよ。どこに行っても他人の感情や、魔道具の恨み節が視界に飛び込んできて……。でも、あなたの隣にいると、不思議と全部消えてしまうの」


 冴子は、震える指先で自分のこめかみを押さえた。

 彼女のスキル『深淵の真眼』は、あらゆる真実を見抜く。それは探索においては最強の武器だが、日常においては、見たくないものまで見えすぎる「呪い」だったのだろう。

 だが、俺という「無」の隣にいれば、その真眼すらも「何も映さない」という休息を得られる。


「……あなたは、私の救世主メサイアかもしれないわ。鈴木君」

「いえ、ただの時給1100円のバイトですので」


 俺は淡々と答え、二枚目の盾を手に取った。

 救世主なんて、そんな目立つ肩書きはお断りだ。俺はただ、この静かな店の一部になりたいだけなのだから。


 作業を再開してしばらくすると、店の外からかすかな喧騒が漏れ聞こえてきた。

 表通りの大型ビジョンが、再び勇者レオンの帰還を報じているらしい。

「レオン様ー!」「リリア様、こっち向いてー!」という、熱狂的なファンの叫び声。

 その中には、俺の名前を呼ぶ声など、一欠片も混ざっていない。


(ああ、平和だ。本当に、平和だなぁ……)


 俺は、心の底から安堵していた。

 今頃、凛花は「慎一くんがいないなら、私はもうダメです……」とか何とか言って、レオンを困らせているかもしれない。だが、それも時間の問題だ。

 勇者の眩しい光の中にいれば、俺のような影の薄い男のことなんて、すぐに記憶の彼方へ追いやられる。それが、この世界の正しいルールなのだから。


 俺は、隣で幸せそうに目を細め、俺の作業机に少しずつ椅子を寄せてきている冴子の存在を無視しながら、ひたすら盾を磨き続けた。

 彼女の指が、時折、俺の服の裾に触れる。

 まるで、そこに俺が実在していることを確かめるような、縋るような接触。

 だが、俺は何も言わない。

 背景は、語らないものだ。


「……明日も、来てくれるかしら?」

 

 作業終了の時刻。

 冴子が、まるでおもちゃを取り上げられた子供のような不安な瞳で、俺を見上げてきた。

 俺は、汚れたエプロンを丁寧に畳み、棚に置く。


「はい。シフト通り、明日も13時から入ります」

「……そう。よかった。……これ、今日の分の給料と……その、おまけよ」


 彼女から手渡された封筒の中には、規定の時給に加えて、なぜか高級な栄養ドリンクと、手作りの(ように見える)おにぎりが入っていた。


「……おにぎり、ですか?」

「……洗浄作業は、体力を消耗するから。……変なものは、入れていないわ。ただの、梅干しよ」


 彼女は顔を伏せ、耳まで真っ赤にしながら、俺を追い出すように店の奥へと引っ込んでしまった。

 俺は一人、薄暗い店内に残される。

 

 不思議な店主だ。

 だが、嫌な感じはしない。

 俺は封筒をポケットにしまい、カランカランと鈴を鳴らして店を出た。


 新宿の夜景が、目に飛び込んでくる。

 魔力のネオンが街を彩り、空には観測ドローンが星のように瞬いている。

 俺は、その光の届かない路地裏の影に身を潜めるようにして、自分自身の、ちっぽけで幸福な家路へと足を向けた。


 鈴木慎一、十八歳。

 目標:なし。

 現状:背景。


 このまま、何事もなく明日も、明後日も、この穏やかな時間が続いていく。

 その時は、本気でそう信じていた。


 自分の知らないところで、聖女・凛花が俺の脱ぎ捨てた部屋着を抱きしめて号泣していることも。

 そして、明日の今頃には、一人の派手な少女が「放送事故」と共に、俺の平穏を土足で踏みにじりに来ることも――。

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