第3話:白い影
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白いコートの少女は、死線の中にいた。
廃倉庫の一階。製造ラボだった空間は、今や薄紫色の霧に覆い尽くされていた。
白石凛——コードネーム『白雪』は、氷の壁を展開しながら毒霧の中を進んでいた。仮面の下で、呼吸が荒くなっている。氷で作った薄いフィルターで口元を覆っているが、毒の一部は既に体内に入り込んでいた。
視界がぼやけ始めている。指先の感覚が鈍い。
——まだ、動ける。
特務機関から下された指令は「毒蛾の確保」。殺すのではなく、生きたまま捕えろ。ネクターの製造ルートと販売網を洗い出すためだ。
白石はこれまで数多くの任務をこなしてきた。S級の名は伊達ではない。ほとんどの異能者は、彼女の『絶対氷結』の前には無力だ。触れたものを凍らせる。空間すらも凍りつかせる。シンプルだが、だからこそ強い。
だが、毒霧は厄介だった。
気体を凍らせることは理論上可能だ。しかし、毒蛾の霧は生きている。凍らせた端から新たな毒が生成され、空間を埋め尽くす。まるで意志を持った生物のように、白石の氷壁を迂回して襲いかかってくる。
「くっ……!」
白石が右手を振る。床から氷柱が林立し、正面の霧を吹き飛ばす。その奥に——毒蛾の姿があった。
痩せた中年男。土色の肌に、ぎょろりとした目。白衣を羽織り、マスクをつけている。自分の毒に耐性があるのだ。
毒蛾は余裕の笑みを浮かべていた。
「おいおい、S級のお嬢ちゃんが来るとは聞いてたぜ。上から通達があったんだよ——『白雪が動く、気をつけろ』ってな」
「……!」
情報が漏れている。白石は歯を食いしばった。特務機関の内部に情報を流す者がいるのか。
「だがまぁ、俺の毒の前じゃ、氷のお嬢ちゃんも大した脅威じゃねぇなぁ?」
毒蛾が両手を広げる。紫色の霧が爆発的に濃度を上げた。
白石の視界が塗り潰される。
咳き込んだ。肺が焼けるような痛み。膝が震え始める。氷の壁を維持するだけで、異能の出力が限界に近づいていた。
——ダメ、このままじゃ……。
毒蛾が歩み寄ってくる。靴底が氷の床を踏む音が、やけに大きく聞こえた。
「S級ってのも、案外もろいもんだな。お前で四人目だ。特務機関のエージェントをぶち殺すのは」
白石は仮面の下で目を細めた。
まだだ。まだ——
右手を地面に叩きつけた。床全体が一瞬で凍結し、氷の波が毒蛾に向かって走る。
「おっと」
毒蛾が跳び退る。霧を壁のように厚くして、氷の波を受け止める。凍った霧が砕け散り、破片がきらきらと闇に舞った。
「いい根性してるねぇ、お嬢ちゃん。だが——もう限界だろ?」
毒蛾の手が、白石の顔面に向けられた。
紫色の霧が、高濃度の塊になって射出される。
白石は氷の盾を構えた。しかし——腕が上がりきらない。毒が体を蝕んでいる。反応が遅れた。
霧の塊が、盾の横を掠めて白石の首筋に触れた。
——あ。
意識が急速に遠のく。膝が折れ、世界が傾いた。倉庫の天井がぐるぐると回っているように見える。
「さぁて。生かすか殺すか——」
毒蛾が手を伸ばした。白石の仮面を剥がそうとする。
その手が——途中で止まった。
別の手に、手首を掴まれたからだ。
「——は?」
毒蛾が振り返る。背後に、黒い外套の人影が立っていた。いつの間に。気配も、足音も、何もなかった。
外套の人影が毒蛾の手首を握っている。ただそれだけだった。
しかし——その瞬間。
紫色の霧が、消えた。
倉庫全体を覆い尽くしていた毒の霧が、嘘のように一瞬で消失した。まるで最初から存在しなかったかのように。空気が澄み渡り、錆と潮の匂いだけが残された。
「な……なんだ……!?」
毒蛾の顔が引き攣った。右手に力を込める。毒を生成しようとする。出ない。何も出ない。異能の気配が——体の中から完全に消えている。
「俺の……俺の異能が……!」
絶叫だった。
外套の人影は答えなかった。
言葉の代わりに、拳が答えた。
毒蛾の鳩尾に、完璧なタイミングで拳が沈む。ただの一撃。異能を失った毒蛾は、もはやただの中年男に過ぎなかった。白目を剥いて崩れ落ち、氷の床に倒れ伏した。
静寂が戻った。
倉庫の中に、二つの人影だけが残された。
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白石の意識は朦朧としていた。
床に膝をついたまま、動けない。毒の後遺症で体が鉛のように重い。視界がぼやけ、ピントが合わない。
だが——見えた。
黒い外套の人影が、自分の前に立っている。
逆光のせいで顔は見えない。フードの奥に、表情を感じ取ることもできない。ただ、その存在だけが確かだった。
「あな、た……は……」
声が掠れた。喉が焼けるように痛い。
「誰……?」
外套の人影は答えなかった。
代わりに——何かが投げ渡された。
白石の膝元に落ちた小さなガラス瓶。透明な液体が入っている。
「……解毒剤だ。飲め」
低い声だった。感情がない。性別は——男。若い声だが、冷たく、どこまでも平坦だった。
白石は震える手で小瓶を拾い上げ、蓋を外して中身を口に流し込んだ。苦い。だが、数秒後に体の奥から温かさが広がり、視界が少しずつクリアになっていく。
顔を上げた時——外套の人影は、すでに背を向けていた。
「待って……!」
手を伸ばした。指先が空を切った。
外套の人影は振り返らなかった。倉庫の奥の暗闇に向かって歩いていく。その足取りは速くもなく、遅くもない。ただ淡々と、闇の中に溶けていくように。
「待って、お願い——あなたの名前を……!」
声は届いたはずだ。だが、外套の人影は一瞬たりとも立ち止まらなかった。
闇が彼を飲み込んだ。
白石は伸ばした手を握りしめ、唇を噛んだ。
体中が痛い。毒の後遺症で手足が痺れている。仮面の下の頬に、涙が一筋流れた——悔しさか、安堵か、それ以外の何かか。自分でもわからなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
圧倒的な強さ。異能すら消し去る、訳のわからない力。そして——自分を助けてくれた。名前も顔も知らない、あの人が。
白石は小瓶を胸に抱きしめた。
——もう一度。
もう一度、あの人に会いたい。
廃倉庫に、遠くからサイレンの音が近づいていた。特務機関の回収部隊が来る。白石は体を引きずるようにして立ち上がり、土埃に塗れた仮面を直した。
仕事はまだ終わっていない。毒蛾を引き渡し、報告書を書かなければならない。
だが——心の中は、もう任務のことなどどうでもよかった。
ただ一度重なっただけの、あの冷たくて恐ろしい黒い影。それが今も、彼女の頭の中を焼くように満たしている。
もう一度、あの人に会わなければならない——そう、強く予感していた。




