第12話:監視者と掃除屋
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深夜二時。
黒瀬零は闇の中を走っていた。
制服ではない。黒い外套に身を包み、フードを深く被っている。掃除屋・ファントムの姿。
村瀬昭二の自宅は、学園から電車で三駅の場所にある安アパートだった。深淵の工作員にしては質素な住居。偽装としては妥当だ——用務員の給料に見合わない高級マンションに住んでいたら逆に怪しい。
黒瀬はアパートの外壁を音もなく登り、二階の窓に取りついた。
窓の鍵は閉まっている。だが、村瀬は異能者だ。異能による警報装置が仕掛けられている可能性がある。
黒瀬は手袋を外し、素手で窓枠に触れた。
能力無効化が発動する。窓枠を中心に、半径数メートルの範囲で全ての異能が消失する。もし異能による罠があったとしても、この瞬間に無力化される。
鍵をピッキングで開け、窓を滑らせて室内に侵入した。
村瀬は隣の部屋で寝息を立てている。ワイド・センスは常時発動型ではなく、起きている間だけ使える集中型らしい。眠っている今は——ただの中年男性だ。
黒瀬はリビングのテーブルに向かった。ノートパソコンが閉じたまま置かれている。電源を入れ、パスワードを突破する。灰原から提供されたハッキングツールが、三十秒でロックを解除した。
画面に表示されたのは——深淵への報告書の下書き。
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**報告書:聖嶺学園潜入調査 中間報告**
対象校に赴任し、初期調査を完了。以下、現時点での報告。
1. S級エージェント候補として、二年三組・白石凛を特定。表向きは生徒会長として模範的な学生生活を送っているが、異能反応に訓練された制御パターンを確認。特務機関のS級エージェント「白雪」と同一人物と断定して問題ないレベル。
2. 上記以外の顕著な異能者は確認できず。ただし——一名、異能反応が完全にゼロの異常個体を確認。二年三組・黒瀬零。通常の人間でも存在するはずの微弱異能波動がゼロ。これは自然現象として説明がつかない。要継続調査。
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黒瀬は画面を見つめた。
——白石がバレている。そして、俺の異常にも気づいている。
最悪の状況ではないが、油断もできない。この報告書がそのまま深淵に届けば、白石の学園生活は終わる。下手をすれば、深淵の実行部隊が学園を襲撃する可能性もある。
黒瀬はキーボードに手を置いた。
報告書を書き換える。
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**報告書:聖嶺学園潜入調査 中間報告(改竄版)**
対象校に赴任し、初期調査を完了。以下、現時点での報告。
1. 校内の全生徒・教職員を対象に異能反応をスキャン。S級エージェントに該当する異能反応は確認できず。一部生徒から微弱な異能波動を検知したが、潜在的なものであり訓練された異能者のパターンとは乖離。事前情報の精度に疑問。誤報の可能性大。
2. その他特筆すべき異常なし。引き続き調査を継続するが、現時点では本校をS級エージェントの在籍校と断定する根拠は乏しい。再調査の要否について指示を求む。
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書き換えを完了し、元のファイルを上書き保存。送信済みのメールサーバーにもアクセスし、既に送られた過去の報告書も同様に改竄した。灰原が提供したバックドアプログラムが、深淵のサーバー側にも介入し、受信データを遡及的に書き換えている。
——これで時間が稼げる。
完璧な工作ではない。深淵が追加調査を命じれば、いずれまた情報は修正される。だが数週間の猶予は得られるはずだ。
黒瀬はパソコンのログを消し、電源を落とした。窓から外に出て、音もなく地面に着地する。
帰路につきながら、黒瀬はもう一つの作業に取りかかった。
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白石への間接的な守り。
それが、黒瀬の日課に加わったのは——いつからだったか。
白石の通学路を確認する。彼女が毎朝歩く住宅街の道筋。交差点の死角。ビルの隙間。狙撃ポイントになりうる高所。それらを夜間に巡回し、異常がないか確かめる。
白石の自宅周辺も同様だ。不審な車両、見慣れない人影、異能の気配。あらゆるリスク要因を洗い出し、排除する。
それは「仕事」ではなかった。誰からも依頼されていない。報酬も出ない。
——俺は何をしているんだ。
黒瀬は足を止めた。深夜の住宅街。街灯の光が、アスファルトに長い影を落としている。
仕事でもない。義理でもない。白石の安全を確認して——安心している自分がいる。
それが何を意味するのか、黒瀬は考えないようにした。考えたら、きっと面倒なことになる。
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翌朝。保健室。
黒瀬が報告書の改竄結果を伝えると、灰原は納得した顔で頷いた。
「上出来だ。深淵が偽報を鵜呑みにする保証はないが、少なくとも即座に動くことはないだろう。暫定的な安全は確保した」
「ああ」
「だが——一つ聞いていいか」
「何だ」
灰原が眼前の黒瀬を、じっと見つめた。
「お前、あの嬢ちゃんのことになると仕事より動くな」
黒瀬の視線が、一瞬だけ揺れた。
「俺の学園生活の平穏を守っているだけだ」
「ほう。白石の通学路を深夜に巡回するのが『学園生活の平穏を守る』行為か。俺にはもっと個人的な動機に見えるがな」
「……バレてたのか」
「お前の行動範囲は俺が把握している。最近、明らかに白石凛の生活圏を中心に動いている。掃除屋としてではなく——一人の人間として」
黒瀬は答えなかった。否定することも、肯定することもできなかった。
灰原は小さく笑った。珍しく、皮肉ではない——どこか優しさを含んだ笑みだった。
「はいはい。まぁ、お前が動く理由は何でもいい。結果的に学園が安全なら、俺としても助かる」
「……あの嬢ちゃんに入れ込むなと言ったのはお前だろう」
「言った。今も言う。だが——お前がどう感じるかを、俺が止める権利はない」
灰原が立ち上がり、白衣の埃を払った。
「ただな、黒瀬。お前は掃除屋だ。あるいは——もうすぐ、選ばなきゃならなくなる。『掃除屋の自分』と『あの嬢ちゃんの隣にいる自分』は、両立しない。いずれ、どちらかを手放す時が来る」
黒瀬は何も言わず、保健室を出た。
廊下の向こうから、白石凛が歩いてくるのが見えた。
「あ、黒瀬くん。保健室に行ってたの? 体調悪い?」
「……何でもない。ちょっと頭痛がしただけだ」
「もう、ちゃんと寝てる? 最近、目の下にクマがあるよ」
白石が心配そうに黒瀬の顔を覗き込む。黒瀬は視線を逸らした。クマの原因は睡眠不足——深夜の巡回のせいだが、もちろん言えない。
「……大丈夫だ」
「大丈夫じゃなさそうだけど……はい、これ」
白石がポケットからのど飴を取り出して、黒瀬の手に押し付けた。
「ビタミンC入りだよ。免疫力上がるから」
「……ありがとう」
無意識に出た言葉に、黒瀬自身が驚いた。白石も目を丸くし——すぐに、花のような笑顔を浮かべた。
「どういたしまして」
白石が足取り軽く去っていく。黒瀬は手の中ののど飴を見下ろした。
——面倒だな。
いつものように口にした言葉。だが——その言葉に込められた熱量が、以前とは決定的に違うことを、黒瀬自身が一番よくわかっていた。
もう、後戻りはできないところまで来ているのかもしれない。




