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第13話:嵐の前の静けさ

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 六月も終わりに近づき、聖嶺学園は体育祭の準備に沸いていた。

 クラスごとの出し物、応援のダンス、そしてクラス対抗リレー。教室には手書きのポスターやスローガンが貼り出され、放課後は準備に追われる生徒たちの活気で校舎が揺れている。

 二年三組のHR。体育祭実行委員の女子が、黒板の前に立って選手リストを読み上げていた。


「クラス対抗リレーの選手ですが、一走が鋼田くん、二走が田中くん、三走が——」

「白石さんの推薦で、四走は黒瀬くんに決まりました」


 教室が静まり返った。

 黒瀬が目を開けた。


「……聞いてないんだが」

「昨日の放課後、白石さんが推薦してくれたんだよ。体育の時間の持久走で黒瀬くんが速かったって」


 黒瀬は白石の方を見た。白石は悪びれもせず、にっこりと微笑んでいた。

「黒瀬くん、意外と足速いでしょ? もったいないよ」

「……断る」

「えー、もう決まっちゃったもん。ね、実行委員さん」

「うん、もう提出しちゃった」


 黒瀬は額に手を当てた。白石凛の行動力は、時として暴力的だった。


---


 放課後。校庭のトラックでリレーの練習。

 黒瀬にとって、これは地雷原を歩くに等しい行為だった。

 掃除屋・ファントムの身体能力は、一般的な高校生の域を遥かに超えている。幼少期からの過酷な訓練で鍛え上げた体は、プロアスリートと比較しても遜色ない。全力で走れば——確実にバレる。


