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第4話:すれ違いの朝

---


 翌朝の聖嶺学園は、いつもと何も変わらなかった。

 朝の光が教室に差し込み、生徒たちのざわめきが廊下に溢れている。黒瀬零は窓際最後列の定位置に座り、腕を組んで目を閉じていた。

 昨夜の潜入で、左の肋骨に軽い打撲を負っている。護衛の一人を制圧する際に、想定より暴れられた。制服の下に貼った湿布が、動くたびにちくりと痛む。


 だが、顔には何も出さない。この程度の傷は日常だ。

「——おはようございます」


 教室の扉が開き、いつもの透き通った声が響いた。

 しかし今朝は、少しだけ違った。

 白石凛は確かに微笑んでいた。いつも通り完璧な挨拶を返し、クラスメイトたちの声に応えていた。だが——窓際最後列の黒瀬の目には、彼女の微笑みの奥にあるかすかな疲労が見えた。


 目の下の隈を、ファンデーションで丁寧に隠している。歩き方が微かに硬い。左足に体重をかけるのを避けている——おそらく、昨夜の戦闘で負傷した箇所。

 黒瀬は気づいていた。気づいていたが——何も言わなかった。言えるはずがない。

 白石は自分の席に着き、教科書を広げた。通常通りの動作。だが、ふと——手が止まった。

 ノートに書かれた昨日の日付を見つめながら、白石は一瞬だけ、遠い目をした。


「……あの人」

 小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。

 昨夜の記憶が蘇る。黒い外套。感情のない声。投げ渡された解毒剤の小瓶。そして——一瞬で消えた毒蛾の異能。


 あの圧倒的な力は何だったのか。異能を無効化する能力なんて、特務機関のデータベースにも記録がない。

 白石は首を横に振り、意識を授業に戻そうとした。だが、心の中で「あの人」の影がちらつくのを止められなかった。


---


 一限目の数学。教師がチョークを走らせる音が教室に響いている。

 黒瀬は例によって半分寝ていた。いや——正確には、寝たふりをしながら思考を整理していた。

 昨夜の任務は完了した。毒蛾は特務機関が回収するだろう。報酬は灰原を通じて振り込まれるはずだ。あの白いコートのエージェントが毒蛾を引き渡す形になったのだから、手柄は全て特務機関のもの。ファントムが関わった痕跡は残っていない。


 ——完璧だ。何の問題もない。

 問題があるとすれば——

 ちらり、と視線を前方に向ける。

 三列前の席で、白石凛がノートを取っている。いつもなら完璧な姿勢で板書を写すはずの彼女が、今日はどこか上の空に見える。ペン先が止まり、窓の外を見つめる瞬間が何度かあった。


 ——昨夜の毒が、まだ残っているのか?

 黒瀬の中で、ほんの一瞬だけ心配に似た感情が浮かんだ。しかし、すぐにそれを打ち消した。

 関係ない。あいつとは何の関係もない。昨夜助けたのも、たまたま居合わせただけだ。仕事よりも先に相手が飛び込んできたから、邪魔にならないように片付けただけ。それ以上の意味はない。


 自分にそう言い聞かせて、黒瀬は再び目を閉じた。


---


 二限目と三限目の間の休み時間。

 白石は生徒会の仕事で資料を職員室に届けに行き、その帰りに二年三組の教室の前を通る廊下を歩いていた。

 角を曲がった瞬間——すれ違った。


 黒瀬零と。

 彼は自販機に向かう途中だったのだろう。手にはポケットに突っ込んだ小銭をじゃらじゃらと鳴らしながら、無表情で廊下を歩いていた。

 すれ違った——その一瞬。

 白石の足が止まった。


 振り返っていた。無意識に。体が勝手に動いた。

 黒瀬の背中を見つめる。紺色のブレザー。少しだけ猫背の歩き方。特別なところは何もない。クラスで一番存在感のない男子生徒。

 なのに——白石の胸の奥が、不思議な安堵感に包まれた。


 匂い——ではない。気配、でもない。うまく言語化できない何か。昨夜、朦朧とする意識の中で感じた「あの人」の存在感と、同じものが——ほんの微かに、黒瀬零から漂っている。

