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第17話:蛇の目の反撃

---


 裏社会には、独自の秩序がある。

 弱者は強者に従い、強者はさらに強い者の支配を受ける。食物連鎖と同じだ。その頂点に立つ者だけが、自由に生き残れる。

 蛇のスネーク・アイは、かつてその秩序の一端を担う中堅組織だった。異能ドラッグ『ネクター』の密売で莫大な利益を上げ、B級からA級の犯罪異能者を抱え、特務機関にすら容易には手を出せない規模を誇っていた。

 ——「かつて」は。


 幹部の毒蛾がファントムに沈められ、報復に送り込んだB級三人が壊滅し、体育祭での残党摘発で組織の末端が根こそぎ検挙された。蛇の目は、わずか数週間で半壊状態に追い込まれていた。


 だが——死にかけた蛇は、最も危険だ。


---


 都心から外れた臨海地区。打ち捨てられた商業ビルの最上階。

 暗い室内に、一つの影が立っていた。


 スコーピオン

 蛇の目の新幹部。二十代後半の男。細身の体躯に、白いスーツ。髪はオールバックに撫でつけられ、切れ長の目は暗闇の中でも異様な光を帯びている。


 右手の指先から、透明な液体が一滴、床に落ちた。落ちた場所のコンクリートが、じゅっ、と音を立てて溶けた。


 能力——『神経毒操作ニューロ・ヴェノム』。

 触れた相手の神経系を直接支配する。痛覚を暴走させ、運動神経を遮断し、最終的には心臓すら止められる。毒蛾の毒霧が「面」の攻撃なら、蠍の神経毒は「点」の攻撃——だが、その精密さと殺傷力は比較にならない。A級に限りなく近いB級。それが蠍の評価だった。


「——報告を聞こうか」


 蠍の声は穏やかだった。穏やかすぎるほどに。

 壁際に控えていた男が、一歩前に出た。偵察に出ていた下級構成員だ。


「蠍さん、例の掃除屋——ファントムと思われる人物を確認しました」

「ほう」

「日曜日、商店街で女と一緒にいました。若い——高校生くらいの男です。顔ははっきり見えませんでしたが、外見的特徴は記録してあります」

「女?」

「黒髪の美少女です。これも高校生くらい。かなり目立つ外見でした」


 蠍の唇が歪んだ。


「S級のお嬢ちゃんか。特務機関第七管区のエージェント——白石凛。……ファントムと一緒にいたと?」

「はい。ただ、二人の関係は不明です。普通に買い物をしていたように見えました」

「普通に、ね」


 蠍が窓際に歩み寄り、外を見下ろした。臨海地区の灯りが遠くに散らばっている。


「面白い。ファントムとかいう掃除屋が、特務機関のS級と組んでいる——いや、そうじゃないな。あの掃除屋は独立だ。組んでいるんじゃない、勝手に守っている。……滑稽だな」


 蠍が振り返った。穏やかな笑みが、冷酷な光を帯びる。


「プランを変更する。正面からぶつかっても面白くない。——二人をまとめて、同じ場所に集める」

「どうやって?」

「簡単だ。特務機関には偽情報を流す。『蛇の目が大規模な取引を行う』とね。S級エージェントなら、飛びつくだろう。同時に、裏社会の情報網にも『ファントムへの高額依頼』を流す。同じ場所、同じ時間に——二匹の獲物を招き入れる」


 蠍の右手が軽く握られた。指の隙間から、透明な毒液が滴る。


「ファントムの能力無効化は厄介だが——触れなければ無効化できないだろう? 俺の毒は空気を伝う。触れる前に——神経を焼き切る」


---


 翌日。月曜日の放課後。

 保健室。


 黒瀬は定期的にこの場所を訪れる。表向きは「体調不良で休みに来た生徒」だが、実際は灰原との連絡のためだ。


 灰原は白衣を着て、いつも通り保健室の椅子に座っていた。眼鏡の奥の目が、黒瀬を見つめている。


「日曜の尾行者、調べた」

「速いな」

「蛇の目の下っ端だ。偵察要員。お前の顔を確認するために送り込まれた」


 黒瀬はベッドの端に腰を下ろした。


「……俺の顔を」

「ああ。ファントムの正体を特定しようとしている。そしてもう一つ——」


 灰原が眼鏡を押し上げた。


「お前宛に、高額依頼が来ている。仲介ルートを三つ経由して流れてきた。報酬は一千万」

「内容は」

「湾岸エリアの廃工場で行われる異能ドラッグの大規模取引を潰してほしい、とのことだ。依頼主は匿名」

「——罠だな」


 黒瀬の声は平坦だった。疑問ではなく、確認。


「十中八九な。依頼の匂いがおかしい。報酬が高すぎる。ルートが迂回しすぎている。そして何より——蛇の目が潰されかけているこのタイミングで、蛇の目関連の依頼が来ること自体が不自然だ」


