第7話:交差する刃
---
日没後。
学園周辺の街灯が点り始めた頃、白石凛は動いた。
制服の上から白いコートを羽織り、仮面をつける。生徒会室の窓から音もなく飛び出し、校舎の屋根を蹴って校外へ。
最初のターゲットは、学園の東側——住宅街の路地裏に潜んでいたB級犯罪異能者。
能力:金属操作。
白石が路地裏に着地した瞬間、周囲のガードレール、マンホールの蓋、自転車のフレーム——あらゆる金属が浮き上がり、弾丸のように白石に向かって飛来した。
白石は右手を振った。金属の弾丸が空中で凍りつき、氷の花のように砕け散った。
「特務機関の白雪か。来ると思ってたぜ」
路地裏の奥から、革ジャンの大柄な男が現れた。両手を前に突き出し、周囲の金属を次々と操っている。
「蛇の目の残党ね。大人しく投降しなさい」
「はっ、お嬢ちゃんに言われてもなぁ!」
男が拳を握る。路地裏の壁面に埋め込まれた配管が引きちぎられ、巨大な金属の塊となって白石に叩きつけられた。
白石は跳躍して回避し、着地と同時に地面を凍結させた。氷が波のように広がり、男の足元を覆う。男が体勢を崩した瞬間、白石は間合いを詰め——右手で男の肩に触れた。
男の全身が一瞬で氷に覆われた。意識を奪う程度の凍結。殺しはしない。
一人、制圧完了。
だが——白石はすぐに表情を険しくした。残り二人。校門の北側と西側から、異能反応が同時に動き始めている。しかも——一つが学園に向かっている。
「まずい……部活の生徒がまだ残ってる!」
白石は凍りついた男を残し、学園に向かって駆け出した。
---
同時刻。学園の西側。
雑居ビルの裏通り。
黒瀬零は私服に着替え、外套を羽織っていた。
西側に潜んでいたB級異能者——能力は影操作。暗闇を武器に変える能力者。街灯の光すら届かない路地裏こそが、この男の領域だった。
「何者だ?」
路地裏の闇の奥から、低い声が響いた。黒瀬が踏み込んだ瞬間、地面の影が蠢き始めた。
影が——腕の形になって伸びてくる。
黒瀬の足首に絡みつこうとする影の腕。異能によって実体化された闇。触れれば拘束され、身動きが取れなくなる。
黒瀬は後退しなかった。
前に出た。
影の腕が足首を掴んだ——その瞬間、影が消えた。実体化していた闇が、まるで夢から覚めたように霧散する。
「——は?」
闇の奥の男の声に、初めて動揺が混じった。
「俺の影が……消えた?」
黒瀬は答えなかった。
影が消えた路地裏を、無音で駆ける。闇に溶け込むような動き。男が次の影を操ろうとするが——黒瀬が踏み込むたびに、周囲の影が消失していく。能力無効化の範囲内では、いかなる異能も機能しない。
男が後退する。恐怖が顔に浮かぶ。自分の領域を、この得体の知れない人影に文字通り「消されている」。
「くそっ、何なんだお前は——!」
叫びが終わる前に、黒瀬の手刀が首筋に沈んだ。
影の操作者は白目を剥いて崩れ落ちた。
二人目、制圧完了。
黒瀬は外套のフードを直し、スマートフォンを確認した。灰原からのメッセージ。
『残り一人——学園に侵入した。部活動中の生徒がまだ校内にいる。白石も戻っている。急げ』
黒瀬の表情が引き締まった。
学園に向かって走り出した。
---
聖嶺学園、体育館裏。
三人目のB級犯罪異能者は——肉体強化型だった。
二メートルを超える巨体。全身の筋肉が異常に膨張し、皮膚の下で異能の光が脈動している。拳一振りでコンクリートの壁を粉砕する力。
この男が学園に侵入し、部活動を終えた生徒たちが帰宅するタイミングを狙っていた。
「蛇の目を潰した連中を探してんだよ。手っ取り早く、ここの学生を人質にすりゃ出てくるだろ?」
男が体育館の壁を拳で叩く。鉄筋コンクリートに亀裂が入った。夜間に校舎内に残っていた地学部の生徒二人が、悲鳴を上げて後ずさる。
「ひっ……!」
「やめろ——!」
男が無造作に手を伸ばした。その腕が生徒に届く直前——
氷の壁が、男と生徒たちの間に出現した。
「——それ以上、一歩でも動いたら凍らせるわよ」
