第1-2話:不意義な再就職
新宿の喧騒から逃れるように、俺はわざと裏路地を選んで歩いていた。
大通りを埋め尽くす巨大なホログラム広告や、次世代魔力車のエキゾーストノートが遠ざかる。代わりに耳に届くのは、古びた換気扇の回る音と、ダンジョンから漏れ出した微量な魔力が建物の隙間で爆ぜるパチパチというノイズだけだ。
「……ふぅ。やっぱり、こっちの方が落ち着く」
俺は、スマートフォンの画面を無造作にスクロールした。
勇者レオンの言った通り、ギルドの推薦状があればホワイト企業の事務職くらいには潜り込めるだろう。だが、そんな場所には必ず「向上心」だの「チームワーク」だのといった、俺の平穏を脅かす眩しすぎる言葉が溢れている。
俺が求めているのは、ただの背景だ。誰の記憶にも残らず、定時に消えて、安いアパートで一人静かに発泡酒を飲む。そんな石ころのような生活。
スキルの影響か、路地裏の野良猫すら俺に気づかず、足元を素通りしていく。
この『モブの極意』は、レベル1とはいえ、現代社会を生き抜くには最高の能力だ。他人の視線という「毒」を一切浴びずに済む。
俺は満足感に浸りながら、さらに路地の奥へと足を進めた。
そこは、ダンジョンの魔力汚染が少しだけ濃く、一般人が足を踏み入れるのをためらうような一角だった。
ふと、一軒の店の前で足が止まった。
周囲のビルに押し潰されそうな、古びた木造二階建ての店舗。
軒先には、手書きで掠れた看板が掲げられている。
『氷室魔道具修理店 ~遺物の洗浄から呪いの解除まで~』
ショーウインドウの中には、煤けた剣の柄や、ひび割れた魔導書の断片、用途不明の歯車が乱雑に積み上げられていた。
キラキラした最新の装備ショップとは対極にある、埃とオイルの匂いが漂ってきそうな店構え。
そして、その入り口の脇に、一枚の黄ばんだ求人紙が貼られていた。
『求む、掃除。無口な者、歓迎。時給1100円』
(……これだ)
俺の直感が、そう告げていた。
「無口な者、歓迎」――。
これほどまでに、今の俺に相応しい言葉があるだろうか。
魔道具の修理店なら、客の出入りも少ないはずだ。ダンジョン遺物の洗浄なんて、地味で孤独な作業の極致。
俺は、迷うことなくその店の扉に手をかけた。
カランカラン、と寂びた鈴の音が、静かな店内に響き渡る。
一歩足を踏み入れると、そこには強烈な魔力の臭いと、それ以上に濃厚な「静寂」があった。
店内は、外観から想像するよりもずっと奥が深い。
壁際の棚には、所狭しとラベルの剥がれた瓶や、魔物の素材らしき骨が並んでいる。
そのカウンターの奥、山積みにされたガラクタの向こう側に、一人の女性がいた。
白衣を羽織り、焦点の合わない瞳で古いナイフを磨いている。
氷室冴子。
分厚いレンズの眼鏡越しに見える彼女の顔立ちは、驚くほど整っていた。だが、その表情には生気がなく、まるで精巧に作られた自動人形のような無機質さを漂わせている。
「……あの、求人を見て来たんですが」
俺の声に、彼女の手が止まった。
ゆっくりと、まるで錆びついた歯車が動き出すような、重々しい動作で彼女が顔を上げる。
眼鏡の奥の瞳が、俺を捉えた。
「…………」
彼女は無言で、俺を凝視した。
十秒、二十秒。
あまりに長い沈黙に、俺は少しだけ居心地が悪くなる。
やはり、レベル1の無職が突然来るのは場違いだっただろうか。この店主、元S級探索者だとギルドの資料にあった気がするし、俺のような「石ころ」は不快だったかもしれない。
「……すみません、やっぱり出直しま――」
俺が踵を返そうとした、その時。
「……待って」
冴子の声が、低く、かすかに震えながら響いた。
彼女の瞳に、これまでにはなかった奇妙な光が宿る。
それは、砂漠でオアシスを見つけた旅人のような、あるいは、暗闇で唯一の灯火を見つめる者のような、切実で、どこか危うい色だった。
「……あなた。今、そこに、いたの?」
「えっ? あ、はい。扉を開けて入ってきましたが」
「信じられない……。私の『真眼』をすり抜けて、目の前に立つなんて……」
冴子が、ふらふらと幽霊のような足取りでカウンターから出てくる。
彼女の視線が、俺の身体の端から端までを、まるで鑑定品を調べるように舐め回した。
普通なら不気味に感じるところだが、俺は「ああ、やっぱりモブすぎて見えなかったのかな」と、自分のスキルの優秀さに悦に浸っていた。
「……合格。今すぐ、そのエプロンを着て。あなたの席は、ここよ」
彼女が指差したのは、自分の作業机のすぐ隣にある、小さな丸椅子だった。
面接も、履歴書の確認も、氏名の確認すらもない。
ただ、彼女の視線は俺に釘付けのままで、その瞳にはどろりとした熱が宿り始めている。
「……あの、時給とか、仕事内容の説明とかは……?」
「そんなものはどうでもいいわ。……あなたは、ただ、そこにいればいい。私の視界の端で、石ころのように静かに笑っていればいいの」
「はあ……。笑うのは苦手ですが、静かにしているのは得意です」
冴子が、至近距離まで近づいてきた。
彼女の吐息が首筋にかかり、微かに石鹸と鉄錆の匂いが混ざったような香りが鼻を突く。
彼女は、俺の袖口を震える指先でそっと掴んだ。
「……落ち着くわ。こんなに心拍数が安定したのは、引退してから初めて。……あなたの気配、本当に『無』なのね。素晴らしいわ」
「……恐縮です」
どうやら、変な店主に気に入られてしまったらしい。
だが、これは俺にとって好都合だ。
元S級が店主なら、下手な魔物や厄介事も寄り付かないだろう。俺はここで、誰にも知られず、ただの背景として過ごせばいい。
「さあ、始めましょう。まずは、その盾に付着した『呪いの煤』を拭き取って。……ゆっくりでいいわ。私が、ずっと見ていてあげるから」
「……はい。よろしくお願いします、店長」
俺は、手渡されたボロ布を手に取り、無言で作業台に向かった。
隣では、冴子が自分の作業を放棄して、俺の手元を恍惚とした表情で見つめている。
その視線には、勇者レオンが向けてきた「憐れみ」とは全く異なる、何というか……「執着」のような重苦しさが含まれていたが、俺はそれを完璧に無視することに決めた。
なぜなら、俺はモブだからだ。
他人の感情なんて、背景である俺には関係のないことなのだ。
こうして、俺の「目標のない日常」は、最悪で最高のスタートを切った。
窓の外では、依然として勇者たちの活躍を伝えるニュースが流れている。
だが、この埃っぽい修理店の中だけは、外の世界とは切り離された、俺だけの静寂が守られていた――はずだった。




