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第2話:夜の仕事

---


 新宿の外れにある雑居ビルの地下一階。看板のない扉を開けると、薄暗いバーカウンターが現れる。

 客は誰もいない。カウンターの奥で、白髪交じりの中年男がグラスを磨いている。名前は知らない。裏社会では『蝙蝠バット』と呼ばれている情報屋だ。表向きは潰れかけのバーのマスター。裏では、金さえ払えばどんな情報でも仕入れてくる男。

 黒瀬は外套を着ていなかった。パーカーにジーンズという私服姿。しかし蝙蝠は、ドアが開いた瞬間に相手が誰か分かったようだった。


「……ファントムか。珍しいな、自分で来るとは」

「急ぎだ」


 カウンターに座る。蝙蝠が何も聞かずにコーヒーを出した。ブラック。砂糖もミルクもない。黒瀬の好みを覚えている——付き合いはそれなりに長い。

毒蛾ポイズン・モス。情報をくれ」


 蝙蝠の手が一瞬止まった。グラスを置き、カウンターの下から茶封筒を取り出す。

「来ると思ってたよ。灰原から連絡があったんでな」


 封筒の中身を確認する。写真、地図、行動パターンの記録。黒瀬は一枚一枚を丁寧に目を通していく。

「本名、朽木信二。三十八歳。元は製薬会社の研究員だったが、五年前に異能が覚醒してからは犯罪者一直線だ。異能ドラッグ『ネクター』の製造・密売で荒稼ぎしてる」

「能力の詳細は」

「『毒霧生成ポイズン・ミスト』。体内で生成した毒素を霧状にして放出する。範囲は半径約二十メートル。吸い込めば——まぁ、想像つくだろ。神経麻痺、呼吸困難、最悪は心停止だ。特務機関のエージェントが三人やられたのも、この毒霧にやられたらしい」


 黒瀬はコーヒーを一口飲んだ。

「解毒は?」

「できなくはない。毒の成分自体は既知のものに近い。ただ、濃度が異常に高い。普通の解毒剤じゃ間に合わない。お前なら——触れれば能力ごと消せるんだろうが、問題はそこまで近づけるかだ」

「拠点は」

「湾岸エリア。品川の先にある廃倉庫群だ。元は物流会社の倉庫だったが、三年前に倒産して放置されてる。毒蛾はそこをネクターの製造拠点にしている。護衛は常時六人から八人。全員が異能者だ。C級がほとんどだが、一人だけB級がいる」


 蝙蝠が地図を広げ、赤いペンで印をつけた。

「ここが正面入口。ここと、ここが裏口。屋上にも監視がいる。……正直、単独で突入するには厄介な布陣だ」

「問題ない」


 黒瀬は地図を畳み、ポケットに仕舞った。

 蝙蝠は肩をすくめた。


「お前がそう言うなら、そうなんだろうな。——あぁ、それともう一つ」

「何だ」

「特務機関も毒蛾を追ってる。S級のエージェントが動いてるって噂だ。鉢合わせには気をつけろ」


 S級エージェント。黒瀬の脳裏に、今朝の教室で見た白石凛の顔がよぎった——が、すぐにかき消した。関係ない。偶然だ。

「……わかった」


 コーヒーを飲み干し、代金を置いて立ち上がる。

「毎度あり。——生きて帰れよ、ファントム」


 黒瀬はそれに答えず、地下バーを後にした。


---


 翌日からの二日間、黒瀬は昼は普通の高校生として授業を受け、放課後から深夜にかけてターゲットを追った。

 仕事は準備が九割。

 これは黒瀬が裏社会で十年近く生き延びてきた中で、骨の髄まで染み込んだ鉄則だった。


 初日の放課後。

 制服のまま電車を乗り継ぎ、品川の先の埋立地へ向かう。廃倉庫群を一望できる対岸のビルの屋上から、双眼鏡で観察を始めた。

 護衛の交代時刻。パトロールのルート。出入りする車のナンバー。物資の搬入パターン。一つ一つを、小さなメモ帳に書き留めていく。

 ——護衛は七人。うち五人がC級。巡回ルートは時計回りで、二十分ごとに交代。正面入口は常時二人が張り付いている。裏口は一人だけだが、センサー型の異能者だ。気配感知で近づく者を察知する。


 二日目の夜。

 監視の角度を変え、今度は倉庫群の北側から接近した。排水管を伝って建物の上に昇り、天窓から内部を観察する。

 倉庫内部は改装されており、一階は主にネクターの製造ラボとして使われていた。二階が毒蛾の居住スペースと、護衛の待機室。そして最深部——一階奥の大型倉庫が、毒蛾の「本拠」だった。


 毒蛾は二階から滅多に降りてこない。食事は部下が運ぶ。自分の能力に絶対の自信を持っている男特有の、傲慢な怠惰。

 黒瀬はメモ帳を畳み、思考を整理した。

 突入経路は裏口から。気配感知のセンサー型は、黒瀬の能力無効化で対処できる。触れさえすれば、相手の感知能力を消せる。問題はその後だ。内部に侵入してから毒蛾のもとに辿り着くまで、最低でも六人の護衛を処理する必要がある。

