第16話:休日——表の顔だけの時間
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日曜日。午前十時。
黒瀬零は、待ち合わせ場所の駅前広場に立っていた。
黒のパーカーにジーンズ。スニーカー。極力目立たない格好を選んだつもりだった。実際、通行人の誰も彼に目を留めない——いつも通りの、空気のような存在感。
それでいい。これが自分の在り方だ。
「黒瀬くーん!」
声が聞こえた瞬間、周囲の空気が変わった。
白い膝丈のワンピースに、薄いカーディガン。髪を軽くハーフアップにまとめた白石凛が、小走りで駆けてくる。
通行人が振り返る。男も女も。眩しいものを見るように目を細める。
黒瀬は内心でため息をついた。
——やっぱりこうなる。
「お待たせ! ……ってごめん、私の方が遅れちゃった」
「二分だ。気にするほどでもない」
「えー、でも待たせちゃったのは事実だし。あ、今日どこ行く? 商店街のカフェと、あと雑貨屋さんも見たくて——」
白石は楽しそうに喋り続けている。黒瀬は半歩後ろを歩きながら、習慣的に周囲の人間を観察していた。不審な動き、異能の気配——なし。今日は「仕事」ではない。ただの休日だ。
——ただの休日。そんなものが、自分にあっていいのか。
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商店街は日曜の昼下がりの賑わいを見せていた。
新しくオープンしたカフェは、レンガ造りの外観にアンティーク調の内装。白石はガラス扉の前で「可愛い〜!」と目を輝かせ、黒瀬は「……まぁ、雰囲気はいいな」と短く評した。
窓際の席に座り、メニューを開く。
「黒瀬くん、何頼む?」
「ブラックコーヒー」
「それだけ? ケーキとか食べないの? ここ、チーズケーキが人気らしいよ」
「……じゃあチーズケーキも」
「あ、私も同じのにしよー。お揃い!」
黒瀬はメニューで顔を隠した。
注文を済ませ、料理が来るまでの間。白石が身を乗り出すように質問を始めた。
「ねぇ、黒瀬くんの好きな食べ物って何?」
「……からあげ」
「へー! 意外と庶民的。好きな色は?」
「……黒」
「想像通りすぎて笑う。好きな季節は?」
「冬」
「理由は?」
「人が少ない」
「……黒瀬くんらしい」
白石が苦笑した。コーヒーが運ばれてきて、黒瀬が一口飲む。悪くない。
「じゃあ最後の質問。好きなタイプは?」
黒瀬のカップが止まった。一瞬の沈黙。
「……静かな人」
白石の目が泳いだ。
「私、静かじゃないかな……」
「…………」
「ね、ねぇ、今の沈黙は何? 否定してよ!」
「チーズケーキが来た」
黒瀬がテーブルに置かれた皿を目で示した。白石は「話を逸らさないでよ!」と言いかけたが、チーズケーキを見た瞬間、目が輝いた。
「あ、美味しそう……!」
フォークでケーキを切り、口に運ぶ。頬に手を当てて幸せそうに目を閉じる白石を、黒瀬はチーズケーキを食べながら横目で見ていた。
——子供か。学園のカリスマ生徒会長が、ケーキ一つでこの顔をする。
不思議と、嫌な気分ではなかった。
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カフェを出た後、白石は黒瀬の手を引くようにして商店街を歩き回った。
雑貨屋でアロマキャンドルの匂いを嗅ぎ比べ(黒瀬は「どれも同じだ」と言って叱られた)、古本屋の軒先でミステリー小説の品定めをし(これは黒瀬も多少乗り気だった)、クレープ屋の前で足を止めた。
「クレープ食べたい!」
「さっきケーキ食べただろう」
「別腹だよ! 黒瀬くんも食べよう?」
「いらない」
「いちごチョコバナナ!」
白石は既に注文を終えていた。黒瀬は諦めの境地で壁に寄りかかり、待つ。
クレープを受け取った白石は、両手で持って一口齧った。クリームが唇についている。
「美味しい〜! ねぇ、一口食べる?」
「……遠慮する」
「えー、美味しいのに」
白石がクレープを差し出す。黒瀬は目を逸らした。
「……一口だけだ」
小さく言って、白石が差し出したクレープを一口齧る。甘い。甘すぎる。だが——。
「どう?」
「……悪くない」
「でしょ!」
白石が満面の笑みを浮かべた。その笑顔には——生徒会長としての威厳も、S級エージェントとしての鋭さも、何もない。ただ休日を楽しんでいる、一人の女の子の顔。
黒瀬は、その表情を——少しだけ、眩しいと思った。