 かといって、あからさまに遅く走れば「何でわざと遅くしてるのか」という疑問を持たれる。

 つまり、「高校生男子として自然な速さ」を演出しなければならない。

 ——遅すぎず、速すぎず。普通男子の上位層くらいの速度を維持する。

 簡単に聞こえるが、実際にやると恐ろしく難しい。アクセルを踏むことよりも、ブレーキをかけ続けることの方が遥かに神経を使う。


 百メートルを走り終えた黒瀬の横で、鉄心が首を傾げた。

「なぁ、黒瀬」

「何だ」

「お前、なんか走り方おかしくない?」


 黒瀬の心拍が跳ねた——が、顔には出さない。

「何がだ」

「なんつーか……上半身と下半身の動きが噛み合ってないっつーか。足は速いのに、腕振りがわざとらしいっつーか」

「——気のせいだ」

「いや、柔道やってると人の身体の動きには敏感なんだよ。お前、なんか変な力入れてね?」

「……運動不足で体が硬いだけだ」


 鉄心は納得していない顔をしていたが、それ以上は追及しなかった。

 黒瀬は内心で冷や汗をかいていた。鉄心の観察眼は、格闘者としての経験に裏打ちされたものだ。ごまかし続けるのは難しい。

 次の練習からは、もう少し上半身のフォームを崩して「運動音痴寄り」に偽装する必要がある。


---


 同じ頃。白石凛は別の意味で追い詰められていた。

 体育祭の準備と並行して、特務機関の任務が増えている。蛇の目の残党が都内各所で散発的な犯罪を起こしており、白石は夜間パトロールを連日こなしていた。

 昼間は応援団長としてダンスの振り付けを指導し、放課後は生徒会の事務処理、夜は制服を脱いでエージェントとして戦場に立つ。


 三足のわらじ。

 疲労は確実に蓄積していた。

 四時間目の数学。白石は教科書を開いていたが、文字が滲んで見えた。瞼が重い。意識が遠のく。

 ——ダメ。寝ちゃダメ。


 白石は太ももをつねって覚醒を保った。だが、頬杖をつく手が滑り、一瞬だけ机に額がぶつかりそうになった。

 それを——窓際最後列から、黒瀬がじっと見ていた。


---


 昼休み。屋上。

 三人で弁当を食べている時、黒瀬はさりげなく白石を観察していた。

 目の下にうっすらと隈がある。化粧で隠しているが、黒瀬の目は誤魔化せない。箸を動かす手にも、微かな震えがある。体力の限界が近い。


「……白石」

「ん? 何?」

「最近、寝てるか」


 白石が一瞬だけ箸を止めた。すぐに笑顔を取り繕う。

「寝てるよ? どうして?」

「顔色が悪い」

「えっ、そ、そうかな。化粧のせいかも。今日ちょっとファンデーションの色間違えちゃって——」

「嘘をつくのが下手だな」


 黒瀬の声は淡々としていたが、その目は白石をまっすぐに見ていた。白石は言葉に詰まった。

「……ちょっと、生徒会の仕事が忙しくて。体育祭の準備もあるし」

「無理するなとは言わない。だが限界を超えたら体を壊す。壊れてからでは遅い」


 白石は驚いた顔で黒瀬を見つめた。いつもぶっきらぼうな黒瀬が、ここまではっきりと心配を口にしたのは初めてだった。

「……ありがとう、黒瀬くん」


 白石が小さく笑った。本物の笑顔だった。完璧な仮面を被った微笑みではなく、少しだけ弱さが滲んだ、人間としての笑顔。

「少し、ペースを落とすようにするね」


 鉄心はその空気を読んで、黙々とカレーパンを食べていた。


---


 その日の放課後。

 黒瀬は教室を出る前に、ふと用務員の村瀬が校舎の裏をうろついているのを窓から目にした。

 村瀬の行動パターンが変わっていた。


 以前はゆったりと巡回していたのが、今日は足取りが速い。そして——頻繁にスマートフォンを確認している。落ち着きがない。焦りの色が見える。

 ——偽報告が疑われたか。

 黒瀬は灰原に目配せした。保健室の窓辺に立つ灰原が、微かに頷く。情報は共有されている。

 帰宅後。灰原からのメッセージ。


『深淵から村瀬への返信を傍受した。内容は「報告内容が不自然。再調査を命じる。次回報告の精度に疑義がある場合は工作員を交代させる」。村瀬は焦っているだろう。追い詰められた工作員ほど、露骨な行動に出る可能性がある。注意しろ』

 黒瀬はメッセージを読み、スマートフォンを置いた。

 窓の外を見る。夜の街並み。点在する街灯の光が、アスファルトを斑に照らしている。


 村瀬は追い詰められている。次の行動は予測できる——より直接的な証拠を掴もうとするはずだ。白石の異能を直接目撃するか、あるいは何らかの方法で異能を使わせようとする。

 自分の「異能反応ゼロ」についても、村瀬は気づいている。再調査を命じられた以上、黒瀬の調査も強化されるだろう。

 しかし——今の段階で村瀬を排除すれば、深淵はさらに優秀な工作員を送り込んでくる。村瀬は無害なC級だからこそコントロールしやすい。ここで手を打つべきは、村瀬を「使える駒」として維持し続けることだ。

 ——もう少し泳がせる。


---


 数日後。深夜。

 村瀬昭二が動いた。

 学園での調査に限界を感じた村瀬は、裏社会のルートを使って蛇の目の残党と接触した。目的は協力体制の構築。「学園内にS級エージェントがいることは間違いない。だが証拠を固めるためには、相手に能力を使わせる状況を作り出す必要がある」。


 蛇の目の残党は、毒蛾の壊滅の仇を討つチャンスだと飛びついた。

 密会の場で、計画が練られた。


「体育祭だ」

 村瀬が眼鏡を拭きながら、落ち着いた声で提案した。演技とはいえ、温厚な表情の裏に冷徹な計算がある。


「体育祭は生徒全員が校庭に集まる。異常事態が起きれば、S級エージェントは必ず動く。その瞬間を捉えれば、正体を特定できる。同時に——あの『異能反応ゼロ』の異常個体も動くかもしれない」

「計画は体育祭当日に決行する」


 その言葉が、暗い部屋の中で重く響いた。


---


 同じ夜。

 黒瀬のスマートフォンが震えた。灰原からの緊急連絡。


『通信を傍受した。蛇の目の残党と村瀬が合流した。計画は体育祭当日。目的はS級エージェントの正体暴露と確保。生徒に被害が出る可能性がある』

 黒瀬は暗い部屋の中で、メッセージを読み終えた。

 数秒の沈黙。

 布団から体を起こし、窓の外を見た。夜の東京。遠くでサイレンが鳴っている。


 白石の顔が浮かんだ。疲れた顔で笑う白石。焦げたクッキーを差し出す白石。雨の日に傘を分けてくれた白石。

 鉄心の顔も浮かんだ。呆れながらコロッケパンを食べる鉄心。「青春してるなぁ」と遠い目をする鉄心。

 屋上で三人で弁当を食べた昼休み。図書室で他愛もない会話をした放課後。何でもない日常の断片が、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。


 黒瀬の目が変わった。

 あの温もりのない、掃除屋の目に。


「——俺の日常に、手を出すな」

 声は低く、静かだった。だがそこに込められた感情は——黒瀬零がこれまでの人生で感じたことのない、烈火のような怒りだった。

 守るべきもの。失いたくないもの。


 掃除屋・ファントムは今まで、決して自分以外の何かのために本気で動くことはなかった。

 だが今夜——彼の中で、初めて何かが決定的に変わろうとしていた。

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