 そんな気がした。


「…………」

 白石は自分の反応に困惑した。黒瀬零。名前を聞いたこともある程度で、話したことはほぼない。窓際で眠っているだけの、何の変哲もない生徒。

 ——気のせい、よね。


 小さく首を傾げ、白石は再び歩き出した。だが、振り返って見つめたのはほんの数秒だったはずなのに——その後の授業中も、黒瀬のことが頭の隅に残り続けた。


---


 昼休み。屋上。

「お前、白石さんに廊下でガン見されてたぞ」


 鉄心がおにぎりを頬張りながら、爆弾を投下した。

 黒瀬は箸を止めた。


「……何の話だ」

「いや、俺、さっきトイレから出たら、ちょうどお前が自販機に行くとこ見えたんだよ。そしたら白石さんが反対方向から来て、お前とすれ違った後に振り返ってお前の背中見てた。がっつり三秒くらい」

「見間違いだろ」

「いやいや、絶対見てた。俺の目は確かだぜ。何かしたのか?」


 黒瀬は唐揚げを口に運び、咀嚼してから答えた。

「何もしてない」


 嘘ではない。少なくとも学校では、白石凛に対して何もしていない。接点すらない。話しかけられたことも、目を合わせたことも——昨日の放課後に窓越しに一瞬視線が交差したのを除けば——ない。

「マジで何もしてないのか? いや、でも白石さんだぞ? あの白石凛がわざわざ振り返るなんて、何かあるだろ普通」

「ないものはない。お前の自意識が俺に投影されてるだけだ」

「何言ってんだお前」


 鉄心は首を捻りながらも、それ以上は追及しなかった。代わりに話題を変えて「来週のテストやべーな」と嘆き始める。黒瀬は相槌を打ちながら弁当を食べた。

 だが——内心では、わずかに引っかかるものがあった。

 白石凛が自分の背中を見た。三秒。廊下ですれ違った後に、わざわざ振り返って。

 ——偶然だ。たまたま視線が向いただけ。俺が掃除屋だと気づいたわけじゃない。気づくはずがない。


 黒瀬はそう結論づけ、弁当の蓋を閉めた。


---


 同時刻。生徒会室。

 白石凛は一人で、ノートパソコンに向かっていた。

 画面に表示されているのは、生徒会の議事録——ではない。特務機関の機密データベースへのアクセス画面。特殊な認証を経て接続する、一般のネットワークからは完全に隔離されたシステム。


 検索ワードを入力する。

『能力無効化 異能者 正体不明 非所属』


 検索結果——該当なし。

『異能消去 掃除屋 ファントム 都市伝説』


 わずかに引っかかった。裏社会の動向を記録した情報レポートの中に、断片的な記述がある。


---


 **裏社会情報レポート #4,227**

 件名:未確認異能者『ファントム(仮称)』に関する断片情報

 信頼度:D(未確認情報多数、都市伝説レベル)


 概要:裏社会において、「触れた対象の異能を無効化する」異能者の存在が噂されている。通称『ファントム』。掃除屋として活動しているとされるが、目撃証言はほぼ皆無。実在を確認できた情報機関は存在しない。

 備考:仮に実在するとすれば、極めて危険度の高い異能者である。あらゆる異能を無効化する能力は、理論上、S級以上の脅威となり得る。


---


 白石は画面を見つめた。

 ——信頼度D。都市伝説。でも……。

 昨夜、自分の目の前で毒蛾の異能が消えた。あれは幻覚などではない。確かに、あの人が触れた瞬間に毒霧が消し飛んだ。


「能力を無効化する異能者……そんな人が本当にいるの?」

 独り言が漏れた。

 画面をスクロールする。ファントムに関する情報はこれ以上ない。写真も、プロフィールも、行動範囲すらも不明。文字通り「幽霊ファントム」だ。

 データベースを閉じ、白石は椅子にもたれかかった。


 天井を見上げる。

 あの人は、誰なんだろう。なぜ自分を助けてくれたのだろう。名前も、顔も知らない。声だけが——低くて冷たいのに、どこか安心する声だけが、耳に残っている。

 ——もう一度、会いたいな。


 ふと、廊下ですれ違ったクラスメイトの顔が浮かんだ。黒瀬零。あの一瞬だけ感じた、不思議な安心感。

 白石は首を横に振った。


「あの二人は全然違う。黒瀬くんは普通の——ちょっと変わった、だけの男の子でしょ」

 そう自分に言い聞かせて、白石は無理に歩調を早めた。

 気のせいだ。そうやって日常に蓋をする。

 だが、運命は容赦なく二人を引き寄せようとしていた。交わるはずのなかった二つの影が、気づかぬうちに、すぐ足元で重なりかけていることも知らずに。

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