第19話:揺れる天秤
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深夜。白石凛の自室。
ベッドの上で横になったまま、天井を見つめていた。
シャワーを浴びて、傷の手当てをして、特務機関への報告書を書いて——それでもまだ、心臓の鼓動が収まらない。
ファントム。
あの声が耳に残っている。低くて、静かで、どこか——寂しげな声。名前を告げた後、一度も振り返らずに去っていった黒い背中。
白石は枕に顔を埋めた。
「……どうしよう」
自分の気持ちが分からなくなっている。いや——分かっているのかもしれない。分かっているからこそ、混乱している。
ファントムへの想い。
あの人は何度も自分を救ってくれた。命を懸けて。毒蛾の時も、学園襲撃の時も、体育祭の時も、今夜も。顔を見せず、名前も告げずに——今夜初めて「ファントム」と教えてくれた。
あの人のことを考えると、胸が苦しくなる。会いたい。声を聞きたい。顔を見たい。隣にいたい。
——そしてもう一人。
白石は枕から顔を上げた。机の上のぬいぐるみが目に入った。日曜日に、黒瀬が三百円で取ってくれたクマのぬいぐるみ。
「黒瀬くん……」
黒瀬零。窓際最後列の居眠り男。無口で無愛想で、興味の幅が異様に狭くて——でも、弁当は毎日自分で作り、鉄心には誰よりも優しく、図書室では意外なほど博識で、白石が渡した焦げたクッキーを全部食べてくれた。
最近、黒瀬のことも気になっている。一緒にいると落ち着く。安心する。理由は分からないけれど、黒瀬の隣は——不思議なくらい居心地がいい。
「……私、二人の人を好きになってるのかもしれない」
声に出した瞬間、自分の発言の重大さに気づいた。
好き。好きなのか。ファントムのことも、黒瀬くんのことも。
白石は再び枕に顔を埋めた。
「——最低だ、私……」
二人の人を同時に好きになるなんて。それも、一方は正体不明の掃除屋で、もう一方はクラスメイト。住む世界が違いすぎる。
でも——二人には、不思議な共通点があった。
安心感。
ファントムの近くにいる時と、黒瀬くんの近くにいる時。全く同じ種類の安心感を覚える。
偶然だろうか。
白石はぬいぐるみを抱きしめ、考え込んだ。
——偶然だと、いいんだけど。
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翌日。特務機関・第七管区支部。
蝶野紫乃の執務室は、書類で溢れかえっていた。
壁一面のホワイトボードには、写真と付箋とマーカーで描かれた図表が所狭しと貼り付けられている。
ファントムの行動記録。
「面白いな」
蝶野はコーヒーを片手に、ホワイトボードを眺めていた。
ファントムが確認された四件の事案。時系列順に並べてある。
一件目——毒蛾事件。湾岸エリアの廃倉庫。白石凛が毒蛾と交戦中に、ファントムが介入。
二件目——蛇の目報復事件。聖嶺学園周辺。白石凛が蛇の目残党と交戦中に、敵の異能が消失。
三件目——体育祭事件。聖嶺学園。白石凛が重力操作の敵と交戦中に、敵の能力が消失。
四件目——湾岸廃工場事件。白石凛が蠍と交戦中に、ファントムが介入。
「全て——白石凛の周辺でしか確認されていない」
蝶野がマーカーで、四つの事案を赤い線で結んだ。線の中心に「白石凛」と書き込む。
「ファントムは白石凛を守っている——もしくは、彼女の活動を監視している。いずれにしても、ファントムの行動範囲と白石凛の行動範囲は完全に重なっている」
蝶野はデスクに戻り、ノートパソコンを開いた。画面には、聖嶺学園の生徒名簿が表示されている。
「白石凛の周辺——つまり、聖嶺学園の関係者。生徒か、教職員か」
蝶野は異能スキャンのデータを呼び出した。特務機関は定期的に学園周辺の異能反応を遠隔スキャンしている。
「……全生徒の異能反応データ。ほぼ全員が微量の反応を示す。一般人でも微弱な異能反応は検出される——これは正常」
蝶野の指が、データの一行で止まった。
「——一名。異能反応がゼロ」
画面を拡大する。
二年三組。出席番号十二番。黒瀬零。
異能反応:未検出。
「普通の人間でも微量の異能反応はある。完全にゼロ——それはむしろ、不自然だ」
蝶野は眼鏡を外し、目頭を揉んだ。
「能力無効化——もし常時発動型の無効化能力を持っているとしたら。自分自身の異能反応すら無効化する。だからスキャンに引っかからない。——理屈は通る」
だが——確証はない。異能反応がゼロなのは、単に体質的なものかもしれない。稀だが、そういう人間もいないわけではない。
