第6話:報復の影
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日常はゆるやかに変わり続けていた。
白石凛が黒瀬零に話しかけること。放課後に図書室で並んで本を整理すること。時々、昼休みに白石が屋上に現れて鉄心と三人で弁当を食べること。
それが「異常」から「日常」になりつつあった。
クラスメイトたちの視線も、最初の頃のような敵意から、呆れ混じりの慣れに変わっている。「白石さんと黒瀬くん」は、もはや二年三組の名物になっていた。
黒瀬自身も——抵抗を、少しずつ諦めつつあった。
だがその裏で、別の世界が動いていた。
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聖嶺学園、保健室。
消毒液の匂いが漂う狭い部屋。窓際のソファに、養護教諭の灰原ナギが脚を組んで座っていた。
灰原ナギ。二十八歳。気怠げな目つき。白衣をだらしなく羽織り、デスクには『本日休業』の札が常備されている。養護教諭としての仕事は最低限しかしない。
表の顔は、やる気のない養護教諭。
裏の顔は——黒瀬零の仲介人。
異能は『記憶操作』。触れた相手の短期記憶を書き換えることができる。黒瀬の正体がバレそうになった時の最後の安全装置。そして、黒瀬と裏社会を繋ぐパイプ役。
「——遅い」
灰原が欠伸をした瞬間、保健室のドアが開いた。
黒瀬が無言で入ってきて、ベッドの端に座った。カーテンを引き、外からは見えないようにする。保健室に訪れる「体調不良の生徒」と「仲介人への報告」。いつもの手順だった。
「毒蛾の報酬、入った。確認しろ」
灰原がスマートフォンを差し出した。暗号化された口座アプリに、五百万の入金が記録されている。
「……確認した」
「ご苦労さん。これでしばらくは安泰だな——と言いたいところだが」
灰原の表情が変わった。気怠い仮面が外れ、鋭い目が黒瀬を見据える。
「蛇の目が動いてる」
黒瀬の目が細くなった。
「蛇の目?」
「毒蛾が所属していた犯罪組織だ。毒蛾をやられたことで、上の連中が黙ってない。『毒蛾を潰した謎の異能者と、特務機関のS級エージェント』への報復を決定したらしい」
「……俺は関係ないはずだ。毒蛾を仕留めたのは表向き特務機関だろう」
「それがそうもいかない。蛇の目の情報網はそれなりに優秀でな。倉庫の護衛が全員、異能を使わずに制圧されたことを把握してる。あの場にファントムがいたと推測している連中がいる」
黒瀬は沈黙した。
灰原が続ける。
「実行部隊として、B級犯罪異能者が三人、お前の学校の周辺に来てる」
「……三人か」
舌打ちが漏れた。
「面倒だな」
「面倒で済めばいいがな。——あともう一つ。お前の正体がバレないように注意しろ」
灰原がソファから身を起こし、窓の外を顎で示した。校庭を見下ろすと、昼下がりの光の中で白石凛が生徒会の仲間と談笑している。
「あの白石って生徒会長——特務機関のエージェントだろう? 俺は養護教諭として特務機関のデータベースにはアクセスできないが、カンでわかる。あの嬢ちゃんからは一般人の気配がしない」
「…………」
「鉢合わせるなよ。掃除屋とエージェントが同じ場所で動けば、どっちにも良いことはない」
黒瀬は窓の外の白石を一瞬だけ見て、すぐに視線を戻した。
「……分かってる」
「本当か? 最近、あの嬢ちゃんと随分仲良くしてるように見えるが」
「向こうが来るんだ。俺じゃない」
「はいはい」
灰原の声には明確な皮肉が混じっていた。黒瀬はそれを無視して保健室を出た。
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同時刻。
白石凛のスマートフォンに、一通の暗号化メッセージが届いた。
差出人は特務機関・八咫烏本部。
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**緊急通達**
宛先:エージェント・白雪
件名:蛇の目残党の動向について