白石凛が体育館の屋根の上に立っていた。白いコート。仮面。右手から冷気が流れ落ちている。
「おう、やっと来たか。S級のお嬢ちゃん」
男が笑った。氷の壁を拳で殴る。一撃で亀裂が入り、二撃目で砕け散った。
「力任せだけの能無しね」
白石は屋根から飛び降り、両手を広げた。地面が一瞬で凍結し、氷の棘が林立して男に襲いかかる。
男は太い腕を翳して棘を受け止めた。氷の破片が散るが、強化された肉体にはかすり傷程度しか与えられない。
「いてぇな! けど、この程度——!」
男が地面を踏み砕いて突進した。肉体強化型の全力疾走。コンクリートが足跡の形に陥没する。
白石は横に跳んで回避。着地と同時に男の足元を凍らせるが、男は足を引き抜いて氷を砕く。力ずくでの突破。
「くっ……!」
白石は氷の猛吹雪を放った。男の全身を凍らせようとする。だが、肉体強化の出力が高すぎる。氷が形成される端から、内側の筋肉の膨張で砕かれていく。
——まずい。このタイプは、氷結との相性が悪い。
白石が次の手を考えるより早く、男の拳が迫っていた。
右からの殴打。白石は氷の盾を構えたが、拳が盾を粉砕し、衝撃が体を吹き飛ばした。背中が壁にぶつかり、息が詰まる。
「がはっ……!」
膝をつく白石。肋骨に痛みが走った。折れてはいない。だが——
男が追撃に来る。巨大な拳が上から振り下ろされる。
白石は横に転がって回避。地面に拳がめり込み、衝撃波で周辺が揺れた。
「逃げんなよ、お嬢ちゃん!」
男が再び突進してくる。白石は体勢を立て直しながら、氷の壁を連続で展開して距離を稼ぐ。だが防戦一方だった。このまま消耗戦になれば、先に限界が来るのは白石の方だ。
——どうする。力では敵わない。でも、生徒たちがまだ近くにいる。退くわけにはいかない。
男が五枚目の氷壁を砕いた。間合いが詰まる。
その時——
男の異能が、消えた。
膨張していた筋肉が、瞬時に萎んだ。肌のかすかな光が消え、巨躯は巨躯のままだが——異能に裏打ちされた超人的な力が、突然失われた。
「——なっ?!」
男が自分の体を見下ろした。力が入らない。拳を握っても、さっきのようなパワーが出ない。筋肉に異能のエネルギーが流れてこない。
「俺の、能力が——何で——!」
白石はその異変を見逃さなかった。
一瞬の隙。それだけで十分だった。
右手を地面に叩きつける。氷の奔流が一直線に男に向かって走り、足元から胸元まで一気に凍結した。異能を失った肉体は、もはやただの人間の体。氷結に抗う力はなかった。
男は氷の中で目を見開いたまま、動きを止めた。
静寂が戻った。
---
白石は荒い息を吐きながら立ち上がった。
——今のは、何だったの。
あの男の異能が、突然消えた。前にも同じことがあった。廃倉庫での毒蛾との戦い。あの時も、毒霧が——一瞬で消えた。
「掃除屋さん……近くにいるの?」
白石は周囲を見回した。体育館裏。校舎の壁。屋上のフェンス。植え込みの影。
何もいない。
誰の気配もない。夜風が木々を揺らす音だけが聞こえる。
だが——確信があった。
あの人が、また助けてくれた。自分には見えない場所から、自分の窮地を救ってくれた。
「……掃除屋さん、ありがとう」
白石は誰もいない夜空に向かって、小さくそう呟いた。
---
その頃、黒瀬零は校舎の裏の死角——配管の影に背を預けていた。
白石との距離は約十五メートル。能力無効化の有効射程ギリギリだった。
最後のB級異能者の異能を無効化したのは、白石が追い詰められた瞬間を見計らった黒瀬だった。白石の死角から接近し、校舎の壁越しに能力無効化を発動する。白石が仕留めた後、すぐに気配を消して撤退。
一度もその姿を見せることなく。
黒瀬は背中を壁から離し、外套のフードを直した。白石の「ありがとう」という呟きは、耳に届いていた。
何も感じなかった——と言えば嘘になる。
だが、黒瀬はそれ以上考えることを自分に許さなかった。
夜の校舎を抜け、フェンスを越えて帰路につく。途中、灰原にメッセージを送った。
