第9話:裏社会の噂
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裏社会に、波紋が広がっていた。
新宿・歌舞伎町の地下。ネオンの光が届かない底の底。かつて蛇の目が密売の拠点としていたバーの跡地で、男たちがテーブルを囲んでいた。
「聞いたか。蛇の目のB級が三人、一晩で全滅したらしい」
「おいおい、三人まとめてか? 誰にやられた」
「白雪——特務機関のS級だよ。だがそれだけじゃねぇ。白雪が来る前に、もう二人は片付けられてたって話だ」
「誰に?」
「……ファントム」
その名前が出た瞬間、テーブルの空気が変わった。
「おいふざけんな、ファントムって……あの都市伝説か?」
「都市伝説じゃねぇ。実在する。毒蛾も、蛇の目のB級も——全部、能力を消されて沈められてる」
「能力を消す異能者——嘘だろ……」
誰かが唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。
ファントム。裏社会で囁かれる掃除屋の名前。これまでは「そんな奴がいるらしい」程度の噂話に過ぎなかった。確かな証拠はなく、被害者たちの証言は断片的で信憑性に欠け、都市伝説の域を出なかった。
だが——蛇の目の壊滅によって、ファントムの実在が裏社会の「常識」となりつつあった。
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聖嶺学園。保健室。
昼休みの保健室は、養護教諭——灰原が管理する「安全地帯」だった。
表向きは気怠い雰囲気の養護教諭。だが実態は、裏社会で名の知れた情報屋兼仲介人。黒瀬零の唯一の協力者であり、掃除屋ファントムの活動を裏から支える影の存在。
白いカーテンで仕切られたベッドの奥で、黒瀬と灰原が小声で話していた。
「お前の名前の価値が上がっている」
灰原がデスクに頬杖をつきながら言った。白衣の下、片目を前髪で隠した顔に、いつもの皮肉な笑みはない。
「蛇の目の件で、ファントムの実在が確定した。それ自体は時間の問題だったが……問題は、それに伴って高額依頼が増えていることだ」
「断れるものは断る」
黒瀬はベッドの端に座り、天井を見ながら言った。
「俺は平穏に暮らしたい。卒業まであと一年半、波風立てずにやり過ごせればいい」
「だったら——」
灰原が微かに目を細めた。
「あの白石って嬢ちゃんと仲良くするのをやめろ」
黒瀬の視線が、わずかに揺れた。
「S級エージェントの近くにいれば、いずれバレる。お前の正体が——あるいは、あの嬢ちゃんの正体が、それぞれの界隈に漏れる。どちらに転んでも面倒だ」
「……向こうが来るんだ。俺じゃない」
「来るのを拒まないのは、受け入れているのと同じだ」
黒瀬は答えなかった。灰原の言うことは正しい。理屈では分かっている。白石との距離を保つべきだ。自分は掃除屋で、彼女は特務機関のエージェント。本来、最も近づいてはいけない関係。
だが——「おはよう」と毎朝言いに来る白石を、追い払うことが自分にできるのか。
「……善処する」
「その言葉、政治家の常套句だぞ。一番信用ならない」
灰原はため息をつき、デスクの引き出しから封筒を取り出した。
「まぁいい。もう一つ問題がある。高額依頼が増えている一方で——お前を狩ろうとする連中も出てきている」
「狩る?」
「能力を無効化する異能者。使い方によっては最強の兵器だ。お前を生け捕りにして、自分の組織の道具にしたいと考える連中がいても不思議じゃない」
灰原の声に、珍しく真剣な響きがあった。
「用心しろ、黒瀬。お前の最大の武器は正体不明であることだ。それが崩れた時——お前の日常は、本当に終わる」
黒瀬はベッドから立ち上がり、保健室の扉に手をかけた。
「……わかってる」
その言葉を残して、保健室を後にした。
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同日、放課後。
都心の高層ビル。特務機関・対異能犯罪課のオフィス。
白石凛の上司にして先輩——蝶野紫乃は、モニターに映し出された報告書を睨みながら、コーヒーを一口飲んだ。
蝶野紫乃。A級エージェント、コードネーム「パピヨン」。年齢二十六歳。知的なショートカットに鋭い目元。白いブラウスにタイトスカート、その上からエージェント用のコートを羽織った、冷静沈着なキャリアウーマン。
上層部から下された指令は明確だった。
——ファントムの正体を突き止めろ。
モニターには、これまでに収集されたファントムに関する断片的な情報が表示されている。倉庫での毒蛾の無力化。学園周辺でのB級異能者の壊滅。いずれも「異能が突然消失する」という共通点。
「異能無効化……ね」
蝶野は椅子の背もたれに体を預けた。
異能を無効化する能力。もしそれが本当なら、あらゆる異能犯罪に対する切り札になりうる。同時に、特務機関にとっても脅威となりうる。
「白石」
蝶野がオフィスの別のデスクに座る白石に声をかけた。白石は制服の上にエージェント用のジャケットを羽織り、自分の任務報告書を書いている最中だった。
「はい、蝶野先輩」
「最近、ファントムに何度も助けられているそうだな」
白石の手が止まった。
「あの掃除屋について、何か知っていることは?」
蝶野の問いかけは淡々としていたが、その目は白石を注意深く観察していた。
白石は少しの間、言葉を選んでいた。
「……何も。顔も声も知りません。ただ——」
「ただ?」
「あの人は、悪い人じゃないと思います」
蝶野が片眉を上げた。
「何を根拠に?」
「私を助けてくれました。仕事じゃないのに。報酬が出るわけでもないのに。毒蛾の時も、学園の時も——あの人は、自分の危険を冒して助けに来てくれた」
白石の瞳に、強い光が宿っていた。
「掃除屋は裏社会の人間だ。依頼を受けて人を殺す。『悪い人じゃない』と断言するには、あまりにも情報が足りない」
「……はい。でも、私はそう感じています」
蝶野は白石の顔をしばらく無言で見つめた後、小さく息を吐いた。
「感情で判断するな、白石。お前はS級エージェントだ。ファントムが味方とは限らない」
「わかっています」
「本当に?」
蝶野の視線は鋭かったが、それ以上は追及しなかった。
白石が退室した後、蝶野はモニターに目を戻した。
「異能無効化のマギア……。白石の周辺にしか現れない、か」
コーヒーカップを置き、キーボードを叩く。聖嶺学園の生徒名簿にアクセスするための特権申請書を、淀みなく上層部に送信した。
ファントムの正体。それがもし、白石の学園の——すぐそばにいる関係者だとしたら。
「面白いことになりそうだ」
蝶野は誰にも聞こえない声で呟き、青白いモニターの光を反射した眼鏡の奥で、獲物を狙う鷹のように瞳を細めた。




