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第18話:湾岸の死闘

---


 三日後。午後十時。

 湾岸エリア、第三工業地区。


 かつて自動車部品の組立工場だった建物群は、十年前の不況で閉鎖され、今は錆びたシャッターと割れた窓だけが残る廃墟となっていた。海風が鉄骨の隙間を抜け、低い唸りを上げている。

 月は雲に隠れ、灯りは遠くの高速道路のナトリウムランプだけ。


 その闇の中を、白い影が走っていた。


 白石凛——コードネーム「スノウ」。

 白いコートの下に薄い防弾ベスト。仮面で顔の上半分を隠し、手袋をした両手には薄氷が纏わりついている。


 今夜の作戦は単独出動。蝶野が後方で通信支援を行い、増援は待機中。まずは偵察と接触——そのはずだった。


「——白石、中に入る前に周囲を確認しろ」

 イヤピースから蝶野の声が入る。

「了解。……異能反応、複数確認。工場内に最低五体。外周に二体。合計七体です」

「七体か。予想より多いな。撤退するか?」

「いえ。行きます」

「……無理はするなよ」


 白石は返事の代わりに、工場の正面入口に向かって地面を蹴った。


---


 同時刻。工場の北東側。


 黒瀬零は、屋根の上にいた。

 黒い外套。手袋。軽量防刃ベスト。フードを深く被り、影に溶け込んでいる。


 灰原から受け取った工場の見取り図を、頭の中で反芻する。メインホール、事務棟、倉庫A・B、搬入口四カ所。退路は南側と東側の二つ。蛇の目の配置は——外周に見張り二体、メインホールに幹部クラス一体、残りは中間階に散らばっている。


 ——罠だと分かっている上で来た。愚かだと自覚している。


 だが、白石が来たから。工場の南側から侵入した白い影を、黒瀬は屋根の上から視認していた。


「……先に外周を片付ける」


 黒瀬は音もなく屋根の端に移動し、下を見下ろした。見張りの一人が、工場の北側入口で煙草を吸っている。C級の異能者——気配で分かる。微弱な異能反応。脅威度は低い。


 黒瀬は屋根から降りた。音はない。着地の衝撃を両足で殺し、コンクリートの上に猫のように着地する。見張りの背後三メートル。

 二歩。一歩。

 右手が見張りの首筋に触れた瞬間、異能反応が消滅する。同時に、左手で頸動脈を圧迫。三秒。見張りは声も出せずに意識を失い、黒瀬の腕の中で崩れ落ちた。

 地面に静かに横たえ、結束バンドで手足を拘束する。


 もう一体の見張りも同様に処理した。四十五秒。二体を無力化。


 黒瀬は工場の搬入口から中に入った。


---


 メインホールは広かった。

 天井は高く、クレーンのレールが錆びたまま残っている。かつて機械が並んでいたであろう床には、油のシミと瓦礫が散らばっている。


 ホールの中央に——白石がいた。


 既に戦闘が始まっていた。

 蛇の目の実行部隊が白石を取り囲んでいる。C級が三体、B級が一体。白石は氷結能力を全開にし、迫り来る敵を次々と凍らせていた。


 C級の一人が炎を放つ。白石は氷の壁を展開して防ぎ、間髪入れずに地面から氷柱を突き上げて敵を打ち上げた。もう一人が風刃を飛ばすが、白石は身を翻して躱し、指先から放った氷の槍で相手の足を凍りつかせた。


 S級エージェントの戦闘は、美しいほどに無駄がなかった。


 だが——残るB級の異能者が、白石に向かって突進した。能力は肉体強化。巨体が床を蹴り、拳を振り上げる。白石は氷のバリアで受け止めるが、拳がバリアにヒビを入れた。力任せの一撃。白石が後退する。