『三人目、白石が制圧。俺は介入のみ。目撃なし。問題なし』
返信。
『了解。報酬は出ないぞ、今回は。お人よしめ』
黒瀬はスマートフォンをポケットに仕舞った。
報酬は最初から期待していない。これは「仕事」ではなかった。自分の日常——学園を守るために動いた。それだけのことだ。
それだけの、ことだ。
---
翌朝。
二年三組の教室。
黒瀬零は何食わぬ顔で窓際最後列の席に座り、腕を組んで目を閉じていた。昨夜の痕跡は一つもない。制服はいつも通り。顔色も変わらない。
チャイムが鳴り、教室の扉が開く。
「おはようございます」
白石凛の声。今日は——昨日までのどこか上の空な雰囲気が消えていた。すっきりとした表情。目の奥に、強い光が灯っている。
白石は挨拶を返しながら教室を歩き——黒瀬の席の横で、足を止めた。
黒瀬が薄目を開ける。
白石が立っていた。弁当箱を二つ持って。
「黒瀬くん、今日のお昼、一緒に食べよう?」
「……なぜ弁当が二つある」
「一つは黒瀬くんの分。昨日の図書委員のお礼に、作ってきたの」
教室が凍った。比喩ではなく、空気が凍った。白石凛が男子生徒に手作り弁当を持ってくるなど、この学園の歴史を覆す事態だった。
「白石さんが弁当を……」
「黒瀬にか……?」
「嘘だろ……俺にくれよ……」
男子生徒たちの嘆きが教室に満ちた。鉄心が後ろの席で口をぽかんと開けている。
黒瀬は白石の顔を見た。完璧な微笑み——ではなかった。少しだけ頬が赤い。白石自身も、この行動が大胆すぎたと感じているのかもしれない。
「……勝手にしろ」
黒瀬の返答は素っ気なかったが、弁当箱を受け取ることは拒まなかった。
---
昼休み。屋上。
黒瀬と白石と鉄心の、三人の昼食。
白石が作った弁当は——まともだった。卵焼き、ミニトマト、きんぴら、鮭のおにぎり。栄養バランスもいい。
「美味しい?」
白石が期待の目で聞いてくる。
「……普通だ」
「普通って……もうちょっと何かないの?」
「普通はいい意味だ」
「……そう?」
白石は少し膨れたが、すぐに嬉しそうに笑った。「次はもっと頑張るね」。
鉄心は自分のコロッケパンを噛みながら、二人のやり取りを目を丸くして見ていた。
「……お前ら、いつの間にそんな仲良くなったんだよ」
「仲良しです♪」
「……さぁな」
白石が即答し、黒瀬が曖昧に逸らす。鉄心は深いため息をついた。
「はぁ……俺だけ置いてけぼりかよ……」
「鋼田くんも一緒に食べましょう! 私のお弁当、少し分けてあげるね」
「え、いいんすか?! マジで?! やった——」
「鉄心、落ち着け」
屋上に穏やかな風が吹いた。
白石が笑う。鉄心がはしゃぐ。黒瀬は——遠い目をしていた。
三人でこうやって弁当を食べている。ただそれだけのことなのに、黒瀬の胸には得体の知れないものが広がっていた。温かいような、痛いような。
昨夜、配管の影から白石の戦いを見ていた。あの必死な姿。生徒を守ろうとする強い意志。そして今、隣で弁当を食べながら笑っている彼女は、まるで別人のように穏やかだ。
——俺も、同じだ。
路地裏で人を殴った手で弁当を作る。暗殺の技術で護衛を制圧した日の翌朝に、テストの答案を書く。
表と裏。光と影。二つの顔を持つ者同士が、互いの裏の顔を知らないまま、こうして隣にいる。
——俺の平穏。
壊れかけている。壊しているのは白石凛だ。でも——
壊されていく日常の破片の中に、前よりも温かいものが混じっている気がして。
黒瀬は小さく息をつき、鮭のおにぎりを一口齧った。
「……悪くない」
それが素朴な料理の味への感想なのか、それとも、この静かで満たされた時間に対するものなのか——黒瀬自身にも、本当のところはわからなかった。
白石が太陽のように嬉しそうに微笑んだ。眩しすぎるその笑顔から、黒瀬はふいに視線を逸らす。
見上げた屋上の空は、どこまでも青く晴れ渡っている。
だが、この穏やかな時間がいつまでも続かないことを、影を歩く彼だけは誰よりもよく知っていた。




