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第8話:新しい「普通」

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 気がつけば、白石凛のいる日常が「普通」になり始めていた。

 朝。教室の扉が開く。


「黒瀬くん、おはよう!」

 白石が入ってくると同時に、まず黒瀬の席に向かう。教室の誰より先に。教壇の前を通り過ぎ、列の間を縫って、窓際最後列へ——まっすぐに。


「……おはよう」

 黒瀬は腕を組んだまま、ほとんど口だけで答えた。目は閉じている。

 それでも白石は満足そうに微笑み、自分の席へ戻っていく。


 この光景が、毎朝繰り返されるようになっていた。

 最初の数日は教室中が騒然としていた。白石凛が真っ先に挨拶に行く相手が、よりにもよってクラスの空気と化している黒瀬零だったのだから。だが一週間も経つと、クラスメイトたちも——完全には慣れていないが——驚かなくはなった。


「今日も白石さん、黒瀬のとこ直行だな……」

「もう定番になってきたな」

「俺にも挨拶してくんないかなぁ……」


 小声の嘆きは絶えないが、それが教室の日常風景に溶け込みつつある。


---


 昼休み。

 屋上のいつもの場所に、三人が座っていた。

 黒瀬。白石。鉄心。


 白石が弁当を広げる。今日は彩り鮮やかな三色そぼろ丼。鉄心はカレーパンとメロンパンの二本立て。黒瀬は相変わらず自作弁当——鶏の照り焼き、小松菜の胡麻和え、だし巻き卵。

