第5話:距離が縮まる
---
それは翌日の昼休みに始まった。
「黒瀬くん、この前の授業のノート見せてもらえないかな?」
窓際最後列の席で、いつも通り腕を組んで寝ていた黒瀬の目の前に——白石凛が立っていた。
教室が静まり返った。
白石凛が教室の隅のモブ男子に話しかけるという、天地がひっくり返るような光景。周囲の視線が一斉に二人に集中する。
黒瀬はゆっくりと目を開けた。白石の顔が近い。完璧な微笑みの裏に、少しだけ緊張の色がある。
「……俺、寝てたからノートない」
「え……」
白石の表情が固まった。完璧な口実を考えてきたはずが、まさかこんな根本的な理由で崩れるとは思っていなかったのだろう。
「……そ、そう。ごめんね、邪魔しちゃって」
「別に」
白石はぎこちなく笑って席に戻った。その背中を見送る黒瀬の表情は無だったが——背後で鉄心が親指を立てているのが視界の端に映った。何がサムズアップだ。
だが、これは始まりに過ぎなかった。
---
翌日。白石は再び現れた。
「黒瀬くん、お弁当美味しそうだね。自分で作ってるの?」
「……ああ」
「すごい! 何が得意?」
「……唐揚げ」
「唐揚げかぁ。今度食べてみたいな」
黒瀬は箸を止めて白石を見た。この女は何を言っているのだろう。生徒会長が、クラスのモブ男子に手料理をねだるなどという事態は、この学園の歴史上一度も起きたことがないはずだ。
「……なぜ俺に」
「え? 駄目?」
「駄目とかそういう問題じゃなく」
「じゃあいいよね!」
会話が成立していない気がしたが、白石は満足そうに微笑んで去っていった。
---
この日を境に、白石凛が黒瀬零に話しかけることが日課になった。
朝、教室に入ってくると「おはよう、黒瀬くん」と声をかける。昼休みには何かと理由をつけて席の近くにやってくる。放課後には「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」と引き止める。
学園のアイドルが教室の隅のモブに執着しているという異常事態は、たちまちクラスじゅうの注目の的となった。
「——おい、あれ見ろよ。白石さん、また黒瀬に話しかけてんぞ」
「黒瀬って誰だったっけ……ああ、窓際で寝てるやつか」
「あんなのどこがいいんだよ……俺の方が百倍イケメンだろ」
「お前が言うと虚しいぞ」
男子生徒の嫉妬は日に日に増大し、黒瀬は休み時間のたびに視線の矢を浴びることになった。女子生徒たちの間でも「白石さん、あの人と何?」という詮索が飛び交い始めている。
黒瀬にとっては最悪の展開だった。
「目立ちたくないのに……なぜ俺に絡んでくる」
放課後、鉄心の前で珍しく頭を抱えた。
「いや、嬉しい悩みだろそれ。何贅沢言ってんだよ」
「贅沢じゃない。死活問題だ」
「大げさだな……いや、お前の場合マジでそうなのか?」
鉄心が半笑いで言った。掃除屋の事情を知らない彼にとっては、ただの冗談のつもりだろう。だが黒瀬には笑えない。目立つことは正体の露呈に繋がり、正体の露呈は死に直結する。
白石を避けようとした。極力目を合わせない。話しかけられても最短の言葉で返す。昼休みは屋上から別の場所に移動しようとした。
しかし——
「黒瀬くん、今日は何処で食べるの?」
何故かいる。教室だろうが中庭だろうが、白石凛は何故か黒瀬の居場所を嗅ぎ当てて現れた。
そしてある日、止めの一撃が来た。
---
放課後。帰り支度をしていた黒瀬の机の上に、一枚のプリントが置かれた。見上げると、白石が生徒会長としての完璧な微笑みを浮かべて立っている。
「黒瀬くん、来週から図書委員の手伝いをお願いしたいんだけど」
「……は?」
「図書室の蔵書整理、人手が足りないの。放課後、一時間くらいで終わるけど」
黒瀬はプリントを見た。確かに「図書委員会 臨時補助員 任命書」と書かれている。しかも、名前欄に既に「黒瀬零」と印字されている。
