第14話:体育祭の裏側
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体育祭当日。快晴。
六月最終週の土曜日。聖嶺学園の校庭は色とりどりの万国旗で飾られ、トラックには白線が引かれ、放送室からは軽快な行進曲が流れている。
保護者席にはカメラを構えた親たちが座り、校庭には体操服姿の生徒たちが組み分けごとに整列している。晴天に恵まれた絶好の体育祭日和だった。
白石凛は紅組の応援団長を務めていた。
鉢巻きを巻き、メガホンを片手に声を張り上げている。その姿は眩しいほどに華やかで、紅組の生徒たちの士気を否が応でも高めた。
「紅組、ファイトー!」
「「「おー!」」」
地鳴りのような声援が校庭に響く。白石は笑顔でメガホンを振り——だが、その目は時折、校舎の方をちらりと見ていた。
朝から、微かな異能反応を感じていた。
学校の外周。複数。弱いが、確かに異能者の気配がある。
——来たか。
白石は笑顔を崩さないまま、左手首のスマートウォッチを確認した。特務機関からの緊急メッセージ。
『聖嶺学園周辺に複数の異能反応を検知。蛇の目残党の可能性。警戒されたし』
予想通りだった。むしろ、いつ来てもいいように準備はしていた。問題は——体育祭の最中に動かなければならないこと。数百人の生徒と保護者が見ている前で、戦闘は不可能だ。
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一方、黒瀬零はトラック横のテント下で、出番を待っていた。
クラス対抗リレーは午後のプログラム。四走——アンカーの一つ前。黒瀬にとっては「適度に手を抜いて走る」という、ある意味で最も集中力を要する競技だ。
だが、黒瀬の意識は競技のことにはなかった。
朝から、異能反応の急増を感知していた。校舎の外周に五つ。うち三つは固定位置——待機中。残り二つが移動している。
そして——校舎内から、もう一つ。用務員の村瀬。
「鉄心」
「おう、何だ」
隣に座る鉄心に、黒瀬は静かに言った。
「この後、俺がいなくなっても気にするな」
「は? お前リレーあるだろ」
「すぐ戻る」
「いや意味わかんねーんだけど。何かあんのか?」
黒瀬は鉄心の目をまっすぐに見た。
「——何もない。ただ、トイレが近いんだ」
「嘘つけ。お前がトイレで席外すなんて聞いたことねーぞ」
「今日が初めてだ」
鉄心は納得していなかったが、黒瀬の目に浮かぶ「これ以上聞くな」という光を読み取り、口を閉じた。
「……わかった。リレーに間に合えよ」
「ああ」
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午前の競技が進んでいく。
二百メートル走。玉入れ。障害物競走。騎馬戦。午前最後の団体競技が終わり、昼休みに入った。
黒瀬は弁当を食べるふりをして校庭を離れた。
校舎裏に回り、体操服の上からジャージを羽織る。外套は持ってきていない——体育祭の日に黒いコートを持ち歩くわけにはいかないからだ。代わりに、灰原から預かった小型イヤホンを耳に入れた。
『聞こえるか、黒瀬』
灰原の声。
「聞こえる」
『村瀬が動いた。校舎の地下倉庫で何かを起動している。異能反応のパターンから見て、通信増幅装置だ。外の連中と連絡を取り合っている』
「外の布陣は」
『C級が二人、正門と裏門に一人ずつ。B級が一人、北側の住宅街に待機。B級の能力は——重力操作だ。厄介だぞ』
「……重力操作か」
黒瀬の表情が引き締まった。重力操作は攻防一体の能力だ。対象の周囲の重力を操作し、押しつぶしたり無重力にして翻弄したりする。近づけなければ能力無効化が使えない。
「まず村瀬を先に処理する。外の連中は白石が気づいているはずだ——あいつなら、C級二人は問題ない。B級を俺がやる」
『了解。一つ注意がある。白石に気づかれるなよ。お前の正体がバレるのは、今日に限っては最悪のシナリオだ』
「わかっている」
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黒瀬は校舎内に入った。
体育祭の間、校舎は施錠されているが、職員用の通用口は開いている。そこから入り、人気のない廊下を足音なく進んだ。
地下倉庫への階段を降りる。
