第11話:侵食
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翌週の月曜日。全校朝礼で、教頭が壇上に立った。
「皆さんにご報告があります。前任の用務員さんが退職されたため、本日より新しい用務員さんが赴任されました。村瀬さんです」
壇上の隅に、温厚そうな中年男性が立っていた。
中肉中背。少しだけ猫背で、度の強い眼鏡をかけている。作業着の上からでもわかる柔和な雰囲気。人畜無害という言葉がそのまま人の形を取ったような、どこにでもいる用務員。
「村瀬です。皆さんの学校生活を裏方から支えていけたらと思います。どうぞよろしくお願いいたします」
穏やかな自己紹介に、拍手がまばらに起きた。
体育館の後方、二年三組の列。黒瀬零は腕を組んだまま、壇上の男を見ていた。
目は閉じているように見えて——半分開いている。
——違和感。
黒瀬の全身のセンサーが、微かな警告を発していた。
あの男の周囲に、一般人にはあり得ないものがある。異能の気配。ごく僅かな、だが確かな異能反応の残り香。普通の人間から発せられる微量な異能波動とは質が違う——あれは、意図的に制御されている異能だ。
だが——確証はない。
異能の気配を感じ取れるのは黒瀬の能力無効化に付随するセンサー的な直感であり、数値化できるものではない。思い過ごしの可能性もある。元エージェントが退職後に民間に就職している例もある。
——様子を見る。
黒瀬は結論を出し、目を完全に閉じた。
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村瀬昭二という名前の工作員が聖嶺学園に配置されたのは、深淵の指令による。
能力は『感知拡大』。半径五十メートル以内の全ての異能反応を感知できるC級異能。戦闘力はほぼゼロだが、偵察と情報収集に特化した能力者。
任務は二つ。
S級エージェントの正体確認。そして、学園内の異能者の洗い出し。
用務員という偽装身分は理想的だった。校内のあらゆる場所に出入りでき、不自然に見えない。ゴミの回収、花壇の手入れ、窓の修理——日常業務の名目で、校内を自由に巡回できる。
赴任初日。村瀬は校舎内をゆっくりと歩きながら、能力を発動していた。
——感知開始。
薄い光のベールが村瀬の周囲に広がる。目には見えない、異能の探知網。これに触れた異能反応は、位置・種類・強度が全てフィードバックされる。
歩くたびに、データが蓄積される。
教室棟。異能反応——なし。普通の生徒ばかりだ。この学校に通う生徒の大半は、異能を持たない一般人のようだ。
職員室。微弱な異能反応——養護教諭。保健室の方角。だがこれは微弱で、潜在的なものに近い。一般人でも稀に見られるレベル。
特別教室棟を回り、体育館を巡回し、校庭の隅まで歩く。
——そして。
二年三組の教室の前を通りかかった時、村瀬は足を止めた。
教室の窓際最後列。そこに座る一人の男子生徒から——異能反応がゼロだった。
ゼロ。
完全な、ゼロ。
普通の人間でも、微量の異能反応はある。人体には生体磁場があり、それに付随する異能波動は全ての人間が発している。水が地表に存在するように、異能は万物に遍在する。ゼロということは、本来あり得ない。
——異常個体。
村瀬は、何食わぬ顔でモップを動かしながら、その異常値を記憶に刻んだ。
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日が経つにつれて、村瀬の行動はパターン化されていった。
朝、校門付近の清掃を装いながら、登校する生徒たちの異能反応をスキャン。昼休み、校舎内の巡回。放課後、部活動周辺の監視。
そして——白石凛を重点的に監視していた。
白石凛。二年三組。生徒会長。成績優秀。運動神経抜群。学園のアイドル。
表の顔は完璧だった。だが村瀬のワイド・センスは、白石から微かな異能反応を検知していた。それ自体は珍しくない——異能を持つ人間が一般社会に紛れていることは多い。
問題は、その強度だ。
白石から検知される異能反応は、日によって変動している。普段は低い値を維持しているが——特定のタイミングで、急激に上昇する瞬間がある。それは訓練された異能者特有のパターン。能力を制御し、普段は抑え込んでいるが、集中するとリミッターが外れかける。
——この生徒は、訓練を受けた異能者だ。
村瀬は確信した。
