第10話:雨の日の距離
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梅雨が来た。
六月半ば。東京の空は鉛色の雲に覆われ、朝から冷たい雨が降り続いていた。校庭は水浸しで、部活動のほとんどが室内練習に切り替わるか中止になった。
五時間目の窓の外を、雨が叩いている。
黒瀬は窓際の席から、滲むように揺れる校庭を眺めていた。雨の日は嫌いではない。人の気配が消え、街が静かになる。掃除屋としても、雨音は足音を消してくれる。
——今日は傘を忘れた。
朝、家を出る時には曇りだった。天気予報を見なかったのは確認ミスだ。掃除屋として、天候を読まないのは致命的な失態——だが、今回は仕事ではない。ただの日常だ。
放課後のチャイムが鳴った。
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下駄箱で靴を履き替え、玄関ホールに出る。
雨は一向に弱まる気配がなかった。むしろ強まっている。校舎の軒先には、同じように傘を忘れた生徒が数人、雨を恨めしそうに眺めていた。
黒瀬は棒立ちで雨を見つめた。走って帰ればいい。十五分程度の距離だ。濡れることくらい、何でもない。夜の任務では暴風雨の中を走ったこともある。
だが日常では、ずぶ濡れで帰宅する高校生は目立つ。目立つことは——
「黒瀬くん、傘忘れたの?」
横から声がかかった。
白石凛が、紺色の傘を手にして立っていた。制服のスカートの裾が少し濡れている。生徒会の仕事で遅くなったのだろう。
「……ああ」
「一緒に入る?」
白石が傘を差し出した。真っ直ぐに。迷いなく。
「いい。走って帰る」
「ダメだよ。こんな土砂降りでびしょ濡れになったら風邪引くでしょう。明日のテストに差し支えるよ?」
「風邪は引かない」
「そういう問題じゃないの」
白石がぐいっと傘を黒瀬の頭上に広げた。強引だった。有無を言わさぬ笑顔。これは拒否権がないパターンだと、黒瀬は数週間の付き合いで学んでいた。
「……駅まででいい」
「うん」
白石が嬉しそうに頷いた。
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相合い傘。
紺色の傘の下で、二人の肩が触れそうな距離。白石の方が少し背が低いため、傘は自然と白石側に傾いている。黒瀬の右肩が雨に晒されていた。
だが黒瀬は何も言わなかった。傘を自分の方に引く気もなかった。
校門を出て、住宅街の道を歩く。雨音が周囲の音を全て飲み込んで、二人だけの空間を作っていた。
水溜まりを避けながら、白石が口を開いた。
「ねぇ、黒瀬くん」
「何だ」
「黒瀬くんって、時々すごく遠くを見てるよね」
黒瀬の歩幅が、わずかに乱れた。
「何を考えてるの?」
「……別に。何も」
「嘘」
白石の声は、それまでの柔らかなトーンではなかった。静かだが、はっきりとした切れ味があった。
「あなた、何か隠してる」
黒瀬は横目で白石を見た。白石は前を向いて歩いている。表情は穏やかだが、瞳の奥に——何かを確かめようとする鋭さがあった。
S級エージェントの直感。白石凛はただの美少女ではない。戦場で培った観察眼がある。人の嘘を見抜く目を持っている。
——まずいな。
黒瀬は内心で舌打ちしつつ、表情筋を一つも動かさずに答えた。
「買い物だ」
「……え?」
「夕飯の献立を考えてた。冷蔵庫にキャベツと豚肉が残ってるから、回鍋肉にするかホイコーローにするか」
「それ同じだよ……」
白石が吹き出した。張り詰めていた空気が一瞬で緩んだ。
「もう、せっかく真剣に聞いてたのに」
「真剣に答えた。夕飯は大問題だ」
「はいはい……」
白石が苦笑しながら、雨に濡れた黒瀬の右肩を見て、傘を少し右に傾けた。白石の左肩が雨に濡れ始めたが、白石はそれを気にしなかった。
黒瀬はそれに気づいたが——何も言わなかった。
駅に着くまでの十五分間。二人は時々言葉を交わし、時々黙って歩いた。雨音だけが絶えず二人を包んでいた。
「じゃあ、ここだね」
駅前のロータリーで、白石が足を止めた。
「傘、持っていっていいよ。明日返してくれれば」
「いらない。ここから走る」
「……もう、素直じゃないなぁ」
白石は少し呆れた顔をしたが、すぐに微笑んだ。
「じゃあ、また明日ね。黒瀬くん」
「……ああ」
白石が傘を広げて去っていく。雨の中に消えていく紺色の傘を、黒瀬は数秒だけ見送った。
それから、雨の中を走り出した。
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白石凛の部屋は、黒瀬のアパートとは正反対だった。
閑静な住宅街に建つ一戸建て。白石家は代々特務機関と関わりのある異能者の名家で、凛もまた幼少期からエージェントとしての英才教育を受けて育った。
自室はシンプルだが品がある。白を基調としたインテリアに、本棚にはエージェントのマニュアルと少女漫画が同居している。机の上には学校のプリントと特務機関の書類が重なっている。
シャワーを浴びて髪を乾かした白石は、ベッドの上に仰向けに転がった。
天井を見つめる。
「掃除屋さん」のことを考えていた。
あの人は、いつも私のピンチに現れる。敵の能力を消して、窮地を救ってくれる。でも、一度も姿を見せてくれない。名前も、顔も、声も知らない。ただ、あの人がそこにいるという「気配」だけが——ほんの一瞬、戦場の空気の中に残る。
「黒瀬くん」のことも考えていた。
ぶっきらぼうで、無愛想で、会話のキャッチボールが下手で。でも——嘘をつかない。嫌な時は嫌と言い、でも最後には受け入れてくれる。一緒にいると、不思議な安心感がある。
二人は全く違う人間のはずだ。
掃除屋さんは夜に現れる戦士。黒瀬くんは昼間にいる、ちょっと変わった男子高校生。
なのに——
「……同じ匂いがする」
白石は自分の呟きに、自分で驚いた。
同じ、安心感。同じ、静かな強さ。説明できない共通点が、白石の中で絡み合っている。
枕に顔を埋めた。
「……私、黒瀬くんのこと、気になってるのかな」
頬が熱い。掃除屋さんへの気持ちとも、友人としての好意とも違う——もっと生々しい、胸の奥が甘く疼くような感覚。
「どうしよう……」
白石凛は、自分の感情に名前をつけることを、まだ恐れていた。
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その夜。
東京の地下、さらに深い層。
一般人はおろか、裏社会の住人すら立ち入れない領域。蛇の目のさらに上位に位置する組織——『深淵』の通信室で、暗号化された指令が発信された。
受信先は、都内に潜伏する複数の工作員。
指令の内容は簡潔だった。
『特務機関のS級エージェントが通う学校を特定した。潜入工作員を送り込め。目標——S級エージェントの正体確認、および周辺の異能反応の調査』
モニターの前に座った管制官が、指令を確認して頷いた。
「工作員の選定は完了しています。C級異能者、能力は感知拡大。偽装身分は……潜入先の用務員です」
暗号通信の向こうから、冷たい泥のような声が返ってきた。
「蛇の目の残骸を踏み越えてでも、あのS級エージェントを確保しろ。そしてもう一つ——能力を無効化する異能者がいるなら、そちらも特定しろ。我々『深淵』にとって、どちらも極上の駒になりうる」
プツリ、と通信が切れた。
後に残されたのは、暗い部屋を不気味に照らすモニターの青白い光と、静かに蠢き始めた新たな悪意の気配だけだった。