薄暗い地下通路。壁にはパイプが走り、非常灯だけが緑色の光を投げかけている。
倉庫の扉の前に立つ。中から微かな電子音が聞こえる。村瀬が通信装置を操作している。
黒瀬は扉を音もなく開けた。
村瀬が振り返った——その瞬間、能力無効化が発動した。
村瀬のワイド・センスが消失した。探知網が一瞬で消え、村瀬の世界は「普通の人間」の感覚だけに戻った。
「な——誰だ、お前——!」
村瀬が通信機に手を伸ばした。だが黒瀬の方が速かった。
右手で村瀬の腕を掴み、ねじり上げる。左手で首筋の急所を圧迫。三秒もかからなかった。村瀬の体が力を失い、崩れ落ちた。
意識を刈り取っただけだ。殺しはしない。殺せば事が大きくなる。
黒瀬は通信装置を確認した。画面には、外の異能者たちとの通信ログが表示されている。
「『午後二時。リレー競技中に行動開始。C級二名が陽動。B級がS級エージェントを捕捉する』」
黒瀬は通信装置を破壊した。
灰原にメッセージを送る。
『村瀬を制圧。記憶操作を頼む。通信装置は破壊した。外の連中は予定通り動くはずだ——通信が途絶えたことに気づく前に仕掛けてくる』
返信。
『了解。村瀬の記憶は処理する。お前は外に回れ。時間がない』
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午後一時四十五分。
体育祭は午後の部に入り、校庭は再び活気に包まれていた。
プログラムはクラス対抗リレーの直前。生徒たちはトラック周辺に集まり、各クラスの応援が絶頂に達している。
白石凛は——いなかった。
紅組の席に、白石の姿がない。
「白石さん、どこ行った?」
「さっき『ちょっと体調悪くて保健室行ってくる』って——」
白石は保健室に向かうと言って席を離れ、校舎に入った——と見せかけて、校舎の裏から校外に出ていた。
制服のスカートの下にはエージェント用の戦闘タイツを仕込んでいる。白いコートと仮面は、朝のうちに校舎裏の植え込みに隠しておいた。手際よく装備を身につけ、学園の外に出る。
正門側のC級異能者——能力は音波操作。超音波を放つタイプ。白石が接近した瞬間、キーンという高周波の音波が襲いかかった。
白石は氷の壁で音波を遮断し、一息に間合いを詰めた。音波は壁や空気を伝播するが、氷の密度があれば減衰させられる。右手を相手の胸に叩きつけ、一瞬で上半身を凍結。倒れた男が地面に転がる。
制圧完了。所要時間、二十秒。
裏門側にもう一人。こちらは——すでに白石が駆けつける前に、何者かが制圧していた。
裏門の植え込みの影に、C級異能者が気を失って倒れている。外傷はほぼない。首筋に、何かで圧迫されたような小さな痣があるだけ。
「……掃除屋さん?」
白石が周囲を見回した。人気のない裏門。午後の日差しが、アスファルトに強い影を落としている。
気配はない。だが——白石には分かった。
あの人がここにいた。
考える暇はなかった。残り一人——B級。北側の住宅街。異能反応が動き出している。学園に向かってきている。
白石は走った。
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学園の北側。住宅街と学校の敷地を隔てるフェンスの外。
B級犯罪異能者が待ち構えていた。
大柄な男。革のベストに刈り上げた頭。両手を前に突き出し、周囲の空気が歪んでいる——重力操作の能力者。
「やっと来たか、白雪」
男が低い声で笑った。背後のアスファルトが、重力の歪みで蜘蛛の巣状に陥没している。男の周囲五メートルほどの空間が、目に見えて歪んでいる。空気が蜃気楼のように揺らめき、落ち葉が不自然な角度で地面に張り付いている。
「蛇の目の仇討ちだ。お前と、あのファントムってヤツを——まとめてぶっ潰す」
白石は仮面の下で唇を引き結んだ。
——重力操作。厄介だ。
事前の情報では、男の名は『鉄槌』。蛇の目の中でも武闘派として知られたB級異能者。重力を操る攻防一体の能力は、対近接型の白石にとって最悪の相性だった。
「蛇の目の残党ね。あなたたち、学園に手を出したことを後悔させてあげる」
「ほう。やってみな」
男が右手を振り下ろした。
白石の周囲の重力が、突然三倍に跳ね上がった。
「ぐっ……!」
