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第20話:新たな均衡

---


 蛇の目の壊滅は、裏社会に小さな地震を起こした。


 蠍の敗北と拘束を受け、蛇の目の残存戦力は四散。特務機関が一斉検挙に乗り出し、末端の構成員に至るまで根こそぎ摘発された。異能ドラッグ『ネクター』の流通ルートは完全に断たれ、裏社会の一角が——静かに崩れ落ちた。


 表のニュースでは「大規模薬物密売組織の摘発」として報じられた。異能のことは、一切触れられていない。いつも通り。表と裏の世界は、決して交わらない。


 ——はずだった。


---


 月曜日の朝。

 聖嶺学園、二年三組。


 黒瀬が教室に入ると、自分の席に人影があった。正確には——自分の席の隣に。


「おはよう、黒瀬くん!」


 白石凛が、黒瀬の隣の席に座っていた。

 昨日まで、そこは三浦という男子生徒の席だったはずだ。


「……白石。お前の席は二列目の——」

「席替えしたの! 先生にお願いして」

「……勝手にか」

「生徒会長権限!」

「その権限、そういう使い方するものじゃないだろう」


 白石はにこにこと笑っている。全く悪びれていない。

 教室内がいつものようにざわつく。だが——そのざわつきも、以前ほどの驚きを伴っていなかった。


「また白石さん、黒瀬の隣行ったの?」

「もう慣れたわ」

「あの二人、結婚するんじゃね?」

「気が早すぎだろ」


 クラスメイトたちは苦笑交じりに会話を交わしている。「白石凛が黒瀬零の隣にいる」という異常事態は、もはや教室の日常風景として受け入れられつつあった。


 黒瀬はため息をついて席に座った。白石が隣にいる。窓際最後列の、かつては自分だけの聖域だった場所に——今は、透き通った笑顔が同居している。


「ねぇ、黒瀬くん」

「何だ」

「今日のお弁当、何?」

「……鮭と卵焼きとひじきの煮物」

「わぁ、和食だ。私も今日は頑張って作ってきたの!」

「……そうか」

「見てくれないの?」

「昼に見る」

「えー、今見てほしい」

「朝から弁当は見ない」


 白石が頬を膨らませた。黒瀬は腕を組んで目を閉じた。

 ——うるさい朝だ。

 だが。

 うるさい朝が、嫌ではなくなっている自分がいた。


---


 昼休み。屋上。


 いつもの三人——黒瀬、白石、鉄心——が並んで座っている。


 鉄心がカレーパンを頬張りながら、黒瀬を見つめていた。昨日の会話の続きが気になっている。だが、白石の前では聞けない。


「鋼田くん、なんで黒瀬くんのことジーっと見てるの?」

「あ、いや、別に——黒瀬の顔がカレーパンに似てるなと思って」

「似てないだろう」

「丸くて茶色いとこが——」

「俺の顔は丸くも茶色くもない」


 白石が笑った。鉄心も笑った。黒瀬は無表情のまま弁当を食べている。


 風が吹いた。白石の髪がなびき、鉄心のカレーパンの袋が飛びかけた。穏やかな昼休み。何の変哲もない、日常の一場面。


 鉄心がふと、真剣な顔になった。


「なぁ、黒瀬」

「何だ」

「お前さ、白石さんのこと——嫌いじゃないだろ?」


 直球だった。白石が箸を止めた。黒瀬も一瞬、咀嚼を止めた。


 屋上に沈黙が落ちた。風の音だけが三人の間を通り抜ける。


 黒瀬は弁当に目を落としたまま、小さく言った。


「……嫌いだったら」


 一拍。


「——とっくに逃げてる」


 鉄心がニヤリと笑った。満足そうな、悪戯っぽい笑み。


 白石は——顔を赤くして、弁当に視線を落としていた。箸を持つ手が、かすかに震えている。


「……そう、なんだ」


 小さな声。風に紛れそうなほど小さな声。だが黒瀬の耳には確かに届いていた。


 黒瀬は何も答えず、鮭の切り身を口に運んだ。空を見上げる。雲の切れ間から陽光が差し込み、屋上を温かく照らしていた。


---


 放課後。

 白石が黒瀬の席に近づいてきた。手に小さな封筒を持っている。


「黒瀬くん」

「何だ」

「これ、あげる」


 白石が封筒を差し出した。薄いピンクの封筒。表面に小さな花のシールが貼ってある。


「……何だ、これ」

「手紙だよ。読んで」


 白石はそれだけ言って、微笑んだ。いつもの笑顔——だが、その奥に、かすかな緊張が見えた。


「じゃあね、また明日!」


 白石は鞄を持って、教室を出ていった。黒瀬は封筒を手に持ったまま、しばらく動かなかった。