「黒瀬くんのお弁当、いつも美味しそう。今日もちゃんと作ったの?」

「毎日作ってる」

「えらい。私も最近頑張って作ってるの。見て、三色そぼろ」

「……綺麗に出来てるな」

「でしょう!」


 白石が嬉しそうに箸を取る。その横で鉄心がカレーパンを齧りながら、遠い目をしていた。

「……なぁ、俺って今どういう立場なんだ」

「大切な友達だよ、鋼田くん」

「ありがとうございます白石さん。でもなんか俺だけ空気が違うっつーか——」

「気のせいだ」


 黒瀬が淡々と言った。

「気のせいじゃねーよ。白石さん、お前のことだけ見てるし。俺が喋ってる時も黒瀬の方チラチラ見てるし」

「そ、そんなことないよ! ちゃんと鋼田くんの話も聞いてるよ!」

「いや別に責めてるんじゃなくて……」


 鉄心は深いため息をつき、メロンパンの袋を開けた。

「はぁ……まぁいいけど。青春の生き証人として見届けてやるよ」

「何を見届けるんだ」

「お前の人生で初めて起きてる奇跡をだよ」


 黒瀬は鉄心の視線を無視して、だし巻き卵を口に運んだ。


---


 五時間目が終わった後の休憩時間。

 黒瀬が廊下の自動販売機で麦茶を買っていると、背後から複数の足音が近づいてきた。


「ねぇ、ちょっといい?」

 振り返ると、三人の女子生徒が立っていた。いずれも白石の「グループ」——白石を中心とする女子たちの中でも、特に距離が近い面々だ。

 中央に立つ長い髪の女子が、腕を組んで黒瀬を見下ろした。黒瀬よりわずかにヒールの分だけ背が高い。


「あなた、黒瀬零くんよね」

「……そうだが」

「最近、凛と一緒にいるみたいだけど。あなた、凛に何か弱みでも握ってるの?」


 直球だった。黒瀬は表情を変えなかった。

「弱みなんてない。俺に聞かないでくれ」

「だったらなんで凛があんなにあなたに構うのよ。別にあなた、特別な人じゃないでしょ? 成績も普通。運動部でもない。顔だって——」

「おい、流石に失礼だろ」


 後ろの女子が小声でたしなめたが、中央の女子は構わず続けた。

「凛は優しいから、誰にでも親切にするのよ。あなたがそれを勘違いしてるんじゃないかって、みんな心配してるの」

「勘違いはしてない。俺は一度も望んでいない」


 黒瀬の声は平坦だった。事実をそのまま述べている。

「だったら——」

「何の話?」


 廊下の向こうから、透き通った声が響いた。

 白石凛が歩いてくる。三人の女子生徒が一瞬、気まずそうに顔を見合わせた。


「あ、凛——別に、何でもないよ。ちょっと黒瀬くんと——」

「聞こえてたよ」


 白石の声に、いつもの柔らかさはなかった。

 笑顔のまま。だが目が笑っていない。S級エージェントとしての白石が、わずかに表に滲み出ている。


「私が好きで、黒瀬くんと一緒にいるの。誰かに強制されてるわけでも、弱みを握られてるわけでもない」

 白石は黒瀬の隣に立ち、三人を真っ直ぐに見つめた。


「何か問題ある?」

 廊下が静まり返った。通りがかりの生徒までもが足を止めている。


「……ごめん、凛。余計なお世話だった」

 中央の女子が目を逸らし、三人は足早に去っていった。

 白石は彼女たちの背中を見送り、ふっと息を吐いた。


「ごめんね、黒瀬くん。嫌な思いさせちゃって」

「別に。慣れてる」

「慣れちゃダメだよ、そういうの」


 白石が少しだけ怒ったような顔をした。それから、小さく笑った。

「でも、ありがとう。何も言い返さないでくれて」

「言い返す理由がない。事実を言っただけだ」

「……うん。そうだね」


 白石の笑顔が柔らかくなった。黒瀬は麦茶のペットボトルを手に持ったまま、視線を窓の外に逸らした。


---


 放課後。図書室。

 白石が生徒会長権限で黒瀬を「図書委員の補助」に任命して以来、週に二回、二人で図書室の整理をするのが恒例になっていた。

 返却された本を棚に戻す作業。黒瀬が分類番号を確認し、白石が棚に差し込む。効率的な流れ作業が、無言のうちに完成していた。


「ねぇ、黒瀬くん」

「何だ」

「最近読んだ本でおすすめある?」


 黒瀬は手元の本をちらりと見た。『毒物の科学——生体への影響と解毒のメカニズム』。仕事の参考資料だが、さすがに言えない。

「……特にない」

「嘘。いつも何か読んでるのに」

「推理小説なら、最近出た東野圭吾の新刊は悪くなかった」

「あ、私も気になってた! 今度貸して?」

「図書室にあるだろう。ここは図書室だ」

「……もう、そういうところ」


 白石が頬を膨らませた。だがすぐに笑い出す。

 黒瀬はその笑い声を聞きながら、黙って本を棚に差し込んだ。白石が笑うと、図書室の空気が少しだけ明るくなる。不思議な感覚だった。


「黒瀬くんって、本当に色んなジャンル読むよね。推理小説に、ノンフィクションに、科学書に……」

「暇つぶしだ」

「暇つぶしにしてはラインナップが渋すぎない? 普通の高校生、ラノベとか読むよ?」

「普通じゃないのかもな」

「……うん。普通じゃないと思う」


 白石が小さくそう言って、黒瀬の横顔をじっと見つめた。黒瀬は気づいていたが、気づかないふりをした。


---


 夜。黒瀬のアパート。

 六畳一間の部屋で、天井を見つめていた。

 布団の上に仰向けになり、両腕を頭の後ろに組んで。電気は消えている。窓の外から、遠くの国道を走る車の音がかすかに聞こえる。


 白石凛。

 あいつが隣にいると、落ち着かない。

 別に不快ではない。むしろ——不快でないことが、問題だった。

 掃除屋の黒瀬零が、生徒会長と友達ごっこをしている。弁当を一緒に食べ、図書室で雑談をし、廊下で挨拶を交わす。そんな「普通」の日常を、いつの間にか受け入れ始めている。


 ——これでいいのか。

 黒瀬は右手を天井に向けて伸ばした。暗闇の中で、自分の手のひらを見つめる。この手が触れれば、いかなる異能も消える。この手で、何人もの人間を沈めてきた。

 同じ手で、今日は白石が差し入れてくれたお菓子を受け取った。


 ——あいつが近くにいると、自分が誰だか忘れそうになる。

 それは甘い感覚だった。同時に、危険な感覚でもあった。

 忘れてはいけない。自分は掃除屋だ。いつ裏社会の報復が来るかわからない。自分の周りにいる人間は、全員がリスクに晒される。白石が近くにいること自体が——


「……でも」

 声が漏れた。自分でも驚くほど小さな声。

 嫌じゃない。白石が隣にいる昼休みが。くだらない会話をする放課後が。生まれて初めて味わう、普通の高校生活の欠片が。


 嫌じゃないということが——何より、死ぬほど面倒だった。

 黒瀬は重い寝返りを打ち、静かに自室の闇へ目を閉じる。

 明日も朝から白石が太陽のように「おはよう」と言いに来るのだろう。鉄心が呆れて笑うのだろう。並んで図書室の空気を吸うのだろう。

 ——まぁ、いい。悪くない日常だ。


 そう思ってしまう心地よさと微かな恐怖。自分の中で静かに芽吹き始めた「何か」に、黒瀬零はまだ名前をつけられないでいた。

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