膝が折れそうになる。体が鉛のように重い。立っているだけで全身の筋肉が悲鳴を上げる。重力操作——直撃すれば、人体は自重で潰される。
白石は歯を食いしばり、足元の地面を凍結させた。氷の柱を地面から生やし、自分の体を支える。だが重力は全方向に作用する。氷の柱自体も重力で圧縮され、ミシミシと軋む。
「氷じゃ重力は止められねぇよ!」
男が重力の出力を上げた。白石の体が地面に押しつけられる。コンクリートに亀裂が走った。
——考えろ。
白石は押し潰されそうな体で思考を巡らせた。
重力操作の弱点。この能力は自分を中心とした「圏域」に作用する。つまり——男から離れれば重力は弱まるはずだ。
白石は全身の力を振り絞り、後方に跳んだ。三倍の重力の中で跳躍すること自体が常軌を逸した身体能力だったが、白石の足は確かにアスファルトを蹴った。
五メートル後退。重力が二・五倍程度に下がった。それでも十分に重いが——動ける。
「逃がさねぇよ!」
男が追った。地面を踏み砕きながら接近する。
白石は距離を維持しながら、氷の弾丸を放った。右手から五発の鋭い氷塊が、弧を描いて男に向かう。
だが——弾丸が男の圏域に入った瞬間、軌道が曲がった。まるで見えない壁にぶつかったように氷弾が逸れ、アスファルトに突き刺さって砕ける。
「無駄だ。俺の重力圏の中じゃ、何を飛ばしても俺には当たらねぇ」
男が嗤った。自信に満ちた笑みだった。当然だろう。白石の絶対氷結は、対象に「触れる」か「氷を射出する」かのどちらかで攻撃する。だが重力操作は、どちらも封じる。接近すれば押し潰され、遠距離攻撃は軌道を捻じ曲げられる。
白石は作戦を変えた。
地面に右手を叩きつけ、足元から凍結波を走らせた。地表を這う氷の波。投射物ではなく、地面を伝う攻撃なら軌道を曲げられない——
だが、男が足を踏み鳴らした。重力の衝撃波が地面を揺らし、氷の波が男の足元に到達する前にアスファルトごと粉砕された。
「氷がどんだけ堅かろうが、重力で潰せばただの水だ。わかんねぇのか、嬢ちゃん」
男が両手を掲げた。白石の頭上に、巨大な重力場が形成された。
——上から。
白石は横に転がった。一秒前に立っていた地面が、見えない力で数十センチめり込む。人間の体がそこにあれば——骨格ごと押し潰されていた。
「ここまでB級に苦戦するのは……久しぶりね」
白石は息を整えながら、冷静に状況を分析していた。体に刻まれた訓練が、恐怖よりも先に思考を回す。
——まともにやっても勝てない。この男の圏域に飛び道具は通じないし、接近すれば重力で押し潰される。なら——圏域そのものを凍らせる。空間ごと。
白石は一度の大量消費型の異能使用を覚悟した。通常の戦闘では使わない、切り札。
両腕を広げる。
全身から冷気が溢れ出し、白い息が凝縮する。周囲の気温が急激に下がり、男の足元の水溜まりが凍っていく。
——絶対氷結・広域展開。
白石を中心とした半径十五メートルの空間を、一気に凍らせる。男の重力圏ごと、空気を凍結させて動きを封じる。
「何をする気だ——?」
男が異変を察知した。足元に霜が広がり、吐く息が白くなる。真夏の午後だというのに、気温が氷点下にまで急落している。
「——凍りなさい」
白石が叫んだ。
氷結が一気に展開される。地面が、空気が、光すらも白く凍りつく——
だが。
男が咄嗟に重力を反転させた。
自分自身に上向きの重力をかけ、強引に氷結圏から離脱する。地面から数メートル浮き上がり、凍結の波を頭上から回避した。
「危ねぇ……! だが、甘いな!」
空中から、男が重力を叩きつけた。
白石は広域展開の直後で、異能の出力が一時的に低下していた。全力を出した反動。体が重い。足に力が入らない。
——まずい。
重力が白石の体を打った。今度は五倍。
「がっ——!」
白石の体が地面に叩きつけられた。仮面が砕けて飛んだ。コンクリートに額をぶつけ、視界に星が散る。左腕を庇い損ねて、肩に鈍い痛みが走った。
——脱臼、ではない。だが肩の靭帯が伸びた。左腕がうまく上がらない。
「S級だかなんだか知らねぇが、しょせんは小娘だ」
男がゆっくりと着地した。余裕の笑み。白石を見下ろしている。
「さぁ、大人しくしな。お前を生きたまま連れていく。深淵の連中が、S級エージェントの身柄を欲しがってるんだよ」
——連れていかれる。