「黒瀬零」
蝶野が名前を呟いた。生徒名簿の写真を見る。目を伏せた、覇気のない顔。成績は中の下。出欠は皮勤怠なし。部活動なし。生徒会との関わり——最近、白石凛の推薦で図書委員の補助。
「白石凛と接点がある」
蝶野の目が細くなった。
まだ断定はしない。だが——要観察。
「……面白い子がいるじゃないか」
蝶野はコーヒーを一口飲み、画面を閉じた。
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同日。放課後。聖嶺学園。
黒瀬は屋上のフェンスにもたれかかっていた。
空は曇り。鈍い灰色の雲が低く垂れ込め、今にも雨が降り出しそうだった。
左腕が疼く。蠍の毒液に掠められた傷口は、灰原が特製の薬で処置してくれたが、完全には治っていない。長袖の制服で隠している。
——俺は何をしている。
黒瀬は自分自身に問いかけていた。
昨夜、罠だと分かった上で廃工場に行った。白石を助けるために。仕事でもないのに。報酬もないのに。自分の正体がバレるリスクを冒して。
なぜだ。
答えは分かっている。分かっているが——認めたくなかった。
「お前、今日はずっと上の空だな」
鉄心がメロンパンを差し出してきた。黒瀬は無言で受け取り、一口齧った。
「何かあったのか?」
「何もない」
「嘘つけ。お前が嘘つく時、目が右に動くんだよ」
「……観察力だけは無駄に高いな、お前」
「柔道で相手の癖を見抜く訓練してるからな。——で、何があった?」
黒瀬は答えなかった。メロンパンを噛みながら、空を見上げる。
白石の顔が浮かんだ。昨夜の白いコートの姿ではなく、制服の。今朝も「おはよう」と言いに来た。いつもの笑顔。黒瀬の傷に気づいていないのか——あるいは、気づかないふりをしているのか。
「……なぁ、鉄心」
「おう」
「お前、人を好きになったことあるか」
鉄心がメロンパンを喉に詰まらせた。ゴホゴホと咳き込み、目を見開いて黒瀬を見る。
「お、お前が!? その質問を!? 俺に!?」
「……忘れてくれ」
「忘れられるか! お前が恋愛の話を振ってくるとか、世界が終わる前触れだろ!」
鉄心が黒瀬の肩を掴んだ。
「白石さんか!? 白石さんだろ!? お前、ついに自覚——」
「黙れ」
「自覚したんだな!?」
「黙れと言っている」
黒瀬の声に、いつもとは違う重さがあった。鉄心はその変化に気づき、手を離した。
「……マジなのか」
「分からない。分からないから聞いた」
黒瀬は目を閉じた。
「俺の立場で——誰かを好きになっていいのか。好きになったところで——どうにもならない」
鉄心には、その言葉の本当の意味は分からなかった。掃除屋。裏社会。能力無効化。そんな事情は知らない。だが——友人が、初めて見せる苦しみだということは分かった。
「……黒瀬」
鉄心が、珍しく真面目な声で言った。
「どうにもならないかどうかは、好きになってから考えろよ。順番が逆だ」
黒瀬は目を開けた。隣の友人を見つめる。
「お前、たまにいいこと言うな」
「たまにって何だよ。いつも言ってるだろ」
「記憶にないな」
「覚えとけ!」
鉄心が笑った。黒瀬も——ほんのわずかだが、口角が上がった。
空は相変わらず灰色だった。だが、少しだけ——雲の隙間から光が差しているように見えた。
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夜。黒瀬のアパート。
布団の上に横になり、天井を見つめていた。
右手を伸ばす。暗闘の中で、自分の手のひらを見つめる。
昨夜、この手で蠍の首を掴んだ。能力を消した。敵を沈めた。
——そして、白石を守った。
「面倒だな」
呟いたが、声に力はなかった。
面倒だ、と言えば済む段階は——もう過ぎている。
白石凛の笑顔が浮かぶ。日曜日のクレープを食べる顔。ゲームセンターではしゃぐ顔。ぬいぐるみを抱きしめる顔。「また行こうね」と言った時の顔。
——面倒だ。
嘘だ。面倒なんかじゃない。
黒瀬は寝返りを打ち、目を閉じた。鉄心の言葉が頭の中で繰り返される。
——好きになってから考えろ。順番が逆だ。
「……順番、か」
掃除屋の黒瀬零には、順番など関係ない。感情を持つこと自体が命取りだ。誰かを想えば、その誰かが最大の弱点になる。弱点のある掃除屋は、長くは生きられない。
だが——もう、どうしようもなく遅すぎた。
白石凛という存在は、既に彼の凍りついた世界の奥底まで、深く、確実に根を下ろしていた。
その事実から目を逸らして逃げ続けることは——もう、誰にも、彼自身にさえできなかった。