 教室には誰もいない。西日が窓から差し込み、黒瀬の手元を照らしている。

 封筒を開けた。中には一枚のカード。白いカードに、丁寧な文字で書かれている。


---


 *黒瀬くんへ*


 *最近、一緒にいてくれてありがとう。*

 *黒瀬くんの隣は、すごく居心地がいいです。*

 *これからもよろしくね。*


 *白石凛*


---


 それだけだった。告白でもなく、特別な言葉でもなく——ただ「ありがとう」と「よろしく」。

 シンプルな、飾り気のないメッセージ。


 黒瀬はカードを見つめた。

 白石の筆跡。几帳面で、でもどこか柔らかい文字。「ありがとう」の「う」の字が少し大きいのは、力が入ったのだろう。


 黒瀬はゆっくりとカードを封筒に戻し、制服の内ポケットに仕舞った。


 少しだけ——ほんの少しだけ——口角が上がった。

 誰にも気づかれない、かすかな変化。だが、黒瀬零にとっては——途方もなく大きな変化だった。


 立ち上がり、鞄を肩にかけて教室を出る。


 西日が廊下を金色に染めている。いつもの帰り道。いつもの日課。

 だが今日は——ポケットの中の封筒が、確かな重みを持って存在していた。


---


 ——その夜。


 黒瀬零は午後十時過ぎにアパートに戻った。

 白石のカードをポケットに仕舞い、私服に着替えて夕食を作ろうとした時——異変に気づいた。


 隣室の気配がおかしい。

 隣に住む長谷川夫妻。六十代の老夫婦で、黒瀬が越してきた時に「よかったら余ったお惣菜、食べなさいね」と煮物を持ってきてくれた人たちだ。毎晩八時にはテレビが消え、九時には寝息が聞こえてくる規則正しい生活。

 だが今、隣室のテレビがついている。午後十時を過ぎても。それだけなら何でもないが——テレビの音に混じって、抑えた声が聞こえる。複数の。長谷川夫妻は二人暮らしのはずだ。


 黒瀬の全身が、反射的に臨戦態勢に入った。

 ——来客か。親族の訪問か。


 だが直感が告げている。違う。あの声には、明確な敵意が滲んでいる。


 壁に耳を当てた。聞こえてくるのは——


「おい、じいさん。もう一回聞くぞ。隣の部屋の黒瀬ってガキ、普段何時に帰ってくる?」

「し、知りません……あの子はいつも静かで……」

「喋れっつってんだよ。面倒くせぇな」


 黒瀬の血が凍った。

 隣人を使って自分の情報を探っている。誰が送り込んだ。蛇の目は壊滅した。深淵か——それとも。


 考える前に体が動いていた。


 玄関ではなく、ベランダから出た。夜風が髪を巻き上げる。隣のベランダに音もなく跳び移り、窓の隙間から室内を確認する。


 リビング。長谷川夫妻がソファに座らされている。老婦人が夫の腕にしがみつき、顔を強張らせている。その前に、黒い革ジャンの男が一人。C級程度の異能反応——だが問題はそこではない。男の右手が異能で強化されており、拳が仄かに紫色の光を帯びている。殴れば一般人の骨など簡単に砕ける。


 黒瀬はベランダの窓を開けた。鍵は——かかっていなかった。

 室内に滑り込む。音はない。


 男が振り返るより速く、黒瀬は男の背後に立っていた。

 右手で男の首筋に触れる。能力無効化。紫色の光が消え、拳がただの人間の手に戻る。同時に左手の手刀が頸椎の急所を打つ。男は声もなく崩れ落ちた。


 二秒。


「長谷川さん」

 黒瀬は低い声で呼びかけた。老夫婦は恐怖で固まっている。

「大丈夫ですか」


「く、黒瀬くん……? あなた、どこから——」

「窓が開いていたので。……不審者が侵入していたようですね。警察を呼びます」


 だが老婦人の手首に——痣があった。男に掴まれた跡だ。細い手首に、紫色の握痕がくっきりと残っている。


 黒瀬は、それを見つめた。


 ——俺のせいだ。

 あの男は俺の情報を探りに来た。俺がここに住んでいるから、この人たちが巻き込まれた。


「お怪我は」

「だ、大丈夫……ちょっと手首を掴まれただけで……黒くなっちゃったけど、大丈夫よ」


 老婦人が震える笑みを浮かべた。その笑みが——黒瀬の胸を抉った。


---


 三十分後。

 灰原が到着した。


 白衣ではなく、黒いジャケットにジーンズ。私服姿の灰原は、倒れた男を一瞥し、長谷川夫妻の記憶を操作した。

 「不審者が侵入したが、警察が駆けつけて逮捕された」という記憶に書き換える。男の存在は消え、老夫婦はそのまま眠りについた。手首の痣は——消せない。それは物理的な傷だから。