白石の脳裏に、最悪のシナリオが走った。自分が捕まれば、特務機関の情報が漏れる。学園の仲間たちが危険に晒される。黒瀬くんも——鋼田くんも——
白石は右腕だけで体を起こそうとした。だが重力が離してくれない。指先すら持ち上がらない。五倍の重力の中では、自分の手首の重さすら耐えがたい。
視界がぼやける。体力の限界。異能の出力低下。多重の不利が重なって、白石凛は——生まれて初めて、「このまま負けるかもしれない」と思った。
——嫌だ。
ここで終わるわけにはいかない。まだ守らなきゃいけないものがある。応援席で待っている生徒たち。何も知らずに笑っている日常。
黒瀬くんに、まだ「ありがとう」を言えていない。弁当の感想も、まだちゃんと聞けていない。
「……私は」
白石の右手に、最後の冷気が集まった。わずかに残った異能の残滓。氷の刃を形成しようとするが、重力がそれを阻む。指先に氷が結晶化しかける——だが五倍の重力に押しつぶされて、形を保てない。
「諦めな、嬢ちゃん」
男が白石の腕を掴もうと手を伸ばした。
その瞬間——
重力が消えた。
突然。前触れなく。五倍だった重力が、一瞬で一倍に戻った。
圧倒的な開放感が全身を突き抜けた。空気が軽い。体が動く。指先に力が戻る。
「——は?」
男が自分の手を見た。重力を操ろうとするが——何も起きない。能力が発動しない。まるで異能そのものが体から消え去ったように、何の反応もない。
「俺の能力が——なんだ、何が——! バカな、何が起きてる!?」
男が動揺した。生まれて初めて、自分の能力を失う恐怖。それは異能者にとって、手足をもがれるに等しい。
白石は一瞬の解放を見逃さなかった。
地面から跳ね上がる。全身が悲鳴を上げている。左肩の激痛。額から流れる血。満身創痍——だが、異能は戻った。右手に冷気が凝縮する。
「——終わりよ」
右手から放たれた氷の奔流が、重力を失った男を一直線に捉えた。足元から胸元まで、一気に凍結。男は氷の中で目を見開いたまま——動きを止めた。
静寂が訪れた。
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白石はその場に膝をついた。
荒い息。額の傷から血が頬を伝い、アスファルトに赤い点を落とす。左腕が上がらない。全身の筋肉が、重力の後遺症で痙攣している。
——勝った。でも……一人じゃ勝てなかった。
確信があった。重力が消えたあの瞬間、あの「安心する気配」を感じた。掃除屋——ファントムが、どこかからこの戦闘を見ていて、決定的な瞬間に能力無効化を発動した。
もしあの介入がなければ——自分は今頃、深淵の工作員に連れ去られていた。
白石は血で汚れた顔のまま、周囲を見回した。
住宅街の静かな通り。午後の日差し。猫が塀の上を歩いている。
誰もいない。いつものように、あの人は姿を見せない。
「……ファントム」
白石は痛む体を引きずって立ち上がった。仮面の破片を拾い上げ、白いコートで額の血を拭う。
応援席に戻らなければならない。体育祭はまだ続いている。何食わぬ顔で——笑顔で。
「今日は……危なかった。ありがとう」
届かない言葉を空に放ち、白石は震える足で学園に向かって歩き出した。
左肩を庇いながら。額の傷を前髪で隠しながら。S級エージェント・白雪は、再び「学園のアイドル・白石凛」の仮面を被る。
その瞳の奥に、今日初めて宿った感情があった。恐怖ではない。あの人への——あの見えない守護者への、痛いほどの感謝と、それに見合うだけの強さを持てなかった自分への悔しさだった。
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午後二時十五分。
クラス対抗リレー、スタート。
黒瀬零は何食わぬ顔で、四走のスタート位置に立っていた。
息は若干上がっている。五分前まで住宅街のビルの屋上から重力操作の異能を無効化し、その後全速力で校庭に戻ってきた。だがそれを表には出さない。
「黒瀬、大丈夫か? 顔色悪いぞ」
隣の走者が声をかけてきた。黒瀬は「問題ない」とだけ答えた。
ピストルが鳴った。一走が飛び出す。歓声が校庭を揺らす。
二走にバトンが渡る。三走に。そして——
「黒瀬くん、頑張ってー!」
紅組の応援席から、白石の声が響いた。いつの間にか戻ってきている。保護者たちに「体調は大丈夫」と笑顔で答えながら、応援席の最前列で黒瀬に声援を送っている。