「くっ——!」


 白石が体勢を立て直そうとした瞬間、背後から——新たな気配。


「よく来たな、S級のお嬢ちゃん」


 声は穏やかだった。穏やかすぎるほどに。

 メインホールのキャットウォークの上に、白いスーツの男が立っていた。


 蠍。


 右手を軽く振ると、透明な液滴がホールの空気中に散った。液滴は気化し、目に見えない毒の霧となって白石を包み込もうとした。


 白石は瞬時に察知した。毒——毒蛾と似ているが、質が違う。もっと精密で、もっと危険。

 氷のバリアを全方位に展開し、毒気を遮断する。指先の温度が急激に下がり、周囲の空気が白く凍り始めた。


「ほう、防いだか」

 蠍が感心したように呟いた。

「だが——氷で防いでいる間は、攻撃できないだろう?」


 その通りだった。白石は全力で防御に回らざるを得ない。攻撃の隙がない。蠍は悠々とキャットウォークの上を歩き、毒液を散布し続ける。じわじわと白石の体力を削る持久戦。


「お前の氷は確かに強い。だが俺の毒は気体だ。密封しない限り、いずれ侵入する。——あと何分持つかな?」


 白石の額に汗が滲んだ。バリアを維持する異能の消耗が激しい。このままでは——持たない。


---


 黒瀬はメインホールの二階通路から、戦場を見下ろしていた。

 中間階で遭遇した敵を三体、静かに処理してきた。残るは蠍と、肉体強化のB級。


 白石が追い詰められている。毒の霧がバリアの隙間から少しずつ侵入し始めている。白石の動きが鈍くなっている。


 ——あと二分。白石の氷結が持つのは、長くてあと二分。


 黒瀬は判断した。

 手順を組み立てる。まず肉体強化のB級を排除。それから蠍の背後を取る。蠍の能力を無効化すれば、毒霧は消える。白石は回復できる。


 問題は——蠍との距離だ。蠍はキャットウォークの上。間に毒の霧がある。走り抜ければ毒を吸い込む可能性がある。

 黒瀬は懐から布を取り出し、口と鼻を覆った。灰原から預かった特殊フィルター。完璧ではないが、短時間なら毒を防げる。


 ——行く。


 黒瀬が二階通路の手すりを蹴り、メインホールに飛び降りた。

 着地と同時に駆ける。肉体強化のB級が黒瀬に気づき、振り向く。拳を振るう。だが黒瀬は拳の軌道の内側に滑り込み、B級の腕に触れた。

 能力無効化。

 肉体強化が解除された瞬間、B級の巨体が一気に軽くなる。増強された筋力が消え、ただの人間に戻った体は、自分の体重を支えきれずによろめいた。

 黒瀬はその隙を逃さない。喉仏への裏拳。鳩尾への膝蹴り。B級が声もなく崩れ落ちた。


「——な?」


 白石が驚いた声を上げた。氷のバリアの向こうに、黒い人影が見えた。


「あなた——ファントム!?」


 黒瀬は答えない。即座にキャットウォークへの階段を駆け上がる。蠍がこちらを向いた。穏やかだった目が、初めて鋭くなる。


「来たか、ファントム。——待っていたぞ」


 蠍が右手を振った。濃縮された毒液が弾丸のように飛来する。黒瀬は身を捻って躱すが、毒液がかすめた外套の布地が瞬時に溶けた。


「触れれば無効化できるんだろう? ——だったら、触れさせなければいい」


 蠍が両手を広げた。工場内の空気そのものが毒に汚染されていく。フィルターを通しても、目と皮膚がヒリヒリと痛み始めた。


「お前の能力は知っている。あらゆる異能を無効化する——素晴らしい能力だ。だが致命的な弱点がある」


 蠍がキャットウォークの上を後退しながら、毒液を連射する。黒瀬は柱を盾にしながら距離を詰める。


「射程が『接触』だということだ。届かなければ——ただの人間だろう?」


 黒瀬は答えなかった。

 代わりに、フードの下で——笑った。ほとんど形にならない、かすかな笑み。


「——掃除屋を、なめるな」


 黒瀬は外套を脱ぎ捨てた。毒で溶けかけた布が宙に舞い、蠍の視界を一瞬だけ塞ぐ。

 その一瞬で、黒瀬は柱を蹴ってキャットウォークに跳び上がった。蠍の目が見開かれた。


「速い——!」


 蠍が反射的に毒液を放つ。黒瀬の左腕を掠めた。皮膚が焼けるような痛みが走る。だが——止まらない。


 黒瀬の右手が、蠍の首に触れた。


 瞬間——工場を満たしていた毒の霧が、蝋燭の火が消えるように消えた。空気が澄む。毒の気配が完全に消失する。


「な……俺の毒が……!」


 蠍の顔が恐怖に歪んだ。初めて見せる、余裕のない表情。


「お前の毒は——俺には効かない」


 黒瀬は蠍の首を掴んだまま、引き寄せた。至近距離で、蠍の目を見る。


「蛇の目は終わりだ。俺の日常に——二度と手を出すな」


 蠍の鳩尾に拳が沈んだ。正確に、容赦なく。蠍の意識が断ち切られ、白いスーツの体がキャットウォークの床に崩れ落ちた。


---


 静寂が戻った。

 工場の空気は、もう毒に汚染されていない。黒瀬の能力無効化が、蠍のあらゆる毒を消去した。


「ファントム!」


 白石の声が下から響いた。氷のバリアを解除した白石が、駆け足で階段を上がってくる。仮面の下の目が、潤んでいた。


「あなた! また——また助けてくれたの?」


 黒瀬は蠍の体から手を離し、白石に背を向けた。左腕が痛む。蠍の毒液に掠められた傷口が、じくじくと熱を持っている。だが致命傷ではない。


「待って!」


 白石が手を伸ばした。黒瀬のコートの裾に、指先が触れかけた。


「待って——お願い」


 黒瀬の足が止まった。振り返りはしない。だが——止まった。


「お願い、せめて名前だけでも教えて。あなたのことを——何て呼べばいいの?」


 沈黙が工場に響いた。

 海風がキャットウォークを吹き抜け、黒瀬の髪を揺らした。


 少し——迷った。

 名前を教える意味。名前を教える危険。

 掃除屋として、答える必要はない。正体を隠し通すことが、最も合理的な選択だ。


 だが。


 白石の声が——あまりにも切実だったから。


「——ファントム」


 背を向けたまま、低い声で答えた。


「……ファントム」


 白石がその名を繰り返した。噛み締めるように、大切なものを受け取るように。


 黒瀬は階段を下り、闇の中に消えた。外套を失った背中が、壊れた窓から差し込む月明かりに一瞬だけ照らされ——そして見えなくなった。


 白石はキャットウォークの上に立ち尽くしていた。

 左手を胸に当てている。心臓の鼓動が、まだ速い。


「ファントム……」


 三度目の邂逅。三度目の救済。

 そして——煙のように消えゆく背中から初めて聞いた、あの人の名前。

 白石凛は胸に手を当て、夜風に溶けたその呼び名を、生涯決して忘れないと深く心に刻み込んだ。

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