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ゲームセンター。
白石が「入ろう!」と引っ張り込んだ。黒瀬は「柄じゃない」と抵抗したが、すでに自動ドアの向こうに連行されていた。
「あ、UFOキャッチャー! あのクマのぬいぐるみ可愛い!」
「……取れないぞ、あの配置は」
掃除屋の目で見れば分かる。あのぬいぐるみの位置は、アームの強度と角度を考慮すると正攻法では取れない。少なくとも三回は位置をずらす必要がある。
「えー、やってみたい!」
白石が百円玉を投入した。アームが下りる。掴む。滑る。ぬいぐるみは微動だにしない。
「あー! 惜しい!」
「惜しくない。全く動いてない」
「もう一回!」
二回目。三回目。白石の表情がどんどん真剣になっていく。S級エージェントの集中力がUFOキャッチャーに注がれている。しかし結果は変わらない。
「くっ……強敵……」
「UFOキャッチャーに対して使う言葉じゃないだろう」
黒瀬は——気づけば、百円玉を自分のポケットから取り出していた。
「……どけ」
「え?」
白石が驚いた顔で横に退く。黒瀬が投入口に百円を入れ、ボタンに手を置いた。
アームの軌道を計算する。角度、速度、落下地点。ぬいぐるみの重心と引っ掛かりのポイント。
——まず一手目で、三十度回転させる。
アームが下りた。ぬいぐるみの端を掴み、わずかに動かす。白石が「あ」と声を漏らした。
もう百円。二手目。ぬいぐるみの角度が変わり、アームが掛かりやすい位置に移動する。
三手目。黒瀬のアームが、正確にぬいぐるみの首の後ろを掴んだ。持ち上がる。運ばれる。——落ちた。取り出し口に。
「取れた!」
白石が歓声を上げた。取り出し口からクマのぬいぐるみを取り出し、抱きしめる。
「すごい! 黒瀬くんすごい! 三百円で取っちゃった!」
「計算すれば取れる。ただの物理だ」
「カッコいい……」
白石が目を輝かせてぬいぐるみを胸に抱いた。黒瀬は視線を逸らし、「帰るぞ」と歩き出した。
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夕方。
西日が商店街を橙色に染めていた。歩行者の影が長く伸び、空が紫に変わり始めている。
駅前の広場まで戻ってきた二人は、ベンチの前で足を止めた。
「今日、楽しかった」
白石がぬいぐるみを大事そうに抱えながら言った。目が夕日に照らされて、琥珀色に輝いている。
「また行こうね」
「……まぁ、悪くはなかった」
黒瀬の返答は素っ気なかったが、それが彼なりの肯定だと白石は理解していた。
「じゃあ、また明日。学校でね」
「ああ」
白石が手を振って改札に向かう。ポニーテールが揺れ、ワンピースの裾が風になびく。
黒瀬はその背中を見送った。
白石が改札を通り、見えなくなってから——黒瀬の表情が変わった。
目が鋭くなる。空気が冷えたように、周囲の温度が下がった気がした。
黒瀬は踵を返し、来た道を引き返した。
買い物の途中から感じていた。誰かが、自分たちを見ていた。尾行——プロの動きではないが、一般人でもない。異能者。気配は薄いが、確かにそこにいた。
白石にバレないよう、さりげなくルートを変え、人混みに紛れて尾行者の視界から外した。白石は気づいていなかった。
今、その尾行者を確認するために引き返している。
黒瀬が来た道を辿る。雑貨屋の裏、古本屋の角、クレープ屋の向かい。尾行者がいたであろうポイントを一つずつ確認していく。
だが——既に、誰もいなかった。
痕跡だけが残っている。電柱の影に残った靴跡。ゴミ箱の陰に落ちた吸い殻——まだ温かい。
「……蛇の目の偵察か」
黒瀬は呟き、スマートフォンを取り出した。灰原にメッセージを送る。
『尾行者あり。蛇の目の残党の可能性。商店街周辺。確認済み、現在は離脱』
返信はすぐに来た。
『了解。調査する。——休みの日に女の子と出かけてたのか?』
黒瀬は返信せずにスマートフォンをポケットに仕舞った。
空は完全に暮れていた。街灯が一つずつ点り始め、商店街のシャッターが下りていく。
楽しかった休日が、裏社会の泥水のような影に侵食されていく。
いつものことだ。そう思い込もうとした。だが、今日に限って——その侵食が、どうしても気分の悪いものに思えてならなかった。
黒瀬零は暗くなった商店街を抜け、一人駅へと歩き出す。ポケットの奥底で、白石が笑って押し付けてきた「お揃いのレシート」がくしゃりと小さな音を立てた。
捨てるタイミングなどいくらでもあった。だが——黒瀬は、ただ黙ってそれを握りしめていた。