——あいつ、五分前まで戦闘していたのに。
黒瀬は呆れと——微かな感心を覚えた。
だが黒瀬の目は、白石のわずかな異変を見逃さなかった。メガホンを振る右腕はいつも通りだが、左腕が動いていない。体の左側を庇うように、わずかに姿勢が傾いている。前髪がいつもより下ろされている——おそらく額の傷を隠すために。
——怪我をしている。
あの重力操作のB級は、白石にここまでのダメージを与えたのか。黒瀬の介入はギリギリ間に合ったが——もう数秒遅れていたら。
胸の奥に、冷たいものが広がった。
バトンが手に渡った。走る。
絶妙な手抜き。全力の六割程度の速度を維持する。腕振りを意図的に大きくして、いかにも「全力で頑張っている一般高校生」の走りを演出した。
結果は——クラス三位。悪くもなく、良くもない。完璧な「普通」。
「微妙に速いのが逆に気持ち悪い」
ゴール後、鉄心が笑った。黒瀬は息を切らしたふりをしながら、「全力を出した結果だ」と嘘をついた。
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体育祭が終わった。
夕方。片付けを終えた校庭に、オレンジ色の夕日が差し込んでいた。
黒瀬はテントの解体を手伝いながら、校舎の方を見た。灰原が保健室の窓辺に立ち、小さく頷いた。
——村瀬の記憶は処理済み。C級二人の処理も完了。B級は特務機関が回収するだろう。
全てが片付いた。
生徒たちは何も知らない。体育祭は大成功のまま終わった。異能犯罪の影は、誰の目にも触れなかった。
「黒瀬くーん」
白石が走ってきた。額に汗を浮かべ、鉢巻きをまだ巻いたまま——応援団長の勲章のように。
笑顔だった。だが黒瀬は気づいていた。走り方が微妙にぎこちない。左肩を動かさないように、右半身だけで駆けている。額の鉢巻きの下に、コンシーラーで隠された傷跡がうっすらと見える。
「お疲れ様! リレー、頑張ったね!」
「……三位だ」
「三位でも頑張ったのは変わらないよ。ね、後で打ち上げしない? 鋼田くんも一緒に、ファミレスとか」
「おう! 行く行く!」
鉄心が嬉々として駆け寄ってきた。黒瀬は二人の顔を交互に見て——小さく息を吐いた。
「……好きにしろ」
「やった!」
白石が両手を上げて喜ぼうとして——左腕が途中で止まった。一瞬だけ、表情に痛みが走る。だがすぐに笑顔で取り繕い、右手だけを高く挙げた。
鉄心はそれに気づかなかった。
黒瀬だけが、気づいていた。
黒瀬は校門に向かって歩き出す二人の後ろを、少し遅れて歩いた。
夕日が三人の影を長く伸ばしている。
今日、自分は何のために戦ったのか。
掃除屋としてではない。報酬のためでもない。日常を守るため——この何でもない放課後を、白石の笑顔を、鉄心の馬鹿話を、屋上で食べる弁当を——守るために動いた。
それは掃除屋・ファントムの領分を超えた行動だった。
だが——後悔はなかった。
「黒瀬くーん、早く来て! ファミレス混んじゃうよ!」
「急げ急げ! 俺ハンバーグ食うぞ!」
「……行く」
黒瀬は歩幅を少しだけ広げ、二人に追いついた。
三人の影が重なり、燃えるような夕日の中に長く伸びていく。
聖嶺学園の体育祭は、こうして幕を閉じた。表の世界では何事もなく、ただ平和な一日として。
その裏側でどれほどの死闘が繰り広げられたかを知る者は、ほんの一握りだけだった。
そして——ファミレスのボックス席で、白石がドリンクバーのグラスを左手で持とうとしてそっと右手に持ち替えた、その小さな仕草を見つめながら、黒瀬零は静かに思った。
——守りきれたのか。本当に。
白石は笑っている。鉄心が騒いでいる。日常は続いている。
だが白石の左肩は上がらない。額には隠しきれない傷がある。
自分が間に合わなかった数分に、あれだけのダメージが積み重なった。
もし次に、もっと強い敵が来たら。もし自分が間に合わなかったら。
——守るだけでは、足りないのかもしれない。
その思いを胸の奥に押し込み、黒瀬はハンバーグのプレートに手をつけた。白石が「あ、黒瀬くんもハンバーグにしたんだ」と嬉しそうに笑った。鉄心が「お揃いかよ」とからかった。
いつもの風景。いつもの暖かさ。
だが黒瀬の目だけが、いつもより深い影を宿していた。