本文:蛇の目の残党が都内に潜入した形跡を確認。学園周辺で不審な異能反応を検知。B級クラスの異能者が少なくとも3名、監視エリア内に侵入している。厳重警戒せよ。
なお、先日の毒蛾確保の際に介入した正体不明の異能者(仮称:ファントム)の追跡調査も継続中。新情報があれば即座に報告のこと。
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白石はメッセージを読み、スマートフォンをポケットに仕舞った。
——蛇の目の残党。報復。そして——ファントム。
「……また、あの掃除屋さんも動くのかな」
期待と不安が入り混じった呟きが漏れた。もう一度会えるかもしれない。その感情が、使命感より先に来ている自覚はあった。
だが、それを恥ずかしいとは思わなかった。
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放課後の教室。
黒瀬は帰り支度をしていた。鞄を肩にかけ、廊下に出ようとした時——鉄心が追いかけてきた。
「よう、帰ろうぜ」
「ああ」
二人で廊下を歩く。いつもと変わらない会話。テストの結果、柔道部の練習、昨日のテレビ番組。黒瀬は相槌を打ちながら、常に周囲の気配を探っていた。
校門を出た時、ふと——違和感を感じた。
校門の外、道路を挟んだ向かいのコンビニの前。スーツ姿の男が、スマートフォンを見るふりをしながら校門を観察していた。そのさらに奥、電柱の影に——別の人影。
異能の気配は抑えられているが、黒瀬の感覚はそれを捉えていた。微かに、だが確実に。一般人のものではない殺気の残り香。
黒瀬は表情を一切変えず、鉄心の隣を歩き続けた。
「鉄心」
「ん?」
「今日は早く帰れ」
鉄心が足を止めた。珍しいことを言う黒瀬の横顔を見る。
「……? 何かあるのか?」
黒瀬は答えなかった。だが、その目だけが——普段の無気力な光とは違う、鋭い色を帯びていた。
鉄心は数秒間黒瀬を見つめ——何かを感じ取ったのか、素直に頷いた。
「わかった。じゃ、また明日」
「ああ」
鉄心が角を曲がって消えるのを確認してから、黒瀬は足を止めた。
振り返り、校門の方を見る。
コンビニ前の男は、もういなかった。電柱の影も空だ。だが——気配は残っている。学校周辺のどこかに、張り込んでいる。
黒瀬はスマートフォンを取り出し、灰原にメッセージを送った。
『校門の外に二人確認。おそらく偵察。今夜、動く』
返信はすぐに来た。
『了解。気をつけろ。——あと五限目にサボるな、出席日数がヤバいぞ』
黒瀬はメッセージを閉じて歩き出した。
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夕暮れ時。
聖嶺学園の屋上に、黒瀬零は立っていた。
西の空がオレンジから紫に変わっていく。校庭では部活動の声が遠くに聞こえる。風が制服の裾を揺らした。
目を閉じる。
意識を研ぎ澄ます。掃除屋としての感覚——空間に漂う異能の残滓を読み取る技術。
——一つ。校門の東側、住宅街の路地裏。
——二つ。学園の北側、公園の茂みの中。
——三つ。学園の西側、雑居ビルの屋上。
三つの異能反応。蛇の目のB級犯罪異能者たち。学園を囲むように配置されている。
黒瀬は目を開けた。
同時に——背後に気配を感じた。生徒会室のある校舎の方角から。
ちらりと視線を送る。
校舎三階。生徒会室の窓辺に、白石凛が立っていた。周囲には誰もいない。その目は——黒瀬と同じ方角を見ていた。校門の外、異能反応のある方を。窓辺で目を細め、制服の上に何か——を羽織ろうとして、ふと思いとどまったように手を下ろした。
——あいつも気づいている。
当然だ。S級のエージェントが、B級程度の異能反応を見逃すはずがない。
黒瀬と白石。互いの裏の顔を知らない二人が、同じ標的に向けて静かに動き出そうとしている。
黒瀬は屋上のフェンスに背を預け、濁った空を見上げた。厚い紫色の雲が、街のネオンを飲み込むように広がっていく。
「……俺の日常に、手を出すな」
低く這うような殺意の込もった声は、吹き抜ける冷たい夜風に溶け、誰の耳にも届くことなく街の闇へと消えていった。