 アパートの外。月明かりの下。

 灰原と黒瀬が並んで立っていた。


「男の身元は確認した」

 灰原が低い声で言った。

「蛇の目でも深淵でもない。もっと上だ。直接的な指揮系統が確認できない——つまり、極めて高位の個人が送り込んだ可能性がある」


「……個人?」

「分からない。だが——嫌な予感がする。蛇の目の壊滅についての情報を気にする人物。お前の所在地を初見で特定できるレベルの存在。これは明確に、お前の正体に辿り着きかけている何者かの仕業だ」


 黒瀬は黙っていた。灰原が煙草に火をつけ、一つ吸って——言った。


「なぁ零。一つ聞いていいか」

「何だ」

「あの男の気配に——いつ気づいた?」


 黒瀬は答えなかった。灰原はゆっくりと煙を吐いた。


「帰宅してからだろう」

「……ああ」

「遅い」


 灰原の声が、鋭くなった。


「お前なら、アパートの敷地に入った瞬間に異変を察知していたはずだ。それが出来なかった。なぜだと思う?」


 黒瀬は沈黙した。


「白石だ」


 灰原が断言した。


「お前は帰り道、ずっとあの嬢ちゃんのことを考えていたな。カードをもらった。嬉しかった。——だから、周囲の気配に対するお前のセンサーが鈍った」


 否定できなかった。白石の手紙を読みながら帰路についた自分。口角が上がっていた自分。ポケットの中のカードに触れていた自分。


「掃除屋の黒瀬零は、どんな状況でも周囲の脅威を察知できる男だった。帰宅ルートの異変には半径百メートルの時点で気づいていた。——それが今日は、アパートの部屋に入ってから、壁越しに声を聞いてようやく気づいた」


 灰原が煙草を地面に落とし、踏み消した。


「白石凛と一緒にいることで——お前は、鈍くなっている」


 その言葉が、深夜の冷気の中に突き刺さった。


「今日は隣人の手首の痣で済んだ。だが次は——お前の目の前で誰かが死ぬかもしれないぞ」


 黒瀬は何も言えなかった。

 灰原が去った後、一人でアパートの廊下に立っていた。

 隣室からは、老夫婦の穏やかな寝息が聞こえる。操作された記憶の中で、何事もなかったかのように眠っている。

 だが手首の痣は残る。朝になれば「どこでぶつけたんだろう」と不思議に思うだろう。それが、黒瀬零が隣に住んでいるために起きた暴力の痕だとは、決して知らないまま。


---


 同時刻。

 東京のどこか。都心の高層ビルの最上階。


 巨大なモニターが壁面に並んでいる。画面には、監視カメラの映像が映し出されていた。

 聖嶺学園の校門。教室。屋上。通学路。

 あらゆる角度から、あらゆる時間帯の映像が記録されている。


 画面の一つに——黒瀬零と白石凛が昼休みに屋上で弁当を食べている映像が映っていた。


 革張りの椅子に座った人物が、その映像を眺めていた。顔はデスクランプの影に隠れ、見えない。だが——口元だけが、薄い光に照らされている。


 唇が、弧を描いた。


「面白い」


 低い声。感情を感じさせない、滑らかな声。


 人物のポケットで、端末が震えた。派遣した男からの報告——のはずだったが、通信は途絶えていた。


「……失敗したか」


 だが声に焦りはなかった。むしろ——満足していた。


「やはり、ただの高校生ではないな」


 人物の右手がキーボードを叩く。画面がズームアップされ、黒瀬零の顔がクローズアップされた。


「『能力無効化キャンセラー』のマギアか。探したぞ——」


 画面に映る黒瀬の写真の横に、データが並ぶ。

 名前。年齢。学校。住所。行動パターン。全てが記録されている。


「——ファントム」


 人物が椅子から立ち上がった。窓際に歩み寄り、東京の夜景を見下ろす。無数のビルの灯りが、星のように散らばっている。


「蛇の目は使えなかったが——まぁ、捨て駒だ。本番はここからだ」


 立ち上がった人物の姿が、窓ガラスに映った。

 細身の長身。仕立ての良いスーツ。そして——左目に、銀色の単眼鏡モノクル


 ミラー。

 後に「鏡面のミラー」と呼ばれることになる男。裏社会の深淵に潜む、真の支配者。


「お前の弱点は見つかったよ、ファントム。——あの白い少女だ」


 男の唇が三日月のように歪んだ。窓ガラスに映る東京の煌びやかな夜景が、その狂気じみた笑みと深く重なり合う。

 それは、かりそめの平穏の終わりを告げる静かな号砲だった。


※第三章 完。物語は序盤の均衡から、嵐の中盤へと一気に加速していく——。

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