「断る権利は?」
「ありません♪」
白石は片目を瞑ってにっこりと笑った。生徒会長権限の濫用以外の何物でもなかったが、その笑顔に異議を唱えられる人間はこの学園には存在しなかった。
---
翌日の放課後。図書室。
夕方の光が窓から差し込み、本棚の間に長い影を作っている。
黒瀬と白石は、それぞれ別の棚の前に立って本を整理していた。他に人はいない。図書委員の生徒は全員うまいこと早退しており——おそらくこれも白石の手回しだった。
無言で作業が続く。背表紙を確認し、分類番号の順番に並べ直す。単純作業。黒瀬は手際よくこなしていった。
「黒瀬くん、本好きなんだ」
白石が隣の棚から声をかけてきた。
「……別に」
「でも、手つきがすごく丁寧。しかも分類番号、見なくても分かるみたい」
黒瀬は一瞬だけ手を止めた。確かに、情報の整理と分類は掃除屋としての基礎スキルだ。書類の分析やデータの仕分けは日常的にやっている。だがそんなことは言えるはずもない。
「……よく来るからな、図書室は。暇な時に」
「そうなんだ。どんな本を読むの?」
「……推理小説。あとノンフィクション」
「推理小説! 意外。黒瀬くんってミステリ好きなんだ」
白石の目が輝いた。本棚の影から顔を出して、黒瀬の方を覗き込んでくる。
「私も推理小説好きなの。最近読んだのは——」
そこから、予想外の会話が始まった。
白石が好きな作家。黒瀬が読んだ作品。トリックの巧拙について。「あの作品の犯人は途中で分かった」「私は最後まで分からなかった」「……あれは序盤の伏線が露骨すぎる」「そう? 私は叙述トリックだと思い込んでたから引っかかったの」。
気づけば、三十分が過ぎていた。
黒瀬は自分が普通に会話していることに少し驚いた。白石凛は——想像していた「完璧なお嬢様」とは、少し違っていた。推理小説の話になると早口になるし、好きな作品を否定されると頬を膨らませるし、分からない漢字があると「これ何て読むの?」と素直に聞いてくる。
仮面の裏にいる人間は、思ったよりも——普通の女の子だった。
「あ、もうこんな時間」
白石が壁の時計を見て声を上げた。予定の一時間をとうに過ぎている。
「ごめんね、引き止めちゃって。今日はありがとう」
「……別に」
黒瀬はいつもの一言で返し、鞄を手に取った。白石が図書室の鍵を閉め、二人で廊下を歩く。夕焼けが窓を赤く染めていた。
「黒瀬くん、来週もお願いしていい?」
「……勝手にしろ」
白石は「やった」と小さくガッツポーズをした。
黒瀬は足早に校門に向かった。白石が手を振って「またね」と言うのが背中に聞こえたが、振り返らなかった。
---
鉄心からのLINE。
『お前、白石さんと仲良くなってねえ?』
黒瀬は自宅の畳の上で、麦茶を飲みながらスマートフォンの画面を見つめた。
『向こうが勝手に絡んでくるだけだ』
『いや、お前も嫌がってないだろ。嫌なら逃げるくらいお前ならできるだろが。でもずっと付き合ってんじゃん』
黒瀬は返信を打とうとして——指を止めた。
鉄心の言葉が、妙に刺さった。
確かに——避けようと思えば避けられた。白石の追跡をかわすのは、プロの暗殺者にとって造作もないことだ。なのに、そうしなかった。
……面倒だから? 波風を立てたくないから?
それだけだろうか。
黒瀬は天井を見つめた。
白石凛の顔が浮かんだ。推理小説の話をしている時の、目を輝かせた表情。読めない漢字を聞いてくる時の、小首を傾げた仕草。「またね」と手を振る背中。
——掃除屋の俺が、光の世界の住人と友達ごっこなんてしていていいのか。
自分の日常が、不運にも確実に変わり始めている。それに伴う微かな不安。そして何より——それを『手放したくない』と感じ始めている自分への、強い戸惑い。
黒瀬はスマートフォンを裏返して畳に置き、深く暗い自室の中心で、痛むように目を閉じる。
鉄心への返信は、結局打たなかった。




