第15話:体育祭の余波
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月曜日の朝。聖嶺学園は、嘘のように平穏だった。
先週末の体育祭で起きた「不審者侵入未遂事件」は、既に過去の話題になりつつある。警察が調査に来たが、結局「酔った不審者が校外をうろついていただけ」という結論で処理された。
——灰原の記憶操作のおかげだ。
黒瀬は窓際最後列の席で腕を組み、目を閉じていた。体育祭の裏で起きた戦闘の痕跡は、灰原が一晩かけて全て消した。崩れたフェンス、氷結の跡、気絶した蛇の目の残党——全てが「なかったこと」になっている。
「黒瀬くん、おはよう!」
白石が教室に入ってくる。いつもの透き通った声。いつもの笑顔。
だが黒瀬には分かっていた。白石の目の下に薄いクマが残っていること。歩き方がほんのわずかに左に偏っていること。体育祭の裏での戦闘——重力操作の異能者との交戦で、左脇腹を痛めたはずだ。
「……おはよう」
「体育祭、楽しかったね。黒瀬くんのリレー、結構速かったよ?」
「適当に走っただけだ」
「適当であの速さなら、本気出したらどうなるの?」
黒瀬は目を逸らした。本気を出せば——まぁ、大変なことになる。
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その頃。特務機関・第七管区支部。
地下三階の執務室に、二人の女性が向かい合って座っていた。
蝶野紫乃。A級エージェント。
三十代前半、黒のパンツスーツに身を包んだ長身の女性。切れ長の目に銀縁の眼鏡。冷静沈着、感情を表に出さない——だが、その分析力は機関随一と評される。白石凛の直属の上司であり、彼女を育てた先輩でもある。
「——で、体育祭中の戦闘報告だが」
蝶野が書類に目を落としながら言った。淡々とした口調。
「蛇の目の残党三体を制圧。うちC級二体は早期に無力化。B級一体は重力操作系——ここまではいい。問題はこの先だ」
白石は椅子に背筋を伸ばして座っている。制服ではなく、特務機関の支給品である黒のジャケットとスカート。
「B級の重力操作が、突然消失した。お前の報告書にはそう書いてある」
「はい。交戦中に敵の能力が消えました。私が何かしたわけではありません」
「操作ミスか、能力の暴走か」
「——違うと思います」
白石の声が、わずかに熱を帯びた。
「ファントムです。あの掃除屋が、近くにいたんだと思います」
蝶野の指が、書類の上で止まった。眼鏡越しの目が、白石を射抜くように見つめる。
「ファントム——能力無効化のマギア。毒蛾の件でも報告があったな」
「はい。倉庫の時も、学園襲撃の時も。敵の能力が消えた瞬間、必ずあの人が——」
「『あの人』?」
蝶野が眉をわずかに上げた。白石は言葉を選び直す。
「……ファントムが、関与していると考えます」
「お前、あの掃除屋にずいぶん入れ込んでいるな」
白石は答えなかった。蝶野は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「面白いことに、ファントムの出現記録は全てお前の活動範囲と重なっている。偶然にしてはできすぎだ」
「……どういう意味ですか」
「二つの可能性がある。一つ、ファントムはお前を監視している。二つ——お前を守っている」
白石の心臓が跳ねた。守っている。その言葉が胸に刺さった。
「いずれにせよ、ファントムの正体を突き止める必要がある。掃除屋は本来、我々の排除対象だ。……分かっているな?」
「はい」
白石は頷いた。だが心の中では——排除、という言葉に、強い抵抗を感じていた。
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昼休み。屋上。
黒瀬と鉄心と白石の、いつもの三人。
だが今日は、いつもと少し違った。白石がどこか上の空だった。弁当を開いたまま、箸が止まっている。
「白石さん、食わないの?」
鉄心が首を傾げる。
「あ、ごめん。ちょっと——考え事してて」
白石は笑顔を作ったが、無理をしているのが分かった。黒瀬は何も言わず、だし巻き卵を口に運ぶ。
「体育祭の疲れか?」
鉄心が気を遣って言った。
「うん、そうかも。ちょっと寝不足で」
嘘だ、と黒瀬は思った。白石の「考え事」は、おそらく掃除屋——ファントムのことだ。あの戦闘の後、白石は何度も周囲を見回していた。姿を見せない自分を探して。
——悪いな。見つかるわけにはいかない。
「あ、そうだ」
白石が急に思い出したように声を上げた。
「黒瀬くん、今度の日曜日、一緒に買い物に行かない?」
鉄心がカレーパンを喉に詰まらせた。
「……は?」
黒瀬が眉を動かした。
「新しく出来た商店街のカフェに行ってみたくて。でも一人だと入りにくいから」
「一人でも入れるだろう。カフェだぞ」
「黒瀬くん、それは野暮ってものだよ」
「……それ、デートでは?」
白石の頬がわずかに赤くなった。
「で、デートじゃないよ! お友達として! 友達として一緒にお出かけするだけだよ!」
「…………」
黒瀬の沈黙は長かった。横で鉄心が復活し、黒瀬の肩を掴んだ。
「お前、行けよ! 行けって! 行かないなら俺が代わりに行くぞ!」
「お前が行けばいいだろう」
「俺が誘われてへんのじゃ! 白石さんはお前を誘ってんの! この鈍感野郎!」
白石が鉄心の勢いに驚きつつも、期待の目で黒瀬を見つめた。風が屋上を吹き抜け、白石の黒髪がなびく。
「……まぁ、日曜は特に予定がない」
「じゃあ行ける?」
「……行けなくはない」
「やった!」
白石が満面の笑みを浮かべた。鉄心は「なんだその回りくどいOKは」と呆れつつも、ニヤニヤが止まらない。
黒瀬はため息をつき、空を見上げた。
——掃除屋が、女子高生と休日に出かける。世界のどこかが壊れている気がする。
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放課後。白石は自宅の勉強机に向かっていた。
教科書を開いている——が、手は動いていない。
ペンを持ったまま、ノートの端に無意識で何かを描いていた。
黒い外套。フードに隠れた横顔。闇の中に佇む後ろ姿。
——ファントム。
白石は自分が描いた絵に気づき、はっとペンを止めた。
「……また描いてる」
小さく呟いて、ノートを閉じかける。だが、すぐには閉じられなかった。
あの人は、いつも自分を助けてくれる。毒蛾の時も、学園襲撃の時も、体育祭の時も。命を懸けて。顔も名前も見せずに。
なぜ。
「会いたい」
声に出した瞬間、自分の感情の正体に気づいた。これは——感謝だけではない。もっと深い、もっと切実な感情。
ノートを開き直す。不器用な線で描かれたファントムの後ろ姿をもう一度見つめる。
黒い外套。冷たい影のような佇まい。でも、解毒剤を投げ渡してくれたあの手は——確かに温かかった。
白石凛は、まだ知らない。
心の底から会いたいと焦がれる相手が、毎朝決まって隣の席で退屈そうに寝たふりをしている、あの不愛想な男だということを。