 黒瀬は頷いた。灰原の分析は的確だ。


「だが、問題がある」

「白石か」


 灰原は小さく頷いた。


「特務機関にも、同じ情報が流れている可能性が高い。湾岸エリアで蛇の目が大規模取引を行う——この情報を掴めば、特務機関は必ずエージェントを送り込む」

「白石が出る」

「S級案件だ。白石凛が出動するのは確実だろう」


 沈黙が保健室に落ちた。窓の外で、部活動の声が遠くに聞こえる。


「お前、どうする」


 灰原の問いに、黒瀬はしばらく答えなかった。

 罠だと分かっている。行けば、蛇の目の新幹部と戦うことになる。能力は不明だが、蛇の目の幹部を任される以上、B級以上は間違いない。

 自分一人なら、行かない。罠に飛び込むほど、愚かではない。


 だが——白石が行くなら。


「……行く」


 黒瀬の声は静かだった。


「白石が向かうなら——放っておけない」


 灰原は黒瀬の顔を見つめた。数秒間。それから、小さく息をついた。


「お前、変わったな」

「……何がだ」

「前のお前なら、『関係ない』で終わりだった。仕事でもないのに、危険な場所に自分から行くなんて——以前のお前にはなかった」


 黒瀬は答えなかった。灰原は眼鏡を拭きながら続けた。


「まぁ、止めても無駄だろう。——情報を集めておく。廃工場の見取り図と、蛇の目の現戦力を出す。三日くれ」

「頼む」


 黒瀬が保健室のドアに手をかけた時、灰原が背中に声をかけた。


「——あの嬢ちゃんにも気をつけろよ。特務機関がファントムの正体を本格的に調べ始めている。蝶野紫乃——あの女は優秀だ。お前の学校の生徒リストを入手している可能性がある」


 黒瀬の足が止まった。


「……俺は異能反応がゼロだ。リストからは弾かれる」

「普通はな。だが蝶野は消去法で攻めてくるタイプだ。異能反応がゼロの人間——それ自体がイレギュラーだと気づけば、逆にマークされる」

「…………」

「気をつけろ、黒瀬」


 黒瀬は無言で頷き、保健室を後にした。


---


 同時刻。特務機関・第七管区支部。


 蝶野紫乃は、デスクの上に広げた資料を眺めていた。

 湾岸エリアでの大規模取引の情報。情報源は複数から独立して入っており、信憑性は高い——ように見える。


「白石」

「はい」


 蝶野の執務室に呼ばれた白石が、姿勢を正して立っている。


「湾岸エリアで蛇の目の大規模取引が行われるとの情報がある。三日後の夜だ」

「三日後……」

「お前に出動してもらう。——ただし」


 蝶野が白石を真っ直ぐに見た。


「罠の可能性がある」

「……分かっています」

「分かった上で行くか?」

「はい。罠でも——一般市民に被害が出る前に叩きます」


 白石の目は真剣だった。蝶野は小さく頷いた。


「いい覚悟だ。——それともう一つ」

「はい」

「もしファントムが現れたら——今度こそ、正体を確認しろ。これは命令だ」


 白石の表情が、一瞬だけ揺れた。


「……了解しました」


 ——嘘だ。

 白石は自覚していた。もしファントムに会えたとして——その正体を、本当に暴いていいのか。暴いてしまったら、関係が変わってしまうのではないか。

 でも命令は命令だ。S級エージェントとして、従わなければならない。


 執務室を出た白石は、冷え切った廊下の窓ガラス越しに深く沈んだ夜空を見上げた。

「ファントム……」


 三日後。湾岸の廃工場。

 血の匂いと策謀が渦巻くその場所に、あの人もまた——来てくれるのだろうか。

 特務機関のS級として任務を全うする決意と、一人の少女として彼に会いたいという切実な願いが、白石の胸の奥で痛いほどにせめぎ合っていた。

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