毎日の観察結果をメモに記録し、夜になると自宅のアパートから深淵に暗号化レポートを送信する。
レポートの内容は着実に蓄積されていった。
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黒瀬零は、村瀬の不自然な行動に気づいていた。
用務員が特定の場所でメモを取る。白石の近くに頻繁に現れる。巡回のルートが「仕事上の合理性」とは異なるパターンを描いている。
あれは監視行動だ。黒瀬は誰よりも早く、その結論に至った。
保健室。昼休み。
「灰原」
白いカーテンの向こうで、灰原が欠伸をしていた。
「何だ。また来たのか。保健室は病人の場所だぞ」
「頼みがある。新しい用務員——村瀬昭二の身元を調べてくれ」
灰原が欠伸を止めた。半開きだった瞳が、鋭く開く。
「……何か感じたか」
「異能反応がある。C級程度だが、意図的に制御されている。それと——白石の行動を重点的に監視している」
「詳しく」
「巡回ルートが不自然だ。花壇の手入れの時間帯が、白石の行動パターンと一致している。体育の授業中に校庭の掃除をしているが、掃除道具に触れている時間より白石を見ている時間の方が長い」
灰原は白衣のポケットから端末を取り出し、何かを打ち込んだ。
「……村瀬昭二。身分は偽造だろうが、確認する。一日くれ」
「頼む」
翌日。灰原の調査結果は明確だった。
「アビスの工作員だ。能力はワイド・センス——感知拡大型。戦闘能力はゼロに近いが、偵察に特化している。お前の学校の異能者を洗い出すために送り込まれた」
灰原の声が低くなった。
「厄介だ、黒瀬。蛇の目の壊滅で、上位組織が直接動き出したということだ。蛇の目は使い捨ての末端に過ぎない——深淵こそが本体だ」
黒瀬は窓の外を見た。用務員の村瀬が、花壇の前でしゃがみ込んでチューリップの手入れをしている。穏やかな笑顔を浮かべながら、通りかかる生徒に会釈している。
完璧な演技だった。
「即座に処理するか?」
「しない」
黒瀬は即答した。
「学校で人が消えれば騒ぎになる。それに、アビスは一人消えてもすぐに次を送り込んでくる。根本的な解決にはならない」
「じゃあどうする」
「報告書を操作する。偽情報を流して、この学校から目を逸らさせる」
灰原がわずかに口角を上げた。
「……お前、そういうのにも頭が回るようになったな」
「掃除屋は腕力だけじゃない。そう教えたのはお前だろう」
「まぁな」
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一方で、日常は続いていた。
五時間目の休憩。白石が黒瀬の席にやってきて、可愛らしい包みを差し出した。
「はい、これ」
「……何だ」
「クッキー。昨日の夜、焼いたの」
黒瀬は包みを受け取った。リボンをほどき、中を見る。
——焦げている。
いや、正確に言えば「焦げている部分」と「焦げていない部分」がある。つまり焼きムラだ。形もバラバラで、星型を目指したと思われる外形は、八割が隕石のような不規則な塊になっていた。
「頑張って作ったんだけど、ちょっと火加減が難しくて……」
白石が恥ずかしそうに視線を逸らした。完璧超人の白石凛にも苦手なものがあるらしい。料理——特にお菓子作りは、彼女の数少ないウィークポイントのようだ。
「……食えるのか、これ」
「食べられるよ! ちゃんと味見したもん!」
黒瀬は焦げたクッキーを一つ摘まんで口に入れた。
——苦い。そしてほんのり甘い。バターの風味は確かにあるが、焦げた小麦粉のビター感が支配的だ。
だが。
「……まぁ、食えなくはない」
黒瀬は残りのクッキーも、一つ一つ口に運んだ。全部食べた。一つも残さなかった。
白石の目が丸くなった。
「全部……食べてくれたの?」
「出されたものは食べる主義だ」
「……ありがとう」
白石の声が、少しだけ震えた。嬉しさを押し隠すように、口元を手で覆って笑った。
「次はもっと上手に作るね!」
「……期待しないで待ってる」
「あ、それ期待してるってことだよね?」
「してない」
「してるでしょ」
「してない」
後ろの席で、鉄心が二人のやり取りを聞きながら、机に突っ伏していた。
「青春……してるなぁ……」
遠い目をした鉄心の呟きは、誰にも拾われない。
この暖かく穏やかな放課後が、すでに深い悪意の網目に絡め取られていることなど、今はまだ誰も知る由がなかった。