 音を立てれば毒蛾が毒霧を展開する。そうなれば、密閉空間での戦闘は不利だ。


 ——六人を、音も立てずに無力化する。

 それが今回の依頼の最大の難関だった。

 翌朝。黒瀬は通学路の薬局で、いくつかの市販薬と化学薬品を購入した。放課後、自宅のキッチンで解毒剤を調合する。万が一に備えて——保険はかけておく主義だ。


 灰原からのメッセージが届いた。

『監視カメラの映像、ハッキング完了。リアルタイムフィードを送る。——今夜、行くのか?』


 黒瀬は返信した。

『行く』


---


 午前二時。

 湾岸エリアの廃倉庫群は、潮の匂いと錆の匂いに包まれていた。月は雲に隠れ、街灯は一つもない。闇の中に、朽ちた建物の輪郭だけがぼんやりと浮かんでいる。

 黒瀬は外套を羽織り、フードを深く被っていた。


 裏口に近づく。壁際に張り付き、呼吸を限界まで落とす。

 灰原がハッキングした監視カメラの映像がスマートフォンに表示されている。裏口の護衛——気配感知のセンサー型の男は、壁にもたれて欠伸をしていた。深夜のシフトに飽きている。

 黒瀬が動いたのは、男が二度目の欠伸をした瞬間だった。

 壁の影から滑り出る。靴底が地面を擦る音すら立てない。三歩。二歩。最後の一歩で、男の首筋に指先が触れた。


 男の目が見開かれる。口を開けようとする——が、その前に手刀が首の側面を打った。頸動脈を圧迫する正確な一撃。男は声も出さずに膝から崩れ、黒瀬がその体を支えて静かに壁際に寝かせた。

 一人。

 裏口の施錠を外し、倉庫内に侵入する。


 内部は蛍光灯が等間隔に灯り、無機質な光が通路を照らしていた。壁際に積まれた木箱の影に身を潜め、通路の先を窺う。

 巡回中の護衛が近づいてくる。

 足音で判断する。一人。C級クラスの身体強化型——筋力は強いが、速度は一般人に毛が生えた程度。

 護衛が角を曲がった瞬間、黒瀬は木箱の影から飛び出した。左手で護衛の口を塞ぎ、右手で側頭部を打つ。護衛は一瞬で意識を失った。


 二人。

 通路を進む。次の護衛は二人組だった。会話をしながら歩いている。


「——なぁ、ネクターの新ロット、いつ出荷すんだよ」

「明後日だと。ボスの機嫌がいい時じゃないと動かねぇから」


 黒瀬は天井の配管に手をかけ、音もなく体を引き上げた。二人の護衛が真下を通過する。最後尾の一人が通り過ぎた瞬間——着地。背後から二人同時に両手で首を掴み、互いの頭をぶつけ合わせた。

 鈍い音。二人の体が同時に崩れた。

 四人。


 次の護衛は製造ラボの入口に立っていた。手元にスマートフォンを持ち、動画を見ている。黒瀬が背後に立っていることに気づいたのは、意識が落ちる寸前だった。

 五人。

 二階への階段の手前。B級の異能者がいた。蝙蝠の情報通り、能力は念動力——物体を念じるだけで動かす力。こいつだけは手こずる可能性がある。

 黒瀬は呼吸を整え、階段の影から相手を観察した。


 B級の護衛は椅子に座り、腕を組んで目を閉じていた。寝ているのか——いや、違う。微かに異能の気配が漂っている。周囲に念動力の「網」を張り、何かが触れた瞬間に反応する防御態勢だ。

 通常なら、この「網」に触れた途端に弾き飛ばされる。

 だが、黒瀬は通常ではなかった。


 ゆっくりと、念動力の「網」に手を伸ばす。指先が見えない力場に触れた瞬間——それが、消えた。

 B級の護衛の目が開いた。異能のフィードバックが途切れたことに気づいたのだ。しかし、何が起きたか理解する前に、黒瀬の膝が顎の先端を捉えていた。

 六人。

 二階への道が開いた。


 階段を上がる。毒蛾の居室は奥の部屋だと、カメラ映像で確認済みだ。

 ——ここからが本番だ。

 毒蛾の扉の前に立つ。取っ手に手をかけた、その時。


 轟音。

 倉庫全体が揺れた。正面入口の方角から、爆発のような衝撃波が伝わってくる。窓ガラスが割れ、蛍光灯が明滅する。

 黒瀬は反射的に壁に張り付いた。

 ——何だ。


 スマートフォンで監視カメラの映像を確認する。正面入口が——凍っていた。

 門扉から壁、地面に至るまで、全てが一瞬で氷に覆われている。その中心に、白いコートの人影が立っていた。顔は仮面に覆われているが、その手から放たれる冷気は尋常ではない。

 正面入口の護衛二人は、既に氷漬けにされていた。


 ——特務機関のエージェント。

 蝙蝠の言葉が頭をよぎった。「S級が動いている」。

 タイミングが最悪だった。

 毒蛾が目を覚ます。正面からの襲撃に対応するために——毒霧を展開する。


 部屋の扉の隙間から、薄紫色の霧が漏れ出し始めた。

 黒瀬は瞬時に判断を下した。

 ——撤退。潮を変える。


 毒霧が充満する前にこの場を離れる。相手がS級なら、毒蛾の相手はそいつに任せる——そんな割り切った思考が頭を支配した。

 だが、足が止まった。

 監視カメラの映像の中で、白いコートの人影が毒霧の中に飛び込んでいくのが見えた。氷の壁を盾にしながら、毒蛾を追い詰めようとしている——しかし、毒霧は気体だ。完全に凍らせることができない。

 白いコートの動きが、目に見えて鈍くなっていた。


 ——毒に、やられ始めている。

 黒瀬は天井の染みを見上げながら、深く、忌々しげに舌打ちをした。


「……死ぬほど、面倒だな」

 そう悪態をつきながらも、見捨てるという選択肢は彼の中になかった。黒瀬は外套のポケットで冷たい小瓶を握りしめると、闇の中、影のように音もなく階段を駆け下りた。

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